026 折れずに走れ
アレイスタの声は、どうやらジョン・ドゥのお気に召されなかったらしい。先ほどまでと一転、わずかに憮然とした気配が伝わってくる。
「血族の方の命令を受けました。
貴女をお守りするようにと」
聞いて、アレイスタは内心絶叫した。魚人族め、余計なことおおおお!!
博士の調査用の仕掛けに運良くかかっただけで、てっきり自分は孤児と思っていた彼女だが、どうやら会ったことのない血族はずいぶんと余計な事をしでかしてくれたようだ。いや、ありがたいと言えばありがたいのかもしれないが、よりによってこのタイミングである。早く来てくれれば巻き込まれずに済み、後から来てくれれば頼りがいのある旅の同胞となっただろう。しかし彼は今登場し、火に油を注ぐしかしていない。正しくありがた迷惑だ。
「……へえ、じゃァ、ターシャちゃんは安全ってことかな」
「守り切れるのか?」
思わず頭を抱えたアレイスタの前、高い位置から声が落ちてきた。顔を上げれば、楽しくて仕方ないという風に顔をゆがめたダミアンと、確かめるように問いかけるサー・エセルバート。その視線が向かう先は彼女ではない。
あ、なんかまたイヤな予感がする、とアレイスタは思った。
そして彼女のこの予感はまず外れない。直前過ぎて回避も出来ないのだが。
「当然だ。
我はそのために在る」
ジョン・ドゥが始めて2人の言葉に反応した。どうやら、そこは誤解されたくなかったらしい。が、今このタイミングでなんで答えるんだ、とアレイスタは内心呻いた。
ダミアンの表情を見ろ、そしてサー・エセルバートを。それぞれ表情は違うが、透けて見えるものは同じ。アレイスタでさえ分かった、その物騒さに気づいてほしい。
ダミアンが、一歩踏み出した。笑ったままの表情に変わりはない。
「……お前ら、ここから上がれ」
アレイスタは、一瞬、内容を把握するのが遅れた。それが、誰に向けてのものか分からなかったのだ。
次の瞬間、サー・エセルバートがノーモーションで引金を引いた。同時に、ダミアンがやはり銃を持っていた手を滑らせ、その銃把で自身に突きつけられていた銃口をずらす。火花と硝煙が、銃口の動きに合わせて軌跡を描いた。いずれも瞬きの間に行われており、目が良くないアレイスタにかろうじて確認できたのは、その煙の軌道だけだった。
ぱあんと乾いた音が、遅れて届く。
おそらく、それが契機だったのだろう。その瞬間に、アレイスタは先ほどのダミアンの言葉の意味を悟った。しまった、と思う。
2階陣営は、マティルダを後ろに、オットーが中衛、そしてヴィンセントとエスターが前に並ぶ。そして、アレイスタの位置からそれをすべて確認することができた。そう、彼らは相手が扉から入ってくることを想定し陣形を組んでいたため、穴の下にいるアレイスタからは月明かりの元彼らのシルエットが横一列に並んで見えたのだ。
彼女が居る場所は、舞台のように1段上にある。2階まではアレイスタが2人縦に並んだほどの高さがあり考えもしなかったが、身体能力に優れたものであれば、ここから2階に上がれるだろう。
そして、この場でキーとなるのは、マティルダだ。いくらサー・エセルバートたちによってこの部屋以外の屋敷内が制圧されていても、彼女さえ押さえれば趨勢はいくらでも変わる。それに、彼女の金髪は月明かりにも鮮やかで、ひどく目立った。いい的だろう。
「鷲は外の援護!
ジャガーは、ダンの後ろから上がれ!」
時を置かずして、白髪眼鏡が声を張り上げた。それに合わせ、判断がつかず経緯を見守っていたらしい全体が動き出す。周囲の暗闇の中、碧の目が素早く集まる。先頭を切って、白髪眼鏡が一足飛びで舞台に上がった。
「ッ」
舌打ちをしたサー・エセルバートが、それを阻むように動く。銃を払われた動きをそのまま利用し、開いた半身を詰めるように一歩踏み込んだ。半瞬もおかずにダミアンが追随する。
ジギィイン! と甲高い、硬質なもの同士がぶつかる音が響いた。どうやら、下から掬い上げるように、ダミアンが剣を合わせて押しあげたらしい。先ほどまでのようにいなさなかったのは、後ろを庇ったためか。互いに手にした剣をぶつけ、わずかな時間に対峙する。
ダミアンの目は笑いの形のままだ。その金が暗闇ににじみ、半月のようだった。
「させねェよ?」
笑い混じりに放たれた言葉を聴きながら、ダミアンの守った背後を過ぎ、白髪眼鏡は2階に上がった。サー・エセルバートの剣が向けられてからの2人のやり取りを、全く一瞥もせずに。
それに、他のジャガー人が続く。穴を挟む形で、マティルダ一行とそれに対峙するシルエットが目に映った。マティルダを庇うエスターたちの声と、怒声と、喧騒が入り混じる。マティルダ本人もなんらかの形で加勢しているのか、かすかに詠唱のようなものが聞こえた。
再び、サー・エセルバートとダミアンが動き始めた。もはや周りを気になどしていないのか、動きが大きくなる。稀にチィン! と高い音が立ち、剣が見えない壁に擦れて火花を散らした。これは、ジョン・ドゥがやったのだろうか。
サー・エセルバートの流れのまま容赦なく相手に襲いかかる剣と、ダミアンの変幻自在に相手を飲み込み翻弄する剣は、2人の性格そのままにぶつかりせめぎあい、黒い嵐のようだった。
2階でも始まったのか、ぱらぱらと砂が落ちてくる。それに、アレイスタは我に返った。やはりジョン・ドゥがどうやってかそれを被らぬようにしてくれたようだが、それどころではない。
「ルディ!」
思わず、アレイスタは声を上げた。
瞬間に頭をよぎったのは、自分に頭を下げたあの派手な少年だった。その小さな背中に、甥っ子が重なる。思い出した皇太子夫妻は、死んだ姉夫婦の顔をしていた。
マティルダを彼らの元に届けたいと思う。行方の知れない家族の無事を祈ってただ待つという気分の、胸がつぶれるようなその思いを、アレイスタは知っている。
白髪眼鏡の声を聞いて、2階のエスター達隊士もとっさにマティルダを奥にする様に隊列を組み直していたが、それでも多勢に無勢だ。この手の勝負は通常、純粋に物量の多いほうが勝つ。よほど個人レベルでずば抜けて差があるか、事前準備でもしていない限り。
アレイスタはもがいた。
端から見れば、彼女はさぞかし滑稽だっただろう。けれど、そんなことを気にしている場合でもない。暗闇で、見る者がいないことが幸いだった。
本当は、動くことが怖い。暗闇で聞こえる鈍い音も、時々散る火花も、悲鳴も、この空間はいたるところ暴力のにおいがする。目の前の黒い嵐など、正しく暴力の象徴だった。平穏に生きてきた彼女は、その気配に知らず身を竦ませそうになる。身じろぎせずに嵐が過ぎるのを待ちたかった。
それに、彼女はロクに魔法も武器も使えない。実際出先で流れのまま関わってしまったため、ただでさえ苦手なのにいずれの道具も手元にない。今この場で彼女にやれることなど、ほとんどないだろう。
それでも、甥っ子の顔を思い出したのだ。
自分はあの子の家族だ。あの子に恥じない叔母でなければならない。そのためには、怯えなど無駄だ。怯えて縮こまり恐れることが、何の役に立つ。
だからアレイスタはもがいた。
少なくとも便器に嵌ったままでは完全に手詰まりだ。何が何でもこの便器からは抜け出す必要がある。だから、もがいた。悪あがきをするために。
もがいて、抜け出して、皆傷ひとつなく、この場を収める。マティルダを家族に送り届け、自分を眷属と呼んでくれたサー・エセルバートも、家族になる誘いをくれたダミアンも、諦めずに連れ帰る。彼女は諦めが悪く、欲張りなのだ。
そして、それくらい出来なければ、あの子の前で胸を張れない。
と、ふわりと、微妙に重力から開放されるような感覚を味わう。
何事、と目を見開けば、アレイスタが嵌っていた便器が、砂のように崩れている。
「ッ」
さらさらと。
便器は端から崩壊して暗闇に溶け、アレイスタは開放された。
彼女は、呆然とその光景を見送った。あまりにあっけなく、なんの前触れもなく彼女は開放され、その体はわずかに浮いたままだ。このまま落とされたら困る、と我に返って慌てて態勢を整え、地――といっても舞台のように浮かび上がっている床の一部だが――に足をつける。途端に重力が戻ってきて、その場に座り込んだ。
「……え?」
何が起きたのか分からない。
顔を上げれば、ジョン・ドゥが奥を見ている。視線の先に目を移せば、そこは暗闇。彼女には何があるのか判別できなかった。しかし。
そこに誰がいたかは覚えている。隣室の奥、会議室のようなそこに居たのは、数人の男。ダミアンと、白髪眼鏡を筆頭に、彼らはすでに移動している。恐らく残っているのは、彼らに庇われていた人物だ。落ち着いた声の男性。
そこまで考えて、はっと状況を思い出す。
目の前は未だ嵐のような戦闘が行われている。2階の喧騒も収まらない。
ぺこり、と軽く会釈をして、意識を戻す。今は、考える時ではないのだ。まずは2階に。どうせ彼女のレベルであればお手伝いくらいしかできないし、少なくとも目の前の2人よりも介入の余地があるはずだ、と身を翻そうとした。そのとき。
すさまじい轟音が響いた。
ひどく硬く大きい物がぶつかったような物音とともに、屋敷全体が揺れる。
皆がそれに気を取られたその瞬間に、アレイスタがそれに気づいたのは、正しく訓練の成果だった。
彼女は、目が良くない。耳も、やはり良くない。だから、すでに放たれた攻撃を避けるには、全く持って適していない。だから、剣の稽古の最中に博士に口をすっぱくして言われたことがある。
それは、全体を見ること。
アレイスタは動体視力が当てにできないので、飛んできたボールは避けられない。その代わり全体を見て、ボールを投げようとしている人に気づき、避けろということだった。要するに、全体を見て、状況と前動作から予想される動きを警戒しろということだ。
皆が音に気が反れた時、アレイスタはちょうど立ち上がったところだった。視界が広くなり、2階も含めて全体の状況が見て取れるようになる。
1階は、目の前で2人が剣でやり合い(銃を使わないのはアレイスタに気を使ったためか)、横にジョン・ドゥ、他は暗闇に沈んで−−そもそも1階は光源がないのだ−−人がいるか確認できない。
2階は混戦状態だ。マティルダを後ろに隊士たちも頑張ってはいるが、絶対数で負けているせいか、はたまた白髪眼鏡の指示がいいのか、完全に押されている。マティルダは、こちら側の穴の淵、壁際まで追い詰められていた。
そこに唐突な音が響いて、多くの人間の意識が同時に、わずかにずれる。脅威に対して原因がわかるまで動きを止めるのは、動物の本能だ。しかし全体を見ていた彼女には、マティルダに向かって手を伸ばし、その途中で微妙に動きを止めた男が見えた。
「このッ……!」
アレイスタはとっさに、ポケットから取り出した懐中時計をぶん投げた。風を切って飛んでいく『お下がり下郎一号』。ステフェン・スクルドが見たら、嘆くだろう使い方だ。
ご存知の通り、彼女は身体5識のうち視力と聴覚が弱く、結果狙いが定まらない。だが明かりが落ちた室内で、マティルダの金髪は2階の窓近く、月明かりを受けてきらきらと光っていた。そして彼女を狙うオレンジまだらの頭髪を持つ男も。おかげでアレイスタは、珍しく狙い違わず投擲を行うことができた。
火事場の馬鹿力。八つ当たり気味に入った力が、それなりの威力を生んだようだ。気づいた男が、投擲を遮るように手を引いて顔を庇う。その腕に当たった懐中時計が、がつん! と鈍く痛そうな音をたてた。
そこまではよかった。
しかし運悪く、彼は手を引く時に、マティルダを引っ掛けてはじいたのだった。
その手は、身を庇いながらも詠唱を続けていたマティルダを、穴に向かって突き飛ばした。スローモーションのように、マティルダが落下する。気づいたエスターが悲鳴混じりに声を上げ、ヴィンセント・ディオンが腕を伸ばし、オットーが肩から銃床を離して振り返る。
その悲鳴を聞き、腕をすり抜け、振り返った目の前を、マティルダは落ちた。