第十二話 金色の果実
「アレクーっ、陛下―っ、どこですか?」
何度も名を呼びながら、丸太小屋の周りを回ってみたが、気配はない。いったん小屋に戻ってランタンに火を灯すと、丸太小屋を離れて、竜が羽を休めていた湖の畔へ向かった。
アレクは竜を使ってどこかに行ってしまったのかもしれない。
しかし、竜は変わらず、湖の畔でうずくまっていた。妃奈に気がつくと、きゅる、と鳴いて首を持ち上げる。
月の明るい晩で、真っ暗闇ではないのだけれど、やはり夜出歩くのは心細い。でも、竜の鳴き声を聞いた途端、妙にホッとした。
竜って人懐っこいのかな。それともこの竜に限ったこと?
妃奈は小さく笑むと、恐る恐る手を伸ばす。伸ばした指先に薄紫竜が頭を寄せてきたので、撫でてやると、竜は再び、きゅる、と鳴いた。
かわいい。
うす紫色の体躯は、見かけによらずさほど硬くなく、ざらりとした皮膚は、ほんのりと温かかった。
竜ってハ虫類じゃないのかな。あったかい。さっき乗せてもらった時は気がつかなかった。
「アレクはここにもいないのね」
別に返事を期待した訳ではなかったが、竜は律義に、きゅる、と鳴いた。
まるで、そうだよと言っているみたいだ。
どこに行っちゃったんだろ。
ふと気配がして振り向くと、反対側の湖岸に色とりどりの竜たちが集まっているのが見えた。
思わず息を呑んで目を見開く。
竜が……あんなにたくさん。
湖で水浴びをするもの。向う岸に群生している背の高い木から実をもいで食んでいるもの。じゃれあっているもの。それらがたてる賑やかな音や鳴き声が、水面を渡ってこちら側にまで届いて来ていた。たわわに実った果実が月の光を浴びて淡く光るので、竜たちの姿がおぼろに浮かび上がって見えているのだった。地上にもシーブ・イッサヒル・アメルのように光る実がなる木があるらしい。ただ、その木の実は一色のみで、すべて金色に光っていた。
「おまえは、あそこには行かないの?」
傍らの薄紫竜を撫でながらそう訊くと、やはり、きゅる、と小さく鳴く。
まだ行けないと言っているようで、その律義な態度に妃奈は感心した。
「そっか。もしかして、おまえはアレクのことが好きなの? そうなんでしょ?」
竜はまた、きゅる、と鳴いた。
「そっか……私も。私もね、アレクのことが好きだよ。大好き。じゃあ、私たち仲間だね」
そう言うと、竜はひと際高く、きゅるる、と鳴いた。
いったん、自分の気持ちを素直に口にしてしまうと、後は止まらなかった。どんどん、アレクを慕う気持ちが溢れてきて、息苦しくさえなってくる。
シーブ・イッサヒル・アメルのお酒が今頃効いてきたのかな。
泣きたいくらいアレクが恋しい。
あんな姿を見てしまった今でも、それは変わらない。むしろ、妃奈を傷つけまいと自制してくれていた姿に感動さえ覚えてしまう。
どうしよう。私は、どうしようもなく、アレクに惹かれてる。止められないよう。もう誰も好きなったりしない。そう決めていたのに……。
でも、もうすぐお別れなんだ。私は私の世界に戻るんだから。
なんだろう、この胸の痛みは。息ができないくらい、痛い。
胸を押さえて俯くと、涙がぼたぼた零れ落ちて、そのうちの数滴が湖に落ちて、微かな幽かな音をたてた。
こちら側の湖岸に金色の木の実が流れついていることに、気づいたのはその時だった。向こう岸に目をやると、先ほどまで見えていた竜たちの姿はすっかり消えて、暗闇に沈んでいた。
あら? 竜たちは?
涙を拭いながら目を懲らしたが、竜たちばかりか、金色の実が生った木さえ見つからなかった。
変ねぇ。
しかし、足下の汀には金色の果実。それは桃の実のような形で、小玉スイカくらいの大きさがあった。
先ほど竜たちは、嬉しそうな様子でこの金色の実をついばんでいたようだから、きっと竜の好物なのに違いない。
薄紫竜にあげようと、持っていたアレクのマントを近くの岩の上に置き、両手を伸ばして木の実に手を伸ばす。木の実は、妃奈の指先に吸い寄せられるように漂ってきた。
「とれた!」
抱えあげてみると、その実はずっしりと重くて、甘い良い匂いがした。
嬉々として竜の元に駆け寄り、差し出すと、竜はきゅるきゅる喉を鳴らして、木の実を食んだ。妃奈はすっかり嬉しくなって、もっと流れついていないかと、湖面をキョロキョロと見回す。少し深いところに金色の実が沈んでいるのが見えた。それは先ほどの実よりもかなり大きいようで、水中で淡く金色の光を発していた。
大きいから沈んじゃったのかな?
汀に膝をつき手を伸ばす。湖の水は冷たかったけれど、想像していたような痛いほどの冷たさはなかった。でも金色の影は思ったよりも深いところにあるようで、指先にさえ触れない。
思い切って身を乗り出し、ストレートロングの髪先が水に浸るのもかまわずに腕を伸ばす。水中をまさぐる手が、何かに触れたような気がして、更に手を伸ばした時だった。
「あっ!」
酔っていたせいなのか、突然バランスを崩して体が傾ぐ。
岸で支えていた方の腕が自重に耐えきれなくなり、がくんと折れて、世界が反転した。次の瞬間、妃奈は片方の腕を伸ばしたまま頭から湖に転落していた。
体中を包む冷たい水。真っ暗な水中。
しまった、と思った時にはもう、何に掴まることもできぬまま、湖の中に沈んでいた。
暗く、深く、冷たい。
どこかで、悲鳴のような甲高い鳴き声が聞こえた気がした。絶望的な湖の深さに、慌てて浮上しようと試みて、何度も水を蹴り、手を水面に出そうともがく。足の下には底知れぬ闇が広がっており、それは浮上するよりも、逆に引き込む方に加担しているのではないかと疑いたくなるくらい重く足に纏わりついた。息が苦しくなって、がはっと肺の中の空気を吐き出し、絶望に沈み始めた頃、何か温かいものが手首を掴んだ。そのままぐっと引きあげられる。
「何をしておるのだ、そちはっ!」
アレクだった。
吸い込んでしまった水のせいで、ひとしきり咳こむ。
「ううっ、アレクっ。怖かった、怖かったよう」
マジで怖かった。いい大人だけど、号泣しちゃうくらい怖かった。異世界で溺死なんて、雑魚キャラもいいところだ。年甲斐もなくわーわー泣いていると、ぎゅっと抱きしめられた。
「ちょっと目を離すとこれか。まったく、そちは……」
どうして丸太小屋を出たのだとこわばった顔で問うアレクに、寒いだろうと思ってとマントを指すと、アレクは一瞬虚を突かれたような顔をして、そして、表情を緩めて溜息をついた。
「寒いからとマントを持って来て、湖に落ちるやつがどこにいる? ビショビショのそちを抱きしめたせいで、余までビショビショだ。かえって寒くなったわ」
アレクはひとしきり文句を言ってから、妃奈は馬鹿だな、と言いながらもう一度強く抱きしめた。
「……そちは、余が怖くはないのか?」
怖くない、アレクが戻って来なかったらどうしようかと不安だったと妃奈が言うと、アレクはほっとした表情をしてから、そっぽを向いて、戻るぞ、とぶっきらぼうに言い放った。




