第十五話 痣の呪縛
ぐったりと体を預けている妃奈の髪を愛おしげに撫でながら、アレクは穏やかに切り出した。
「妃奈、そちに話しておかねばならぬことがある」
何事かと振り向こうとして、妃奈は呻いた。
「……いっ、つっぅ」
鈍い痛みが身体の奥に残っているのは分かっていたが、身体を動かすことで、その痛みはひどくなった。同時に、先ほどの一連の記憶が鮮やかに蘇って、妃奈は赤面する。
「無理をするな。そのままで聞くがよい。実は先ほど、余はある祠に行っていた」
アレクはレムス王族に代々伝わる魔道具の一つである不思議な鏡『内向竜紋鏡』がある祠の話を語った。
「この国の王族が召喚した物で、この鏡がその軌跡を知らぬ物など、未だかつて存在したことがないのだが、鏡はそちの来歴を知らぬと言う」
妃奈は瞠目する。
え? それって……それって?
ぞわぞわと、指先から血の気が引いていくのが分かった。
「鏡の故障か、そちがやってきた国の場所が遠すぎるのか、あるいは何か別の理由があるのか、定かではないから、もう一度検証する必要があるとは思うておるのだが、もし、そちの国の位置が分からぬということになれば、そちを国に返す手だてがなくなる」
「それじゃあ、私はどうすれば……」
もう戻れないかもしれないってこと?
「どうすることもできぬ。しかし、どうする必要もなかろう? そちは、このまま双翠宮に留まればよい。そちさえ望むならば、妃として迎える。もし、後ろ盾がなくて不安であるのならば、そちに領地を与えてもよい。余が召喚したせいで、王エルが祖国に帰れなくなったと言えば、あからさまに文句を言ってくる者もおるまい。海際でも山側でも好きな場所を選ぶが良い」
駄目だよ。そんなの、たぶん駄目。大体、OLが国に帰れなくなったからって、領地を譲っても文句言わないって、どんだけお人好しの国なのよ。
いや、そんな事よりも……痣の呪いは、どのくらいの期間で発動するんだろうか。その問いが、頭の中でぐるぐると渦を巻く。
両親は妃奈が小学校に上がる前に別居していた。数年くらいの猶予はあるのだろうか。それとも、すぐに発動して、それに耐えられるのが数年なんだろうか。
それは限りなく後者である気がした。なぜならば、かつて妃奈が付き合っていた彼が不幸に巻き込まれたのは、付き合い始めてすぐのことだったから。
彼と付き合い始めたのは中一の夏休み。野球部で補欠にさえ選ばれない程のさえない選手だった。だけど、いつでも前向きで、笑顔の絶えない男の子で、男子にも女子にも人気があった。だから、告白された時にはびっくりはしたものの、大して迷うことなく軽い気持ちでOKした。
それが、中学一年の夏休み以降、彼は打てば必ずヒットを飛ばすようになった。元々、黙々と努力する人だったので守備はよく鍛えてあり、問題なかったし、足はさほど早くなかったのに、累に出れば、相手チームのエラーなどで着実に点を取るようになった。何もかもが、面白いように彼に味方した。
ところが、面白くなかったのは周囲だった。
一年生の癖に、運だけの癖に、レギュラーになるなんて生意気だ。
そして、不幸は唐突にやってきた。
集団リンチによる負傷。彼は脚を複雑骨折する重傷で、野球を続けることができなくなった。その後しばらくして、どこかへ引っ越したっきり、音信は途絶えた。
当時、悲嘆にくれた妃奈の様子から、事情を察した母が、妃奈の痣の存在に気づいたのだ。
その頃、まだ伝承について半信半疑だった妃奈は、大学生になった年、二度目の恋をした。ところが、信じなかった妃奈を責めるかのように、不幸が彼に降りかかった。それも、前の彼と同様、大幸運の後に。
一度ばかりか二度までも、自分に関わった人が似たような状況で不幸に陥る。そんな偶然があるだろうか。もし、痣の伝承を聞いていなければ、そんな偶然もあると思ったかもしれない。でも聞いた後では、もう無理だった。
答えは限りなく否だ。
しかも、同じ痣主の母の件を合わせれば、二度では済まないのだ。
妃奈の両親は大恋愛の末に結ばれたのだそうだ。大反対された挙げ句、駆け落ち同然の状態で結婚したのだと、祖父から聞いた。
とても信じられなかった。
なぜなら、妃奈が物心付いた時には、既に二人は別居状態にあったから。
まだ父の会社が順調に行っていた頃から、父と母は別居していた。海の近くに購入した別荘で、妃奈と母が暮らし始めたのは、妃奈が小学校に上がる前のことだった。だから父が父であるということに妃奈が気づいたのは、彼女がかなり大きくなってからのことだった。それまでの父に対する妃奈の認識は、時々やってきて、母に無礼なことを言ったりしたりして泣かせる嫌な小父さん、だった。
どうして父と結婚したのかと問う幼い妃奈に、母は、よくこう言った。
――お父さんは、元々はとても優しい人だったのよ。たぶん今もそう。でも、今はプライドが邪魔をしてしまうのね。でも、それは母さんのせいなのよ。
当時の妃奈は、母の言葉に首を傾げるばかりだったが、今ならば少し分かる。
父には自分で起業した創始者であるという自負があった。だから、それが何もかも単なる運だと言われれば、腹が立ったのだろう。仮に、誰が言わなくても、あの痣の伝承を聞いてしまえば、プライドが傷付いた筈だ。そして、その自尊心の高さこそが、父の最大の不幸だった。
――やはり、あの程度の男では、栞奈は手に負えなんだのだ。
父の会社の経営が思わしくなくなって、妃奈が祖父の家に身を寄せるようになると、祖父は度々そう呟いては舌打ちをした。そして、妃奈がいることに気づくと、決まって、哀しげに顔を歪めてこう言うのだ。
――妃奈の父親が悪い人間だと言っている訳ではないのだよ? ただ、荷が重すぎたのだ。初めから分かっておったのだ。だからこそ、儂は二人の結婚に反対しておったのだがね。
そう言って祖父は弱々しく笑んだ。栞奈とは母の名だ。
父の死と母の自殺の知らせを受けてから、祖父はすっかり気落ちして老け込んでしまった。小さく丸まった背中を思い出す。
――妃奈は、ずっとここに居ってくれ。ここで一緒に寺と神社を守ってくれると、爺は嬉しいんだがの。
そう言われた当初は、妃奈もそうするつもりだったし、実際、神社で働き始めてもいた。ところが、それは長くは続かなかったのだ。
「妃奈、妃奈? どうした?」
アレクに肩を揺すられて、妃奈はふと我に返った。
「……それって、私は、もう元の世界に戻れないってことですか?」
呆然と呟く妃奈に、アレクは悲しげに顔を歪めた。
「やはり……帰りたいか。お祖父様がいると言っていたな。気になるのであろうな」
自分といると不幸になる。だから、どうしてもアレクと一緒にいる訳にはいかない。そんなこととても言い出せなかった。
信じてもらえる自信がなかった。そもそも向こうの世界でも信じてもらえなかったのだ。実際に何事か起こるまでは。
それに、自分が不幸を呼び寄せてしまうことを知っていながら、自制できずに抱かれたのは妃奈だ。帰れない場合もあるだろうことにも薄々気づいていた。なのに、なんでも自分の都合のいいように解釈して、自分の気持ちばかりを優先して、大事な人を巻き込んでしまった。
異世界だから大丈夫かもしれないなどと、安易に都合よく考えることは、もうやめよう。何事か起ってからでは、遅いのだ。
私は、一人で生きていかなければ。
アレクと離れなければならない切なさと、アレク以外、誰一人頼れる人がいないこの世界で、でも、アレクを頼りにしてはいけなくて……。
不安で押しつぶされそうだ。
涙がはらはらと勝手に流れ落ちた。
「泣くな、妃奈。夜が明けたら、もう一度、そちも一緒に祠へゆこう。そちを前にすれば、大鏡も思い出すやもしれぬし……な?」
気遣わしげなアレクの声が、愛おしくて、切なくて、ますます泣けた。
私は、この人を不幸にすることだけはしない、絶対に。
妃奈は泣きながら、アレクの言葉に何度も頷いた。




