閑話002 眠れよ時が満ちるまで
その二。
サー・エセルバート・ゴメスことエセルバート・ゴメス・北征勲爵士あるいは
勇敢なる大尉・エセルバート・ゴメス。親からいただいた爵位と名前を格式ばって言うならば、エセルバート・ルイス・アカーテース・セツ・ゴメス・ローウェル=トゥーロ(トゥーロ子爵エセルバート・ゴメス・ローウェル)という、長い名前を持つ男が、周りの心情を推察した話。
宿に戻り、先に湯をもらったエセルバートが風呂から出た頃には、彼女はソファで転寝をしていた。どういう経緯でそう落ち着いたのか、意外にも頭を横のジョン・ドゥの膝に乗せていた。乗せている泥人形は顔を下げるでもなく、じっとまっすぐに対面の壁を眺めていた。
濡れた髪を拭きながら、なんとはなしに向いに座る。彼女に触れるでもなければ、人形は特に何の動きも見せないことを、一両日中で知っていた。
彼が向かいに腰を下ろしても、目を覚ます気配はない。せわしない2日間の締め括りが、魔道具店で懇々と説教されるというものだったので、精神的に疲労したのかもしれなかった。
精魂込めた魔道具をこんな風に扱うなんて、とひしゃげたOSGGR-01を嘆くステフェン・スクルドと、フォローしようとしてるのに何でエスカレートさせるんだ、とステータスの魅力上昇に悲鳴をあげたジャン・ポールに挟まれ、義従妹は申し訳なさそうに身を縮めていた。挙句にイムホテップの口車に乗せられ、流れのまま一緒にポーズを取っていたのは流されすぎだろうと思ったが、面白かったので放っておいた。
途中から3人が顔を見合わせて悪そうな顔をしていたのに気づかないのだからなあ、とエセルバートは他人事のように考える。実際他人事なのだが、帰りの馬車でぐったりと「何でこんなことに」と呟いていた姿には、呆れ混じりとはいえ同情の念を禁じえなかった。
いずれにせよ疲れて眠っているのを幸い、まじまじと対面の相手の顔を見る。
白皙の面は今、興味をくるくると映す瞳を閉じていて、生命の匂いが薄い。完全左右対称なそれはある意味整いすぎていて、表情がなければ彫像のようだ。ジョン・ドゥと並んでいれば、なおさらそう見える。いかな好みの差があれど、これを美しくないと評する者はまずいないだろう、とエセルバートは思う。
が。
視線を少し動かす。
すいよすいよと幸せそうに寝息を漏らしている彼女は、半開きの口からよだれを垂らし、頭を乗せているジョン・ドゥの膝を濡らしていた。何か食べる夢でも見ているのか、もごもごと口を動かしている。
……なんというか、ものすごく残念だ。
美術品が生活臭を漂わせるのが、これほど残念とは思わなかった。そういったものに疎い彼さえそう思うのだ、審美眼に優れたものは本気で嘆くだろう。
彼女の魅力の値は総じて高い。実際、顔の整い方は化け物じみている。包む雰囲気も、初対面の相手にも警戒心を抱かせない。はじめにそのステータスを確認した時は、詐欺師かと思ったほどだ。が、その性格がわかるにつれ、詐欺師かと疑った自分を笑い飛ばしたい気分にはなった。
この緊張感がないというか平和というか抜けているというか。よく言えばあっけらかんとした平凡さが現れた性格は、外見と見事につりあいが取れていない。が、実際、叔母と2人で離島で暮らしていれば、自分の容姿に無頓着にもなるだろう。
それが彼女なのだろうかと、よだれをたらして暢気に眠る顔を見ながら思う。
しかし。
記憶に一番残るのは、のんびり笑っている顔でなく、ふとした時に見せる感情の抜け落ちた顔だった。何を考えているのか全く悟らせないそれは、おそらく無意識なのだろう。気を抜いているような気配のときにわずかに顔をのぞかせる。
ふと感じさせられる張り詰めた雰囲気は、緊張感のない性格と正反対で、彼女を知ればこそひどく目をひく。もとより整った顔は、表情がなければ恐れさえ抱かせた。
だからだろうか、と目の前のテーブルに視線を落とす。
そこには、広げられた日記帳と、一枚のカードがあった。見覚えのあるカードは、「聞き耳のジョージ」の通称で知られる、王国情報局長ジョージ・トゥルーマンのものだ。普通の大人などよりよほど賢しく気難しい殿下方だけでなく、まさかあの男にも目をかけられるとは。
偶然とは思えないほど、選んだような相手ばかりだ。だからこそ、彼らをひきつけたのは、彼女の見目や雰囲気ではありえない。もちろん、善良な平凡さも違う。
おそらくだが、彼女が時折無意識のうちに覗かせる、性格に似つかわしくない妙な危うさこそが、一番人を動かすのではないか、とエセルバートは考える。自分の記憶に残るのと同じように、他の目をひきつけたのだろう。
マティルダ姫やアルヴィン王子のように、民のためにと自らに課している王族や、エスター、デヴィッドのように、平和のためにと使命に燃える真面目な隊士にとって、彼女の持つ善良さは守るべきものの象徴となるはずだ。ところが、彼女は協力して逆に恩を作るもそれを気にせず、さらに少し注視すれば何か張り詰めた空気を覗かせている。気にもかかるだろう。
おまけに。
ちらりと、彼女をひざに乗せている高度泥人形を見やる。その視線は、全く揺らぎもせずに真正面の虚空を見ている。あいもかわらず、愛想のかけらもない顔だ。
面白くもないそれを見て、エセルバートは話しかけた。
「冷たくないか」
「全く」
主のよだれで濡れているひざについて問えば、即答である。とはいえ、返事があるとは思わなかったエセルバートは、思わず相手を見返した。よく見れば、相変わらずその表情に変化はないが、何とはなしに満足そうに見えなくもない。
それを見て、少し鼻を明かしたくなったのは、まあ仕方ないことだろう。
「彼女は風邪をひくかもしれないが」
なので起こして風呂に入れようと思う、と続ける間もなく、ばさりとどこからか毛布が取り出された。
「……おい、どこから出した」
「寝室のものだ」
持ち物でないらしい。転移魔法は一般に失われた過去の遺物とされているのだが、流石古代文明の遺産である。昨日の誘拐団も操っていたが、そうほいほい簡単にやられると、感覚がおかしくなりそうだ。
それを丁寧にアレイスタにかけてやる泥人形を、あきれた気分で眺める。彼女をくるみ終わったジョン・ドゥは、先ほどと同じ位置に顔を戻した。その視線を揺らがせもしない。
そこには何か興味深いものでもあるのかといえば、やはり先にあるのは壁ばかりなのだが。
「なぜ壁を見る」
「我が女主人の指示だ」
妙な指示だと思ったが、少し考えればなんとなく察しがついた。おそらく、この無遠慮な視線を彼女に向けたのだろう。
妙なものに気に入られたものだ。
つらつらと考え、エセルバートは喉の奥で笑った。同じ穴の狢である、自分がおかしかった。
目を離せば危なっかしいからか、気づけば眷属として庇護対象としていた。とはいえ、彼は理想も使命もない。他と違って、彼女に恩義を感じることもなく、あるのはただの興味だけだ。
叔母は最期に、彼女に同族の群れに戻ることを望んだようだが、それでは面白くないだろう、と思う。そもそも、それを望むなら生きている間に探してやればよかったのだ。
別に、己の執着――研究に対する知識欲を優先させたことには、特に異はない。自分の執着するものにひたすら貪欲で、それ以外には見向きもしない、ゴメス家らしいと思うだけだ。それが知識に向けられるのは珍しいが、その没頭の仕方は別に珍しいものでもなかった。おそらく叔母は、彼女が魚人でなければ見向きもしなかっただろう。
だが、最期はいただけない。彼女をゴメスに引き込んだのは間違いなく叔母だろうに。
はじめはそれもよいかと思ったが、自分が興味を持ってしまえば、その相手の道を決めようとしていたことが面白くない。流れのままに、魚人族に返してしまうのは惜しいと思えた。
それに。
テーブルの上に開かれた日記帳を見る。ずいぶんと無防備なそれは、昨日は王宮に泊まったので書けなかったのだろう一昨日の日付のもので終わっている。馬車泊だった日だ。
そこには読めない文字が、ぎりぎりと刻まれていた。その前には普通に書かれているので、叔母のことではあるまい。
なぞれば、はっきりとわかるほどに力が込められている。
大人しく魚人族を探しているだけでなく、彼女は、何か含むものがあるのだろう。確信が持てるわけではないが、血の故か、この手の予感が外れたことはない。なにやら面白いことが起きそうだ、という騒乱の予感。
彼女が動くのであれば、何か起きるだろう。なぜか妙に騒動に好かれる娘だ。今はまだ争いの気配が苦手なようだが、これとてゴメスだ。逆鱗をなでてやれば、化けるだろう。怯え身を竦ませ震えていても、目を逸らさぬ性根は気に入っている。
理想はともに戦場を駆けられる同族。いずれ忍び寄る騒動を楽しめるように成長してくれれば、彼としては一番都合がいい。
エセルバートは席を立った。彼が動いても、彼女は起きないし、泥人形は身じろぎもしない。自分の使う寝室の扉を開け、閉める前に思い出して振り返る。
「2時間もして目が覚めなかったら寝室に運んでやれ」
隣の扉を指して、ジョン・ドゥに指示を出した。どうせ、これはそこまで気がまわらないだろう。相手は相変わらず何の反応もなかったが、エセルバートもそれを期待したわけではない。返されるかもしれない反応を待たず、扉の向こうに姿を消した。
まあ、と彼は思う。
いずれにせよ、今はまだ時ではない。そのときまで、今は静かに眠れ。