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第一話 陛下とOL

連載はじめました。2013/7/25(木) 招夏

 嵐だった。雷鳴が轟き、雨は容赦なく屋根を打つ。風は悲鳴をあげて渦巻き、何かが飛ばされて砕ける音や、金属性の物が引きずられて鳴らすガラガラという音が、絶え間なく聞こえていた。

 どこか遠くで、猛獣が威嚇しているような、怯えているような、低いうなり声が聞こえた。室内を走り回る多くの足音。誰かの悲鳴、叫ぶ声。

「陛下は? 陛下はいずこに?」


 ヘーカ? ヘイカって、陛下? まさかね。


 意識は鉛のように重かった。渾身の力で瞼をうっすらと開けてみたものの、ここがどこなのか、自分は何をしているのか、今が朝なのか夕方なのか、そんなことさえ分からない。窓から差し込む陽射しは、弱くて、朝なのか夕方なのか、はたまた嵐のせいで薄暗いのか、判じ切れなかった。

 分かるのは、自分がひどく豪奢なベッドに横たわっているということくらいだ。


 佐伯妃奈さえき ひな、二十五歳独身は、実に豪奢にして重厚なベッドに横たわっていた。彼女は、小さな会社のふつーのOLである。よって、このようなベッドに横たわっていることは、日常ではない。

 ノロノロとしか働かない頭で、懸命にここへ至った経緯を思い出してみるのだが、残念ながら、記憶が皆無だった。もしや飲み過ぎた挙げ句、どこかの不埒者にお持ち帰りされたのではないかと、よく回らぬ頭であたりに目を凝らしてみたが、思い出す手掛かりになるようなものは見当たらなかった。

 うううう、頭が重い~。

 お持ち帰りされる……という言葉は、妃奈がOLになってから覚えた言葉だ。今までに、そのような事態に陥った経験はなかったが、仲の良い後輩OLからよく説教されていた。

 ――妃奈先輩、いくらお酒が強いからって、そんなに勧められるまま飲んじゃ、お持ち帰りされちゃいますよ。

 鈴ちゃん、これ、お持ち帰りされた訳じゃないよね。頼れる後輩、鈴ちゃんに心の中で呼びかける。当然、返事はない。


 ベッドの天蓋からは、オーガンジーのカーテンが幾重にも垂れ下がり、柔らかで優美なドレープを描いている。しかし、その薄い布ごしに見える部屋は、当然自宅でも会社でもなく、幸いなことに、いかがわしそうなラブホでもないようだった。何もかもが、いちいち重厚にして荘厳。格式が高そうだ。

 ここは……どこだろう?

 そもそも、妃奈は酒にめっぽう強い。彼女がつぶれる前に、相手がつぶれる。だからお持ち帰りなどできるはずもないのだが……。

 ということは、これは夢? 私は夢を見ているの? あぁ、きっとそうだ。これは夢にちがいない。

 この結論は、比較的すんなりと受け入れられた。しかし、だからこそ、焦る。

 だったら、起きなきゃ……起きなきゃでしょ。もう随分眠っているようだし、そろそろ会社に行く時間のはずだ。なのに、疲労は渾々と湧く泉ようで、ちっとも覚醒できない。瞼が重い。体が動かない。

 どうしよう……私、病気かも。


 薄闇に揺らめく光が浮かんだのは、意のままにならない体と格闘していた時だった。

 部屋に入ってきた人は、燭台を手にしていた。光が揺らめいているのはそのせいだ。

 燭台? 今の時代に燭台?

 横たわったまま見上げているからだろうか、かなり上背がある男の人。蝋燭の乏しい灯りに照らされたその人は、実に麗しい容姿をしていた。煌めく金色の髪。少しつり目気味の、シャープな瞳はラピスラズリ。すっきりとした鼻筋。ジャンルで言えば王子様系。分類するなら観賞用。

 私、まだ夢を見ているの?

 回らぬ頭で考えを巡らせる。やがて男は、少し恨みがましい瞳で妃奈を見つめて、こう言った。

「そちは、何故現れたのだ? 呪文をわざと間違えたのに……」

 呪文? わざと間違えた?

 男は、少し途方に暮れた様子で、妃奈が横たわっているベッドに片膝を乗せた。重みでベッドがぎしりと沈む。

「なるほど、よい匂いがする。余の好みの匂いだ。凛然として清澄。花の香にも似て……実に、そそられる」

 体温を感じられるくらいの距離で、男はそう呟いた。長い指先が妃奈の頬をなぞる。

 まさかとは思うんだけど、嫌な予感がしませんか?

 妃奈は、必死に身をよじって男の手から逃れようと試みるが、相変わらず指一本動かすことができない。

「手加減はするつもりだが、自制できなかったら……許せ。そちの匂いに酔いそうだ」

 そう言うと、男は、妃奈の襟元をつかむと、引き裂く勢いで大きく肌蹴けさせた。

 きゃあ、私、襲われてる? やだっ。やだよ、いくら美形だって、見も知らぬ男の慰み者になるのなんかいやだ。

 渾身の力を込めて持ち上げた腕が、力なく男の胸を押す。

「これは驚いた。これほど強い呪を施しているのに動けるとは。そちは、一体何者だ?」

 何者かと訊かれても、発声すらできないのですが? 腕を動かせたのだって、単なる火事場の馬鹿力にすぎない。だって、私はふつうのOLなんだし。否、ちがうな。二十五歳過ぎて、お局になりかけてる、お局候補生のOLなんですぅ。新入社員の男の子なんか、怯えてバリバリ敬語でかしこまった話しかしないし、合コンなんか、もう声さえかけてもらえないし、週末は日がな一日家でごろごろして、撮り溜めたテレビ番組観てるか、本読んでる人間なんです。だから私なんか抱いたって、つまんないですよぉぉ。

 しかし、声にはならず、

「い……や……」

 ようやく喉を越えたのは、この言葉のみだった。ままならぬ体がもどかしくて、涙が零れる。

 首筋にくちびるを這わせていた男が、ふと顔を上げて小さく笑んだ。長い指を髪に埋めて優しげに何度も梳く。その仕草がやけに恋人めいていて、逆にうろたえてしまう。

 次いで、男は睦言のように耳元で囁いた。

「もしかして初めてか? 何、心配することはない。痛いのは始めだけだ。すぐに気持ちが良くなる、らしい。余は経験がないから、分からぬが……」

 やだ……やだやだ、こんなのあんまりだ。こんなこと、彼にだってされたことないのにっ。……って嘘です。彼なんていたことないですぅ。見栄でした。嘘ついてゴメンナサイ。謝りますから神様、助けて~。

 しかし、助けてくれそうな神様など現れる様子もなく。

「力を抜いておるがよい」

 そう言いながら、男はおもむろに、指輪と耳飾りを外していった。どれにも精緻な彫りが施された高級そうなものだ。そしてそれらを一つ一つ外していくうちに、彼の纏っている空気が少しずつ変化した。

 瞠目して見上げる妃奈の目に飛び込んできたのは、アメジスト色に変じた瞳と唇からはみ出した鋭い牙。妖艶なまでに美しいその容姿。

 きれ……い。

 魅入られたように、目をそらすことができない。今まで感じていた恐怖や動揺が、麻痺したように霧消した。ただただ、その芳醇で、蠱惑的な眼差しを見つめる。

「いい子だ」

 男はそう言って笑むと、首筋に舌を這わせた。

 やがて、首筋に走る鮮烈な痛み、次いでやってきた甘美な陶酔。

 やぁぁ……。

 痺れるような快感。

 妃奈の意識は、白い光に呑まれて消失した。


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