027 魅惑の甘言
「殿下!?」
エスターの悲鳴を聞くまでもなく、アレイスタはマティルダに向かって飛び込んでいた。声もなく落下する彼女に向かい、床を蹴る。
「ックソッ!」
「女主人!」
時をおかず、悪態をつきながらもヴィンセントが2階の床を蹴る。その声に重なるように、ジョン・ドゥが声を上げた。彼がアレイスタの前に姿を現してから一番大きな声だったが、そのときの彼女にはそれに気づくような余裕はなかった。
中空でマティルダに手を伸ばす。何とか服を掴み、飛び出した勢いのままに衝突した。ごつん、と、胸の骨にマティルダの頭蓋の骨が当たる。
一瞬息が詰まり、自分の胸が豊かでないことをその間に悔やんだ。豊かだったら、きっと衝撃を吸収してくれたのではなかろうか。まあ、同じ結果だったのかもしれないが。
正直、この後は防御力も筋力も低いアレイスタはただクッションになるしかない。なので、ただぎゅっとマティルダの頭を抱え込んだ。
衝撃を覚悟した刹那、目の前を黒いものが覆う。見上げる間もなく、マティルダごと何か大きいものに包まれた。ぐるり、と体が回転し、今どこを向いているのか分からなくなる。軽いめまいを起こしそうになった。
予測した様な衝撃は、走らなかった。
何が起きたのか分からないが、とりあえず無事らしい。
恐る恐る目を開けて安堵の息をつきかける。が、アレイスタはさきほど感じた通り、自分がマティルダを抱えたまま、更に大きな温かいものに抱えられている事に気づいた。思わず身を硬くする。
と、すぐ横から声が上がった。
「……ッぶねー」
ぱちんと目を開ける。それが知った声だったからだ。
勢いよくそちらを向いたアレイスタに、あっけらかんとした明るい笑顔を見せたのは。
「殿下、怪我なかったっすか?」
それは、虎人のヴィンセント・ディオンだった。ターシャちゃんも無理すんなあ、と穏やかに笑う彼は、空中で追いつき、マティルダごと抱えて庇ってくれたらしい。かなりの距離があったはずだが、素晴らしい瞬発力と跳躍力だ。
しかし、体勢に違和感を感じる。なんというか、水平でない。礼を言いつつも、それが顔に出たようだった。
「ありがとうございます……?」
「オレだけじゃないけどね」
肩を竦められる。顎で示された先を見れば、ジョン・ドゥがこちらに向かって来るところだった。彼の回りの、消えかけた魔法陣の残光が目を焼く。
「ご無事ですか」
「あ、ありがとうございます」
それで自分の状態がわかった。なにせ、ジョン・ドゥに対し、90度倒れた形になっていたのだ。どうやら、3人まとめて、ゆっくりと回転しながら落下している。推測するに、ヴィンセントは2人を抱えつつ猫よろしく回転し、体勢を整えて着地の準備をしたのだろう。が、途中で落下を緩和するような術をかけられたらしい。
今のアレイスタは、仰向けの彼にのしかかるような形で、マティルダを潰していた。慌てて力を入れ、マティルダにかかっていた体重を自分で支える。
「ルディ、大丈夫ですか?」
マティルダは何か言いかけ、言葉を飲み込んだようだった。アレイスタに向かって軽くうなずいた彼女は、そのまま前を向きぶつぶつと古代語の詠唱を続ける。まさかこれは、落下前に微かに聞こえたものの、続きだろうか。
そんな彼女にアレイスタはあっけに取られ、慌ててうなずき返した。
アレイスタが驚いた理由は2つ。
まず1つめは、推測通りなら、マティルダは先ほどの突発的な落下に全く動じず、詠唱を続けているからだ。彼女はあの状況で、自分が怪我なく詠唱を続けられる状態となることを、全く疑いもしなかったということになる。
これほどの高さである。落ちれば、常人なら本能的に身を守ろうとするものだ。悲鳴など、意識せずに上がってしまうものである。それを押さえつけ、さらに集中して詠唱を続けるというのは、並大抵でない。その気概は驚くに十分だった。
2つめは、マティルダがそんなに長い詠唱を、空手で行っていることだった。
通常、魔力を糧に術を行使する場合、道具が用いるのが一般的だ。通常の処理能力では、ソラで行使することは難しいため、杖のような魔道具に命令を登録し、呪文一発でショートカット起動する。
ところが、マティルダは現在なんの道具も利用していない。紙もなしに複雑な証明を解きつつ過程を読み上げるようなもので、丸暗記では持続時間や消費魔力の指定ができないため、訓練で克服できるようなものでもなく、常人にはまず不可能だ。さらに、彼女はこの状況で、それをやってのけている。異常だった。
その驚きが伝わったらしく、ヴィンセントに苦笑される。
「殿下の邪魔にならないようにしよっか。
さ、どうぞ」
そのまま難なく着地したヴィンセントに、ゆっくりと下ろされた。
ふと気づき、隣室の奥に目を凝らした。やはり、微妙な残光が目につく。なぜかはわからないが、また助けられたらしい。それを目の端に捕らえながら、抱えたままだったマティルダを解放した。のだが。
「……あの?」
下ろされはしたが、放して貰えない。どういうことか、と伺えば、顔を寄せられてにおいを嗅がれた。思わずアレイスタはのけぞったが、当の相手はどこ吹く風。喉をごろごろと鳴らしている。あれ、なんだこの既視感。
「ええと……」
「あー、ほんっとうに旨そう……」
やっぱりか! とアレイスタは内心呻いた。さすがにこの状況でそれはないだろう、と思う。勘弁してほしい。
が、マティルダにげしげし蹴られているのに――詠唱中にずいぶん余裕があるものだ――、ヴィンセントは頓着せず、アレイスタの頭にほお擦りをしている。擦られる箇所の髪がわしゃわしゃと絡まり、地味に痛い。
と。
「わ!」
ヴィンセントが、軽い驚きの声を上げながら一歩退いた。
ダン!、と大きな音を立てて、上から影が降りてきた。明らかに殺意がある、容赦ない踏み方である。ヴィンセントが身を翻すのが一歩遅かったら、間違いなく餌食になっていただろう。
「この国軍の恥め!
緩衝材としておが屑程度には役に立ったかと思えば、何をやっている!」
さりげなくマティルダを背後に庇いつつ語気を荒げたエスターが、その勢いのままヴィンセントの足を踏もうと、だん! だん! と足を叩きつける。その、ゴキブリを見つけた者のような動きから、アレイスタを横に抱えたままのヴィンセントはひらひらと逃げて見せたた。そのまま、口を尖らせて文句を言う。
「あっぶね、何すんだよ。
おが屑って酷くないか」
と、タン、と軽い音を立てて降りてきたオットーが会話に参加する。
「おが屑は緩衝材の後は、大抵焚きつけに使われるな」
「焚きつけにしてやろうか、このおが屑以下が!」
「お前ら、ほんっとうに酷いな!
……ッて!?」
と、抗議の声を上げていたヴィンセントが、小さな悲鳴を上げた。重なるように、ぱあんと軽い破裂音が聞こえ、アレイスタは思わず身を硬くする。ヴィンセントの顔のすぐ横を、火花が散った。
「何を抱えてる。
放せよ、あァ?」
見れば、硝煙を上げる拳銃を構えたまま、金の目ががこちらを向いている。ダミアンだ。サー・エセルバートはと言えば、こちらも険しい表情でこちらを見ていた。どうやら、故意にダミアンの攻撃を見過ごしたらしい。
「……オーケー。
ちょっと待ってな、落ち着いて?」
両手を上げて、の態勢でアレイスタを解放し、ヴィンセントが一歩下がる。ダミアンの後ろには、同じく上からばらばらと人が降りてきていた。最後に、白髪眼鏡がたん、と降り立つ。
それを横目に見ながら、サー・エセルバートがマティルダたち一団に近づき、ダミアンのほうを振り返った。
「さて、どうする?」
問いかけた彼の顔は、いつもどおりの笑顔だ。
アレイスタが勘違いしていることが、ひとつある。
それは、彼女はマティルダを家族の元に返そうと、マティルダを守るつもりでいることだ。しかし隊士たちから見た彼女は、あくまで協力者である民間人で、つまりは守るべき対象なのだった。余談だが、マティルダはマティルダで、守るべき大事な国民の一人であるアレイスタを庇うつもりだったりする。それはともかく。
つまり彼ら国軍は、2階と1階に庇護対象が分かれていたために、やむなく戦力を分散させていたのだ。
この作戦は、国軍にとっていささかイレギュラーが多い。
例えば、急ぎ突入する必要が出たこと。
誘拐の救出作戦は、人質の確保を最優先だ。そのため突入後は犯人が人質を盾にしたり害を及ぼす前に、即座に人質を保護するか、その拠点を制圧する。それが可能となるように、犯人の潜伏場所がわかっても、慎重に状況を把握して作戦を立て、タイミングを見計らうのが定石である。
ところが今回の場合、そもそもの拠点発覚の原因は、ある屋敷の壁の一部がくりぬかれて轟音を立てたことだった。その穴から、マティルダ姫がいること、更に協力者のアレイスタ嬢が何者かに襲われようとしていることが確認できた。すわ仲間割れか第三勢力の介入か。結果、状況を把握することも出来ず、突入を急ぐことになった。
例えば、誘拐犯側に、エセルバート・ゴメス大尉と同程度の戦力があったこと。
突入を急ぐことになったとはいえ、十分な戦力が確保できなければ本末転倒だ。それでも介入の決断を下したのは、ゴメス大尉が現場近くにおり、突入に参加させることが可能だったからだ。彼は第7次大侵食の際に正規構成員でなかったにも拘らず、その実力で騎士爵を授与された、現国軍の最高戦力の一角である。場合によっては、彼一人で制圧することも可能だろう。そのため、他戦力が現場に到着するに先行しても、十分な結果が残せると判断された。
ところが現状、背後を庇っているとはいえ、サー・エセルバートと誘拐犯の一人、ダミアンの力は拮抗している。彼が他を蹴散らせないとなると、状況は一転悪くなる。そもそも、彼のようなジョーカーがいるからこその突入なのだ。それを押さえられてしまえば、他の隊士がどれだけ善戦しようとも、人数で押されてしまう。
そんな中、マティルダとアレイスタが今はひとところにおり、かつ戦力を再度纏め上げることができるようになったのだ。不本意な状況がにわかに改善され、当初予定に戻る。
庇護対象を守り、かつ彼らに配慮せずにジョーカーが動き回れる形に。
再度、轟音が響く。
屋敷が、再び揺れた。
ぱらぱらと、漆喰の欠片が落ちる。
「さて、どうする?」
その揺れなど意に介さないかのように、ダミアンたちに、ふたたびサー・エセルバートが問いかける。その顔は、いつもどおりの笑顔だった。
だが、もしアレイスタがその笑顔を見ていたら、恐らく腹を空かせた狼のようだと評しただろう。青灰色の目が三日月に細められ、燐光の様に暗闇に浮かび上がる。ダミアンのものに似通ったそれは、ようやく目の前の獲物に飛びかかれると舌なめずりするような、そういう種類のものだった。
アレイスタが見たところ、部屋の中の人数で言えば、誘拐犯側の方が有利である。だが、今だからこその室内の優位性だろう。それに、すでにマティルダは一時的に奪還されている。時間が経てば経つほど追い詰められていくのは、誘拐犯側のほうだ。彼らは、マティルダを確保していなければ逃げることも何がしか要求することもできない。
そもそも人数であれ地の利であれ、国軍の方がはるかに有利なのだ。制圧は時間の問題に思われた。
怪我をせずに捕まるなら、それが1番いいのかもしれない、とアレイスタが考えた時だった。
ささやかに。
耳元で、声が聞こえた。
『聞こえますか』
落ち着いた男性の、低い声だった。
耳に直接届けられたようなその近さに、アレイスタは驚いて、思わず背筋を伸ばした。恐らくその動きで、聞こえたことがわかったのだろう。言葉が続けられる。
『協力して、いただけませんか』
自分に話しかけてきたのが誰なのか、アレイスタはなんとなく察しがついた。直感でしかなかったのだが。
声を低く落として、呟くように応じる。そうすれば、恐らく喧騒に紛れ、彼女の声を聞くものなどいないだろう。
「……誘拐を、ですか」
その声に、苦笑交じりの皮肉が込められていたことは、伝わっただろう。しかし男は、声の調子を変えたりするようなことはなかった。言われることを覚悟していたのかもしれない。
『貴女が協力してくだされば、姫君に無理にお願いすることはありません。
もちろん、貴女の安全も、こちらで出来る限り保障します。
それに』
男はここで、わずかにためらうように言葉を切った。
『私は、きっと貴女の望みを知っています。
貴女が我々に協力してくださるのなら、我々も貴女に協力しましょう』
「なにを……?」
その物言いにいぶかしみながらも、アレイスタははっきりと自分の動悸が激しくなっているのを自覚した。どくん、と心臓が高鳴る。これは、予感のせいだ。
男は、先ほどの逡巡を未だ引きずりながら、言葉を続けた。
『多分、貴女の望みは、こうではないでしょうか。
……還りたい、もしくは……』
息を止め、次の言葉を待つ。喉の奥が、緊張で渇く。脈打つ血管の音がうるさい。
僅かな間が、永遠のように感じられた。
『……会いたい』
誠実さすら滲ませたその言葉は、まるで悪魔の誘惑のように、甘美な響きを持っていた。