断章002 幕間 布団の中の安心
ふと目が覚めた。
横を見れば、叔母の姿はない。広貴が寝る前に敷いた布団が、きれいにそのままになっている。目覚まし時計を見れば深夜2時。
今夜は異動のための送別会とかで、彼女はずいぶんと久しぶりに留守にしていた。それにしても遅い。帰りが12時過ぎるかもしれないから先に寝ててねとは朝に聞いたが、すでに予定時間を過ぎている。携帯をチェックしたが、特にメールも着ていなかった。
透子は連絡もなしに遅くなったりはしない。業務時間を自分で調整できるとかで、大抵は広貴にあわせて早く行き、早く帰ってくる。18時を過ぎそうな場合は、17時前にはメールで連絡がきた。そうして広貴が1人の時間をできる限り減らし、それができないときは事前に連絡する。多分、広貴が他家に遊びに行ったりして、1人で家にいるのを防げるようにという措置だ。おそらく、彼女の中では、広貴は1人で家にいるのを嫌がった子供のままなのだろう。
家事を分担したりもしているのに、未だ子供のままだと思われているのは業腹だが、かといって大人扱いしてくれと自分で言うのもムキになっているようで腹が立つ。両親を亡くした直後の不安定な時期をいつまでも覚えていてほしくはないのだが、もし記憶が朧になっているのにうっかり藪をつつきたくもなかった。それはともかく。
広貴を一人にするのを嫌がる叔母は、よほど抜けられない事情がない限り、当然、飲み会など早々行こうとしない。
それが、この時間である。子供でもあるまいしとは思うが、それとは別に不安がぞろりと忍び寄ってきた。考えるなと思っても、考えずにいられない。
大人だし大丈夫だろう、でも大人だから何かあることもあるのではないか。例えば彼女は女性だ。あれを見た同級生は美人だと言っていた――普段パンツとシャツでだらだらしているのを見ている身としてはなんとも言い難いが――、そのせいで事件に巻き込まれたり男に絡まれたりするかもしれない。はたまたもっと単純に、迷子になったりしていないとも限らない。あの方向音痴は、地図を見てても迷う人間である。
そう思えば、布団に入って一人じっとしていることに耐えられなくなった。
たった一人の家族なのだ。彼女を失うことなど、ちらと、それこそ頭の裏側で想像しようとするだけで、寒気がする。それ以上は考えたくない。
布団から抜け出し、頭の中でどうするか算段を立てる。布団の中にいたはずなのに全身が急激に冷え、反対に頭の中だけすさまじい勢いで回り始める。体を冷やすと怒られるが、何かを羽織ることなど思いつかなかった。
唐突に体温が下がったせいか、歯ががちがちと鳴る。同時に、しゃっくりのように口から漏れそうになった嗚咽は我慢した。ここでうずくまるわけにはいかない。
一番早いのは、同じ飲み会に参加したと思われる、彼女の上司や同僚に連絡することだ。緊急連絡網を叔母から渡されたので、連絡先は知っている。しかし、この時間では最終手段だろう。
では、警察や消防だろうか。といっても、緊急で事件が起きたわけではないので、110番も119番も違う。近所の交番は連絡先がわかるが――心配性の透子が、番号を冷蔵庫に貼った――、できれば飲み会があった場所の最寄の交番がいい。いつもどおりなら、朝出かける前に、店の名前と電話を置いていったはずだ。そう、居間のテーブルの上に。
そこまでを起き上がる僅かな間に頭の中で組み立て、飛び出すように和室を出る。ドアを勢いよく開けたら、何かにゴン! とぶつかった。更にほぼ同時に、ドアにぶつかって飛んだ先、すぐそこの壁に当たったのだろうか、ガン! と音がした。
急いでいる時になんだ、と舌打ちしたい気分でドアの裏を見て、仰天する。思わず声を上げた。
「何やってんの!?」
ドアすぐ裏の壁前に、頭をぐらんぐらん揺らしながら、へらへら笑う叔母がいたからだ。
「わー!」
しかも、目があった後に両手を上げて、驚かすポーズをされる。そのままお互い固まっていたが――広貴は呆れ、透子は恐らく甥っ子がリアクションを返すのを待っていた――、しばらくしてから彼女がへろりと笑った。
「驚いたー?」
どうやら、これをするために、ずっとここで待っていたらしい。普通に考えて、寝ている広貴が起きてくるのは朝なのだが、その時間まで待つつもりだったのだろうか。アホである。
このアホを心配したと考えると、急激に苛立った。焦った分だけ腹立たしい。しかも相手はへらへらと笑っている。広貴の渋面を意に介した様子もない。余計に業腹だった。
「何やってんの?
ってか、いつ頃帰ってきたのさ」
「んーと、12時くらい?」
聞いてぎょっとする。先程確認した時間は深夜の2時。2時間の間も、起きてくるとも知れぬ相手を驚かそうと、ぼうっと立っていたというのか。今は春とはいえ、まだ夜は冷え込むというのに。
「この馬鹿!
風呂入れるからちょっと待ってろよ」
「酔っ払って風呂入ると死ぬんだよ」
「こないだは入らないと死ぬって騒がなかった?」
「はっはっはー」
相手を睨みつけるが、へらりへらりと揺れて笑っている。どちらが法螺だったのか、表情からは判断できない。
と、よく見れば、ぶつけた時に打ったのか、額の肌の色が薄暗がりに濃くなっている。それに気付き、広貴は渋面をさらにしかめた。
「ごめん、いると思わなかった。
どこ打ったの」
「痛くないから大丈夫だよ、ぶつかる位置にいたの私だし」
なんでわざわざぶつかると分かっている場所にいたのか。
後から考えればアホだと呆れる気持ちが強いが、それでもこのときは怪我をさせた自分が腹立たしかった。いらだつことばかりだ。
不甲斐なさに唇を噛んで俯いた広貴に、叔母はへらりと笑う。あまり謝ると逆に機嫌を損ねることを知っていたので、口をつぐんだ。意識を、いつもの調子に無理やりに戻す。
「大丈夫だって。
んーと、おでこドアで打って、で後ろ頭壁で打った、かな」
「ドアと壁は大丈夫かな」
「え、そっちの心配?
おでこ打ったおばさんの心配もしてよ」
「舐めとけば治るんじゃない?」
「舐めてくれるの?」
投げやりな広貴の言葉に、叔母がぱっと顔を輝かせる。
「駄目人間がうつる」
「いや、うつんないよ!?
何その差別。
それに駄目じゃないし!」
夜中の酔ったテンションで、寝てる小学生を驚かそうと2時間もぼうっと立ってた人間は、駄目だと思う。
広貴の態度は――実際、夜中に迷惑をかけられた人間の態度としてはかなり寛大なものだと思われるが――、透子には不満だったらしい。姉さんに似てきた、冷たい! と不服を申し立てる。
「そんな子にはこうだ!
はっはっはー」
のっしりとのしかかり、息を吹きかけてきた。小学生と社会人だ、どれくらい体格差があるのか。思わず広貴はよろめきかけ、壁に寄りかかる。
「ちょ、くさい!
酒臭い!」
「ひーちゃーん」
「重いし!
どけよこの駄目人間!」
2時間もぼうっとしていた割りに、叔母は妙に温かい。が、何しろ重い。そして、彼女のせいで壁に寄りかかるよりも押し付けられていて、ぶつかる骨が痛かった。更に壁が冷たい。
と、広貴をつぶしていた叔母が、不思議そうな声を出した。
「ってひーちゃんえっらい冷えてるね。
寝てたんじゃなかったの?」
「……別に。
入らないならさっさと着替て顔洗いなよ。
味噌汁どうする」
「今日はいいや。
ありがとー」
透子は、酒を飲んだ日に、帰宅後よく味噌汁を欲しがる。しかし今日はいらないということで、とすると広貴は特にやれることもない。ので、早々に自分の寝床に戻ることにした。洗面所に行った叔母が水を使う音を聞きながら、和室に戻る。
先ほど抜け出した布団は、まだ暖かかった。それでも中々強張りがとけない体をごまかすように丸め、目を閉じる。次に目を開けた時は朝だろう。
と、思ったのだが。
「……なんでこっちに入ってこようとすんの」
「いーじゃん、寒いし。
くっついた方があったかいし」
人が眠ろうとしているところ、酔っ払いが布団にもぐりこんできた。はっきりと迷惑である。更にその上。
「酒くさい」
「はっはっは。
冷えた子は、あっためてあげよう。
てい!」
しかし大抵の場合、酔っ払いは人の迷惑など気にしないものだ。ふおおおおおおお、とおそらく熱量を広貴に与えるための効果音だろう物を口にしながら、叔母が抱きついてくる。こちらの気分も知らないでけらけらと笑う彼女に腹が立った。
そして、更に腹立たしいのは、抱きついてくる彼女に安心している自分だった。温い叔母の体温に、体の強張りが徐々に解けていく。
彼女は帰ってきた。そして、今、ここにいる。
実感した途端に、急に胸が苦しくなる。息が詰まり、目の奥がつんとした。堪えていた嗚咽が漏れてくる。
「って、え!?
なに、ひーちゃんどうしたの!?」
急に、透子が慌てた声を出した。急いで体を離し、顔を覗き込もうとしてくる。
顔を見られたくなくて、広貴は俯いた。額を叔母の胸に押し付ける。目をぎゅっとつぶり、ぼやけた視界に気づかないフリをした。
頭の中も、心の中もぐちゃぐちゃだ。
「どうも、してない!」
その声は、自分でも分かるくらい震えていた。このくらいで泣くなんて、子供みたいだ、と思う。
けれど、それを認めるのも、……素直に安心したことを伝えるのも、何かあったのではと心配していたことを告げるのも、どれもひどく腹立たしく感じられた。そして何より、帰ってこないのではないか、1人にされるのではと、不安を感じたことも。
いっそのこと、この苛立ちを彼女にぶつけてやろうかという考えが、鳴咽とともに頭をもたげる。
けれど。
「ごめん、本当にごめん!
もうしないから!
ごめん、ひーちゃん、泣かないで!」
叔母が、酷くうろたえている。その声がいつか聞いた泣き声に似た響きを持っていると気付いて、広貴は口をつぐんだ。
一人になることの不安を訴えることは腹立たしいと同時に、決して言ってはいけないことなのだと、わかってしまったからだった。
あの日、二人して喪失感と不安に泣きながら、それでも支えあって頑張っていこうと約束した。だから、自分は疑ってはいけない。
多分、それを自覚したら、前を向いて進むのが恐ろしくなる。広貴は、たぶん頑張れない。
だから、絶対に考えてはいけない。後ろを向いた時に、そこにいたはずの自分を支えるものが、誰もいなくなってしまうのが恐ろしい、なんて。
そしてそれは、きっと、広貴だけではない。
「……うっさい、駄目、人間。
別に、どう、も、してないって、言ってる」
「ごめん、本当にごめん!」
嗚咽交じりの声ごと、むぎゅ、と抱え込まれる。
叔母の体は温かくて、ぐちゃぐちゃになった気持ちも、心の奥底にこびりついている不安も、全部それに溶けていくようだった。
「……別に、驚いたわけじゃない」
「うん、……ごめんね」
上手くごまかされてくれればいい、と思う。
不安なんて、なかったことになればいいし、彼女はそんなこと考えないでいい。もし不安が叔母に伝われば、2人して喪われる恐怖に貼りつかれそうな気がした。何より、約束を疑っているのを、悟られたくなかった。
暖かい布団の中、不安が溶けていく。この世界で一番安心できる場所で、広貴は目を閉じた。
すべて溶けてしまえばいいと思う。
溶け出してくっついて離れなければ、きっとこんなことに怯えずにすむのだ。