第十一話 内向竜紋鏡
アレクは気持ちを鎮めるために、湖の東の端にある祠へと向かっていた。湖の周りは不思議なくらい雪がないのだが、湖から少し離れると、真っ白な雪景色が広がる。山の頂の空気はとても澄んでいて、痛いくらいに冷たい。夜になれば尚更だ。だが、今はそれが心地よい。高ぶった気持ちを鎮めるにはもってこいだ。
くるぶしまで雪に埋もれながら、祠がある小高い丘を登る。新雪がサクサクと小気味良い音をたてた。
自分が魔物であるという自覚はある。王族の血脈に生まれた者ならば誰でも、少なからず持っている本性だ。人の生き血を啜るのは、喉を潤す為でも、空腹を満たす為でもない。それが含有している、生命エネルギーを摂取する為だ。生き血を飲み下した時の、あの高揚感と恍惚感は、筆舌に尽くしがたい。神経に障るあの味さえなければ、アレクとて、血を啜ることを敬遠はしなかっただろう。そうすることができれば、レムス国皇帝として、揺るぎない自信をもって君臨することができるのかもしれない。そうなりたいと思ったし、そうなれるように努力もしてきたつもりだ。……妃奈が現れるまでは。
魔族が統治していない国。それどころか、魔族など存在すらしない国。妃奈がいる国は、そんな国なのだ。この世界のどこかに、そのような国があって、それでも平和に暮らせる場所があるのだとしたら、その国こそが、アレクが自分らしく生きられる場所なのではないか。再びレムス国の形が整い、良い状態でテオに帝位を譲ることができれば、その国へ妃奈に会いに行くことが許される日が、いつか来るのではないか。
それはアレクにとって、甘美な希望になった。
何のしがらみもない場所で、妃奈と二人で仲睦まじく、ささやかな暮らしができたら……。
妃奈の血を飲んで垣間見た彼女の生活は、実に摩訶不思議なものだった。燭台がないのに明るく、銀色の持ち手を上げ下げするだけで水もお湯も思いのままに出てくる管や、火の気がないのに料理を入れてスイッチを押すと温まって出てくる箱や、置くだけで調理ができる棚などが、さほど広くない、いや正直に言おう、すごく狭い部屋の中に機能的に配置されている。これらを駆使して、妃奈は自分で料理を作るのだ。そして、その料理の食材は、大きくて四角い冷たい箱の中で冷やされている。
なるほど、こんなに便利で不思議な道具があるならば、自分でやってみたくなる気持ちも分かるし、そうなれば、食事係など必要なくなる。妃奈が住む国は、魔力がない代わりに、不思議な道具を作り出して便利に暮らす国なのだ。
妃奈の血を飲むことによって得られたこれらの情報は、ごく一部に過ぎないに違いない。妃奈の国に行けば、もっともっと、珍しくて、わくわくする物があるはずだ。それを妃奈に案内してもらいながら観て回れたら、どんなに楽しいだろうか。
だが……、
瞬時に、妃奈の怯えた瞳を思い出し、がっくりと落胆する。
あのような姿の余を見て、怯えきっていたな。まぁ、今まで何の説明もしてこなかったし、周囲には口止めまでしていたのだから、仕方のないことなのだが……。
もう、顔を見るのさえ恐ろしいと思っているのだろうか。
しかし……、
ふと、今にも泣きそうだった妃奈の顔を思い出して、首を傾げる。
それ以前から、何故かひどく怒っていたのだ。
あの時、妃奈は余にどのような答えを求めていたのか。
もっと具体的に答えれば良かったのか? 第一王妃は療養中で最近会っていないし、第二王妃はリュシオンと結託して余を監禁するし、第三王妃はレムス王族に怯えて、離宮に静養に行ったまま戻ってこぬのだと言うべきだったのだろうか。
あるいは……、
第一王妃の血は飲む気になれないし、第二王妃の場合は逆に襲われて血を飲まれそうだし、第三王妃の血は飲むと気分が悪くなるから飲まないのだと正直に言うべきだったのか。あ、いやこれは違うだろう。そもそも妃奈は、余の本性を知らなかったのだからな。
駄目だ。混乱しておるな。考えれば考えるほど分からなくなる。
そして思い知らされる。アレクは、もうずっと長い間、国を治めること以外は、何もかも人任せで生きてきたのだ。だからそれ以外のことは、まるで赤子同然に、どうすれば良いのか分からない。そんな自分に悄然とする。
自国のものであれば一声で、他国のものであろうと対価を払えば、何でも手に入れられた。それが皇帝としてのアレクの日常だったし、彼が必要とするものも欲するものも、その範囲を逸脱していなかった。
それが妃奈になると勝手が違った。
触れたいのに、嫌われてしまいそうで、抱きしめたいのに、壊してしまいそうで、失うことを恐れて、身動き一つできなくなる。妃奈の笑顔見たさに、何でもしたくなり、泣き顔を見れば、ただオロオロとうろたえる。
余は一体、何をしているのか。
人の心を手に入れることが、これほどまでに難しいことだったとは……。
しかも心どころか、あの者は、余の民ですらないのだ。
アレクはため息をつく。
十五歳で帝位についてからの十年、アレクは王朝を整えるためだけに奔走してきた。時には非情とさえ言われるほどの厳しい処断も行った。中には、アレクを恨んで謀反を企てた官もいたし、陥穽を仕掛けてくる後宮の女官もいた。まだ若いアレクに引き渡された十年前のレムス帝国は、それほどひどい有様だったのだ。官は専横にいそしみ、後宮は、嫉妬と欲望と陰謀にまみれていた。
王朝を整えるために流した血は計り知れず、ひどい時期には、毎日のように処断された者たちを焼く黒い煙が王宮から立ちのぼっていた。独裁政治を行ったつもりは断じてない。きちっと裏をとり、証拠を見つけ出し、裁判府の官吏に引き渡した。アレクは、証拠を見つけ出すことに長けていた。彼の能力をもってすれば、それらはさほど難しい作業ではなかったのだ。
新皇帝は、千里眼の持ち主だ、などというまことしやかな噂が王宮中に流れ、疚しいことがある官は、アレクを畏れ、自らが犯した罪状に怯え、国外に逃げ出した者も少なくなかった。
官にどう思われようと、畏れられようと憎まれようと、国を立て直すために、やらねばならぬことだった、流さねばならない血だった。それだけは自信を持って言える。ここ一、二年で、ようやく国は正常に機能するようになってきた。すべては民の為だ。専横がやんだ国庫は順調に潤い、それを、地を治めるための公共事業にまわすことで、災害が減り、治安が回復し、国土は豊かになった。
ここまでが自分にできることだと、アレクは思っている。国土が豊かになれば、次はそれを守るために、力のある皇帝が立つ必要がある。力があり、なおかつ、血で手を汚していない清廉な皇帝が。しかし、それは自分ではない。
祠の周りにも雪が積もっていたが、呪を唱えると、岩戸は難なく開いた。
祠の奥には、巨大な大鏡が安置されている。内向竜紋鏡という。一般人にとっては、それは単なる鏡に過ぎないが、レムス王族はこれを使って、召喚の魔法を発動することができる。魔力がまだ不安定な幼少期、王族のほとんどが、召喚の補助魔道具として、この鏡の世話になる。しかも、この大鏡は、召喚魔法を補助するだけでなく、召喚したものすべての軌跡を記憶しているのだ。それは、この大鏡を使わずに召喚したものでさえ例外ではなかった。
アレクが呪文を唱えると、大鏡はにわかにその鏡面を曇らせ始めた。オパール色の白い靄が渦巻く鏡面から、幼子のような稚ないクスクス笑いの声が響く。
『第二十四代皇帝アレクシオス・ドゥ・レムス。久しぶりだね。君が添い寝用のぬいぐるみの竜を召喚してから十五年、初めて血入りのビスコッティを王宮のごみ箱に逆召喚し、街のバールから代わりのビスコッティを召喚してから十年、君が泣かせた第三王妃を王宮に逆召喚してから五年……』
大鏡は邪気のない声で、自身を使って召喚した物の履歴を読み上げる。
「もうよい。しつこいぞ。来る度に召喚履歴を読み上げるのはやめよ」
鏡に向かって、アレクは苦い顔をした。
幼少期、休暇と修行を兼ねて、家族でよくここを訪れた。いつもなら、召喚せずに私物は自分で持って来るようにしていたのだが、ある年、愛用の抱き枕を王宮に忘れたことがあった。結局、寝つけずに、真夜中にこっそり鏡を使って召喚した訳なのだが、それを十五年経った今でも、鏡は忘れずにネチネチとからかって来るものだから堪らない。それに、血入りのビスコッティは食べる気にならなかったのだし、第三王妃、セレンの件はアレクが泣かしたわけではない。こんな寝台もないところでは眠れないと勝手に泣きだしたのだ。そもそも、不便なところだと説明したのに、ついて行きたいと言い張ったのはセレンだったのに。連れて帰るには遅い時間だったし、寝台を召喚するのもなんだか面倒だったので……というよりは、セレン自体が既に面倒だったので、大鏡を使って逆召喚したら、何が気に入らなかったのか、それ以来、彼女は静養と称して離宮に行ったっきりだ。
アレクは大きな溜息をついた。
大鏡は、何を言えば相手が困惑するのかを熟知している。それは誰に対してもそうなのだ。弟のテオも他国に嫁いだ姉たちも、両親や、祖父母に対してもそれは同様で、それを聞きたくないがために、余程の事がない限り、大鏡を使わないし、どうしても使わなければならない時には、絶対ほかの者を伴わない。何を暴露されるか分かったものではないからだ。大鏡は、癇に障るほどの無邪気な声と、素晴らしく嫌みな性格をしていた。
「召喚物の軌跡を知りたいのだ。余が召喚した……」
突然、大鏡がアレクを遮る。
『さっき出したシーブ・イッサヒル・アメル酒なら、王宮の酒蔵からだよ。あの酒は強いらしいね。僕、飲んだことがないから分からないんだけど、素晴らしく美味なんだとか』
「それじゃない」
鏡が酒を飲めぬだろう、というツッコミは止めておく。そんな事を不用意に言おうものなら、鏡はへそを曲げて、何も教えてくれなくなる可能性大だ。
「もっと大掛かりなものだ。最近……」
大鏡は、再びアレクを遮った。
『アルビオン川の堤のことなら、東の山脈の山の一つがなくなったって知ってるかい? 君も随分無茶なことをするよね~』
「……無茶だったか? 慌てていたから、小分けにして召喚する時間が無かったのだ。なるべく影響がない場所からと思うたのだが、やはり何かあったか?」
『そりゃね、そこに住んでいた動物達や植物達には気の毒だったよ』
「そうか、それは申し訳なかったな。今度、堤に慰霊碑を建てよう」
アレクが皇帝になってから身にしみて感じること、それは、何事かを成せばそれに伴う犠牲も付いて来るという現実だ。例え役夫を募って土手を築いても、犠牲になる小動物はいるだろうし、役夫として働き手が奪われれば、その家は困窮する。事が大掛かりであればあるだけ、犠牲も大きくなる。だからといって治水を怠れば、甚大な災害が更に民を苦しめることになる。何を切り捨てて、何を取るのか。此の十年、そんな事ばかりを考えて生きてきた。その結果、切り捨ててきたものなど数知れない。
そんな自分が今更、色恋沙汰など笑止千万か。
そう考えると、次第に沈んだ心持になってきて、アレクはひっそりと黙りこんだ。
『ふふふ。分かってるよ。君が聞きたいのは、そんな物じゃないよね。妃奈という名の小娘のことなんでしょ?』
無邪気に笑ながら歌うように問う大鏡に、アレクはふと顔を上げた。
そうだ。この際、余の気持ちなどどうでもよいのだ。あれの国の場所を知らねば帰すこともできぬからな。嫌われてしまっても仕方がないが、せめて約束くらい果たさねば。
「そうだ。その者が、どこから召喚されたのかを知りたいのだ」
『どうしよっかなぁ。教えようかな。やめておこうかな』
無邪気なからかい口調の大鏡に、いい加減イライラし始める。が、アレクは努めて語気を和らげた。
「頼む。教えてくれ。あれは余の大事な客人なのだ。余には、客人を無事に送り返す責任があるのだからな」
『客人? 責任? つまんないな~。そんなつまんない理由なら、おーしえない。あ~、つ~まんない』
大鏡は歌うように言ってから、盛大にクスクス笑った。
「このオンボロ鏡っ。木っ端微塵になりたいのか?」
アレクは佩刀していた剣を抜いた。
「してみれば~? 言っておくけどね、僕はレムス王家の至宝だよ? 皇帝の代わりはいるけど、僕の代わりはない。よーっく考えてからにするといいよ」
まったく、忌々しいにも程がある。しかしながら、大鏡の言うことは正論なのだ。自分の代わりなどいくらでもいる。
思わず叩き割りたくなる衝動を、叩き割る想像で宥めながら、アレクは剣を鞘に戻した。そして膝をつく。
「……頼む。妃奈の国の場所を教えてくれ。さすればそちの願いを一つ、なんでもきこう。約束する」
大鏡のクスクス笑いが突然やんだ。
『惜しいな~。その条件はすごく魅力的だから、教えてあげたいところなんだけどね。無理なんだ』
「何故?」
アレクは驚いて問う。
『彼女がどこから来たのか、僕にもわからないんだよ』
大鏡はそう言うと、乳白色に渦巻く鏡面を徐々に薄めていき、やがて元の鏡に戻ると沈黙した。
大鏡が召喚物の軌跡を見失ったことなど今まで聞いたことがなかった。
「……どういうことだ?」
一人、呆然と独白するアレクに、しかし答えるものは無かった。




