028 渡り船
どくん、と心臓が大きく鳴った。目が眩んだような錯覚を味わう。
浅くなる呼吸を抑え、アレイスタは重ねて問うた。確度が低い情報に踊らされるわけにはいかない。
「どこに……」
緊張のせいか、それとも興奮のせいか。その声は僅かにかすれていた。
「……これから、どちらの方角に向かいますか」
この瞬間。アレイスタには他の音が一切聞こえなかった。恐らく部屋の中には他の音が溢れたまま。けれどそれは耳に入らず、ただどくんどくんと脈打つ、自分の血管の音だけがうるさかった。
対する返答は、今までと声の調子がなんら変わりはしない。
『北に』
しかし、その声は確実に、大きくアレイスタの耳を打った。
「乗った」
即断である。
実のところ。
甥っ子のことを言外に臭わされた時点で、アレイスタに選択肢などないのだ。
生きていることは幸運にも知ることが出来たが、彼がどこにいるのかなど知る由もない。北に居ることがわかっていて、どれだけのことをしても会いに行く気でいるが、それだけで何とかなるというものでもない。
彼女の現在地はエルゲントス王国の王都ロルー。世界を半分に区切るなら辛うじて北よりだが、その実ここよりも北の地域は、アレイスタが生きている間に回りきれる広さでない。エリゼ共和国北部、ナディビア全域、真華帝国全域、北方幻獣国連邦全域、……ひょっとしたら、ジプールの北部や遠く秋津島もここより北かもしれない。正しく、砂漠の中から一つのダイヤモンドを探し出すようなものだ。
そして、彼女の運は良くない。幸運に関してはゼロだ。「運良く見つける」のは絶望的だろう。だったら悪運に頼って、トラブルに飛び込んだ方がいい。
……とまあ、後から考えればこんな理屈がつけられる。が、実際は本能的な判断だった。腹を空かせたドラ猫の前に刺身をちらつかせたら、食いつくに決まっている。
『では、……そうですね。
10日後、昼の鐘が鳴る頃。
外郭5番街北西、リッチレイ・ロードのセント・パンクレイム・オールド教会、でどうかな』
「10日後、月終わりの大地母神の安息日ですね。
昼の鐘が鳴る頃に、外郭5番街北西、リッチレイ・ロードのセント・パンクレイム・オールド教会。
了解しました」
聞いた日時と番地を、確認のため復唱する。大事な甥っ子への導き手だ。この機を逃すつもりはなかった。
その時、再々度、轟音が響いた。
屋敷全体が揺れる。大きすぎてよくわからないが、回を追うごとに激しくなっているのかもしれなかった。その音と振動で、アレイスタは我に返った。興奮のあまり見えていなかった周りが、情報として入ってくる。
そして。
ぞくり、と全身の鳥肌が立った。
背後に、すべてを支配するような、圧倒的な気配がある。思わず振り返れば、そこにいたのはマティルダだった。
全身からうっすらと光りが揺らぎ上がり、景色を僅かにゆがませている。これほどになれば、さすがのアレイスタでも魔素を感じ取れた。視認できるほどの魔素の量と、本能的に感じるような威圧感。普通に考えて個人でありえるレベルをはるかに超えている。その昔本で読んだ、魔法攻城兵器とやらが、きっとこんなではないだろうか、そんなことを思わせた。
思わず言葉を失ったアレイスタだったが、周りは平然としている。国軍では、彼女が実力者であることは周知の事実らしい。視界の隅に見える、引きつった顔をしている誘拐犯数人に、アレイスタは親近感を持った。その気持ちは良くわかる。
対する会話の相手は、ふむ、と何かを確認したようだった。
『時間のようだね』
その声と重なるように、音が轟いた。
屋敷全体を揺らして軋ませた。先ほどまでのそれと比にならない。耳をつんざくような音だった。
同時に奥の壁が、外側からの衝撃によるものか、ぼこりと人ほどの大きさの球形に膨らんだ。とはいえ、壁には粘土のような可塑性はない。そのため、ゆがみに耐え切れなかったのか、僅かな時を開けて壁がはじけ飛んだ。
「ッ……!」
アレイスタは思わず目をつぶったが、目の前の義従兄に庇われたようで、小石や欠片を被ることもなかった。壁から遠かったのも良かったのだろう。
埃が舞う中、開いた穴から明かりが差し込んでくる。月明かり以外の光源があるのか、一瞬目が眩んだ。その中に浮かんだ、複数の人影のシルエットが目に焼きつく。
と、サー・エセルバートが動いた。がっ! と鈍い音がする。慌ててそちらを見れば、こちらに伸ばされたダミアンの腕を押し下げている。どうやら、ダミアンは目がつぶれるその刹那を狙って、動いたようだった。頭が回る男だ。
「諦めろ」
「……クソが」
とは言え、まっすぐに向かってくるあたり、彼も余裕がなくなっているのかもしれない。サー・エセルバートの言葉に、ダミアンが舌打ちをした。
埃が収まるにつれ、明かりに浮かび上がったシルエットが徐々に鮮明になる。少し目が慣れ、それが見覚えのあるものだと認めることができた。
一際大きなものはわかりやすい。恐らく副長として紹介された岩のような男、バーナード・バーン――BBだ。なので、その前に立っている鍛え上げられた体躯は、眼帯の隊長、ラトウィッジ・ギャヴィストンだろう。幼い印象の丁寧な彼、デーヴィッド・フォーサイス=ノースベロー――ダヴィー――もどこかにいるのかもしれない。
サー・ラトウィッジが口を開いた。低い声が朗々と響く。
「外は完全に制圧した。
投降することを勧める」
その声には、場を圧するような迫力があった。底が知れず恐ろしい。気が弱いものであれば、すぐに投降するのではないだろうか。少なくとも、気がさほど強くないアレイスタは、できる限り関わりたくないと思った。だって怖い。
「大人しくした方がいいぞー。
怪我したくないだろうが」
サー・ラトウィッジに続き、サー・バーナードの勧告が響く。彼の声は、大きく迫力はあるが人情味があり、サー・ラトウィッジほど恐ろしくない。そう考えれば、ちょうどいい2人組みなのかもしれない。
元は、ジョン・ドゥが穴をあけた壁側から、マティルダを守る国軍、それと対峙する誘拐犯という並びになっていた。そこに、奥の壁を壊して突入という乱暴な方法をとり国軍の別働隊が入ってきたため、国軍は誘拐犯を挟撃できる形になる。さて、誘拐犯はどう出るのか。
と、息を詰めて成り行きを見守っていたアレイスタの耳元で、先ほどのひそやかな声が聞こえた。
『申し訳ないが、そろそろ失礼する』
それを聞き、少しほっとする。
アレイスタに否やはない。せっかくの甥っ子への手がかりだ。しかし捕まったら、アレイスタに会話する機会が与えられるとは思えなかった。生きて案内してもらえなければ困る。それに、言葉をくれたダミアンもいるのだ。
国軍には悪いが、彼らには怪我なく、ぜひ逃げ出してほしい。
『では、また10日後に』
「ウェイトアウト」
暇を告げると間をおかず、隣室の奥から声が響いた。深い男性の声だ。恐らく、先ほどまで会話をしていた相手の肉声だろう。それを聞いて、やっぱりと思う。
そして、魔素が薄かった原因を知る。詠唱を聞く限り、術の行使の途中で待ちをしていたようだ。恐らく信じられないほど大きな術で、そちらに魔素が集められていたのだろう。遮断されていただけでは、消費か排出をしなければ、屋敷内の魔素が薄かった原因にならない。
先ほどの国軍別働隊突入時の余波か、隣室との壁は更に崩れて、すでにないに等しい。そのためか、今まで壁の影になって闇に沈んでいた、彼の立つ位置が確認できる。
男性の言葉に反応して魔方陣が展開される。燐光とともに展開される魔方陣が、その姿を僅かに照らし出していた。
小柄の、きちんとした格好の男性だった。格好から察するに、初老といったところだろうか。
「メイン!」
男性の声を追う様に、マティルダの高い声が響いた。彼女はすでに詠唱を終えて、別働隊の突入に合わせて待機し、事態を静観していたようだった。
高らかに、術の行使を宣言する。
「コーリング、MP 45、ペルソナ アル・ゲントラウス!」
アレイスタは、思わず息を呑んだ。
一般的な魔法――魔導であれ魔術であれ、用語としては区別せずあいまいに使われることが多く、大抵は総称して魔法と呼ばれる――の消費魔力は、大きなもので10ほどだ。なにしろ、能力値は上限がある。魔力の上限は50。回復の方法もあるが、術途中には自分で回復をすることができないし、他者による分与のような割り込みもできない。そのため、1回の魔法であまりに消費魔力が大きいと、使うごとに倒れることになる。そこに45。
けれど、アレイスタが驚いたのは、消費魔力だけではなく。
マティルダの声に呼応するように、その場の光が彼女に集まり、像を作った。先ほどまでの、ぞくりとするような威圧感が形を変える。
アル・ゲントラウス。
それは、エルゲントス王国の語源にもなった、王国の祖たる妖精王の名である。
圧倒的。他に言いようがなかった。
足元から黄金の光に包まれながら、マティルダが浮いている。彼女に重なり、かの王の姿が見えた。光そのもののその姿は、緩くだが始終形を変え、波のようにうねり、その合間に多くの顔を覗かせた。それは、若くもあり、老人のようでもあった。なかには、自分の姿さえ見えた気がした。だが、多くの姿を持ちながらも王は一人だった。
彼はその気配をもって、空間の空気一切を一度に塗り替えた。その気配は、王者というよりも支配者。サー・エセルバートとダミアンが撒き散らしていた、びりびりくるような緊張感でも、身を押さえつけられるような暴力の気配でもない。空気自体がかの王のためにあるような、また自分もその括りの下にあるような、そういった不可思議な威圧感だった。今やこの空気の中、彼はすべてを支配下に置いていた。
視界の隅で文字が踊る。
【マティルダ・ローラ・エリー・アルフレーダさんの[妖精王の人格]による支配領域に入りました】
彼が口を開く。その声はマティルダのそれでありながら、全く別のものだった。
「【跪け】」
ザッ!
決して荒げられた声ではない。大きくもない。さらに言えば、その響きが何語かもわからない。
しかし、それでもその言葉は、絶対的な命令だった。支配者の空気の元、その言葉に進んで従う。アレイスタを含みその場にいた面々は、即座に膝を折った。白髪眼鏡などの誘拐犯一味に、最後まで不本意そうに抗っていたダミアン、さらには奥の男性も同様に膝を折っている。
なぜならば、この空気の中ではすべてが王のものだった。
そのまま、全てがこのまま収束するかと思われた、のだが。
奥、男性がすでに展開していた魔方陣が、急激な速度で広がった。
それは隣室であるアレイスタたちの足元に伸びただけに留まらない。青い燐光を散らしながら、恐らく屋敷全体を飲み込んだ。さらには、その魔方陣上にて膝を折っている、誘拐犯の面々が淡く発光し、その輪郭がゆらぎはじめる。
「待て!」
サー・ラトウィッジが垂加の声を上げる。鞭のように鋭い言葉を発すると同時、彼は跪いたまま素早くチッと舌を鳴らした。
音に反応し、隣室奥の男性に向け、彼の眼帯からジッ! と細い光線が発射される。
「ひッ!?」
ちょっと、今、目からビームが出たぞおい!
アレイスタはその非現実的な光景に度肝を抜かれたが――幅広で豊かな髭持つ職人の、ほっほっほという笑い声が聞こえた気がした――、まあそんな彼女の混乱などは関係なく、その光線はすでに朧になっていた男性を突きぬけ、隣室奥の床を焼く。
揺らぎながら、ダミアンが、またねターシャちゃん、と手を振った。慌てて手を振り返そうとし、視界の前をサー・エセルバートに遮られる。
気づけば、そのわずかな間に誘拐犯一味は、きれいに姿を消していた。
視界の隅で文字が踊る。
【マティルダ・ローラ・エリー・アルフレーダさんの[妖精王の人格]による支配領域が解除されました】
「……あーあ、逃げられたなあ」
その去り際に呆然としていたが、あっけらかんとしたサー・バーナードの言葉に我に返る。
「殿下、ご無事ですか」
「完了しました。
……はい、殿下はご無事です。
目だったお怪我もされておりません。
はい……」
「追いますか」
「街道筋の検閲を残す。
残りは、明日、ここの検証をしてからだ」
立ち上がった隊士たちは、すぐに頭を切り替えて事後処理のために動き出している。
あまりのあっけなさにぽかんとしていたアレイスタは、そのままそこに座り込んでその光景を見ていた。なんだか、気が抜けたのだ。と、そんな彼女に声がかけられた。
「ターシャ、大丈夫ですか」
「ご無事ですか、女主人」
そして、被った。
同時にアレイスタに声をかけてきた2人は、同じ様に手を差し出した形で止まっている。
サー・エセルバートが目を細めるのをみて、アレイスタは思わず呻きそうになった。忘れていたが、ジョン・ドゥという厄介ごとが残っていたのだ。彼が何者かまだわかっていないし、どうして今回関わってきたのかなど、聞かなければならないのだろう。
しかし。
「……その。
明日に回したいのですが」
期待を込めて、サー・エセルバートに提案する。
正直、色々あって今日は疲れた。これ以上の厄介ごとは明日に回したい。更に言えば、明日までの間に考えなくてもよい状態になっていてくれると、もっとよかった。視界の隅で文字が踊っている気がするが、まあ気にしない。
そして、その気持ちは正しく伝わったらしい。
「そうですね。
また明日に」
そういって苦笑したサー・エセルバートが手を引いた。悪いのでジョン・ドゥの手も断り、アレイスタは自分で立ち上がる。どっと力が抜けているので、大きく伸びをした。とりあえず、早く帰って熱い風呂に入り、布団にもぐりこみたい気分だ。
と、外に促されていたマティルダに、声をかけられた。
「レイ。
……ターシャだったかしら。
馬車に一緒に乗っていきなさい。
今日は泊まっていくといいわ」
いらっしゃい、と呼ばれる。サー・エセルバートのほうを伺えば頷いていたので、ありがたく甘えることにした。着いてこようとして止められたジョン・ドゥに、サー・エセルバートらに協力するようにお願いし、マティルダの後を追う。やや後ろを歩こうとしたところ、横に来いと示されたのでそれに従った。
歩き始めたマティルダが、ひそやかな声で話しかけてきた。
「いろいろとありがとう。
……男性で騎士になるのだったら、私がミンネになってあげてもいいと思っていたのだけれど。
もし私が女王にならなかったら、あなたをミンネにしてあげてもいいわ」
ぼそりと告げられたそれは、きっと彼女一流の礼の言い方なのだろう。前を向いたままで表情はよくわからなかったが、彼女の長い耳が少し赤くなっているのが、すぐ横にいたアレイスタにもわかった。照れくさそうに礼を言われ、なんだか嬉しくなる。
そう、終わったのだ。アレイスタが何をできたかというと、まあほとんど何もしていないのだが、終わりの形は彼女が望んだものにとても近い。
さてミンネとはなんだろうと思ったが、文脈からして悪い意味でなさそうだ。後で誰かに聞けばいいだろう。なので、笑って答えた。
「光栄です。
私も殿下が大好きですよ」
「な!
わ、私はそんなこと言ってないわよ!」
とたんに顔を真っ赤にしたマティルダに噛み付かれたが、晴れやかな気分で笑った。
マティルダをなだめて馬車に乗り込みながら、それに、と考える。アレイスタにとっては収穫があった。なにせ、甥っ子への導き手が現れたのだ。渡りに船、遠慮なく乗らせていただこう。それを思って、ひっそりと笑う。
それを見ていた視線があることに、気づきもせずに。