025 いずれが蛇かナメクジか
室内の明かりはオットーが落としたため、頼りになるのは月明かり。王都ロルーは夜は霧に包まれるため、窓から入ってくる明かりはわずかなものだ。2階の壁に穴が開けられたのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。そんな中、くりぬかれて落ちた2階の床は人の胸ほどの高さに持ち上げられ、舞台のようだった。一段下がった位置は碧の目に取り巻かれている。
その狭い舞台に、アレイスタは取り残されていた。そこには、彼女の他に男が2人。対面にいるダミアンがこちらを見据える目は、薄暗闇にも爛々と金色に光る。
闇に潜む獣めいたそれを遮る、目の前の背中の、なんとありがたいことか。
「遅くなってすみません」
サー・エセルバートの、いつもどおり淡々と落ち着いた低い声が落ちてきた。アレイスタから見れば、この場に不釣合いなほど平静と全く変化がない。
「案内の馬鹿猫が2階に行ったせいで、少し遅くなりました」
「仕方ないだろ、匂いは2階だったんだよ!」
聞き覚えのある声が上から降ってきた。見上げれば2階のマティルダの横に、ぶんぶんと大きく手を振る影がある。ターシャちゃん、助けにきたよ! 大丈夫~? というあっけらかんとした声は、街中であった迷惑な方。虎人のヴィンセント・ディオンだ。
サー・エセルバートは、彼の抗議を軽く鼻で笑った。
「全く、手間をとらせる」
「だから、オレのせいじゃないって。
元々2階にいたっぽいじゃん」
「役立たずが」
挙句、振り向きもせずに切って捨てる。それにマティルダとオットーが同調した。
「役に立たないわね」
「全くだ」
「ちょ、殿下までちょっと酷くないっすか!?」
異議を唱えるヴィンセントを、鬱陶しそうにエスターが一喝した。
「喚くな。
お前が役立たずなことなど、わかってるからどうでもいい。
その無駄にでかい図体を有効利用し、せめて肉の壁として殿下の御為に散れ」
「お前が一番ひどいよ!?」
エスターに前に押しやられたのを嘆きつつ、ヴィンセントはまだ手を振っている。
彼らの全く緊張感のない会話に、アレイスタは小さく息をついた。知らず、息を詰めていたらしい。返事をしないと延々振っていそうなので、なんとなく手を振り返す。
あるいは軍人とはそういう生き物なのかもしれないが、空気に呑まれかけていた彼女にはありがたかった。
「……どけ」
一瞬たわんだ空気が、ダミアンの一言で再び硬化した。空気まで彼の機嫌を伺うようだ、とアレイスタは身を硬くした。間に壁がいても、恐ろしいことには変わりない。
対し、サー・エセルバートからは、なんの変化も見えなかった。ダミアンの不機嫌さなど、彼の湖面のような表情をそよとも揺らさないとばかりに。
「投降しろ」
その一言に、なるほど彼が交渉役か、とアレイスタは納得する。確かに彼ならばその押しの強さでもって、アレイスタのような自己表現を通した交渉ではなく、正しく人質救出作戦の交渉が出来るだろう。
が。とアレイスタは思う。
彼女の現在地は、彼の真後ろだ。それを考慮してできるだけ穏やかに、穏やかーに解決して欲しいのだが。はて、彼は適任だろうか。
「屋内は、この部屋以外一通り制圧した。
屋外も時間の問題だ」
言われれば、確かに屋内の喧騒が収まってきている。上も余裕が出てきているのか、マティルダがオットーにぼそぼそと話しかけるのが見えた。もしかしたら、この隙に脱出する算段なのかもしれない。
あれ、とアレイスタは未だ身動きが取れない自分を見下ろした。もし彼女たちが脱出するなら、ひょっとして人質は自分だけだろうか。いやまさか、さすがに置いてきぼりにはされないと思うけども。
と、ゆるり、とダミアンが首を傾けた。その金の目が底冷えするような気配をまとって細められる。
「……二度も言わせるな」
とたん、室内にぴりとした緊張感が走る。室温が急に下がったように感じられ、アレイスタは身震いした。
「どけ」
ひいい、と内心悲鳴を上げる。穏やか、穏やかに……! と思う彼女の心の声など聞こえない2人の会話は続く。
「断る」
サー・エセルバートが、一顧だにせずに切り捨てた。
「……へえ」
ダミアンの声が、一段低くなる。周囲に撒き散らされる剣呑さも増した。穏やかに、とひたすら祈っていたアレイスタは、思わず天を仰いだ。
ああ、神様。さっきはすみませんでした。頼むから助けて!
そのとき。
「彼女は我がゴメス家の娘だ」
当然とばかり言い放たれたその言葉に、アレイスタは息を詰めた。
「眷属を守るのは義務だろう」
アレイスタは、家族という枠組みに強い憧れを持っている。それが、本来群れる種族だからか、あるいは博士との生活で染み付いたか、はたまた記憶がない間に透子の憧れを受け継いだのか、理由はわからない。
だが、彼女は今生も家族に恵まれなかった。
博士を喪った後、しばらくのことは記憶にない。とはいえ、あの日きちんと指定された人が集まって葬儀が行えたのだから、まあそれなりに振舞ったのだろう。
そう、ちょうどあの朝。
彼女が思い出した、たった一人の希望。それが甥っ子だ。他には家族などいない。
いない、と思っていた。
だが、無造作に放たれたその言葉。
それが彼女にどれほどの衝撃をもたらしたか。今は驚きで動かないその頭が意味を理解すれば、それがどれほど甘美な福音となるか。
もしもそれをわかるものがいたとしたら、おそらく彼女の甥っ子だけだったろう。そして、彼はここにはいない。
アレイスタにとって、サー・リチャードやサー・エセルバートは他人だった。彼らは博士の親族であって、彼女の親族ではなかったのだ。
それが。
「眷属、ですか……」
「そうでしょう?」
思わずつぶやけば、ちらりと肩越しに視線をよこされた。怪訝そうな声で問い返される。
少しずつ、意味が頭に落ちてくる。
ふわふわと、足元が落ち着かない気がした。頬が熱い。
彼女の声は、珍しく神々に届いたらしい。もっとも、穏やかに事を収めてこの場から離脱させてほしい、という願いは無視されたようだったが。
「……ゴメス家の眷属、ねえ」
ダミアンが、全く無表情で呟く。我に返ってそちらを見れば、ばっちりと目が合った。アレイスタはとたんに恥ずかしくなり、慌てて自分の紅潮した頬を隠した。
そんな彼女を見て何を考えたのか、ダミアンがにっこりと笑う。口の端が上がり、ゆるりと狐を描いた。
「ふうん?」
楽しげに細められた目に、アレイスタは知らず身を硬くする。その金の目は、獲物の臓腑を通り越し、心の底まで見通すような恐ろしさがある。
「別に、今はゴメス家の眷属かもしれないけど」
「……何が言いたい」
ここで、ダミアンはいったん言葉を区切った。不機嫌そうなサー・エセルバートが口を挟む。
「まあ、家族になる方法はいろいろあるしね?
うちはガキどもが多いけど」
不意打ちにもほどがある。
「……っ」
ひゅっ、と息を呑む音が漏れる。
まさかの内容に、アレイスタは心臓が止まるかと思った。
「え……」
まさか、家族がこんなタイミングで増えたり、なろうと提案されたりするものだとは。
どうしようどうしようどうしよう、と意味のない問いが頭を回る。
見透かされた、と思う気持ちと同時に、それを上回る感情がわき上がる。アレイスタは自分の上着の胸の上をぎゅっと押さえ込んだ。
心臓が痛い。先ほどからの急激な感情変動に振り回され、痛いほどに激しく鼓動を打つせいだ。どくどくどくと、まるで限界を超えて全力疾走をした直後のような動悸の荒さに、息も詰まる。
ダミアンは、アレイスタの動揺を見透かしたように、楽しげに笑った。子供好き? と笑顔で告げられる。それは先ほどまでと全く異なり、ひどく無邪気なものとしてアレイスタの目に映った。
「……は」
「ふざけるな、誘拐犯が」
ふん、と鼻を鳴らしてサー・エセルバートが口を挟んだ。それに、アレイスタは我に返る。しまった、ついうっかり嬉しい言葉に惑わされ、彼のペースに巻き込まれて返事をするところだった。
ダミアンがつまらなそうな顔で舌打ちしたように見えたのは、たぶん気のせいだ。気のせい。
体をわずかに前傾させたダミアンが、首をかしげてサー・エセルバートを覗きこむ。対するサー・エセルバートはこちらからは見えないが、不機嫌そうな気配は感じる。間近でにらみ合うのは、チンピラの喧嘩のようだ、とアレイスタは思った。
「邪魔すんなよなァ、黒の狂犬」
「さっさと投降しろ、黒い野猫」
はっきりと空気が凍りついた。それまで2人のやり取りを見守っていた周りが、ざっと身構える。
お互いの言葉が侮蔑だったのだろうことは、アレイスタにもわかった。先ほどひたひたと感じた幸福感が、嘘のようにさっと引く。怒気に充てられ、紅潮していた頬からさっと血の気がひき、汗にひんやりとしていた背中が凍りついた。
先ほどよりも切羽詰った危機感を感じる。というのも、サー・エセルバートとダミアン、いずれが損なわれることも嫌だと感じたからだった。
彼女の中での彼らの位置は、先ほどどんでん返し的な入れ替えが申し入れられたばかりだ。他人だと思っていた時は自分さえよければどうでもよかったが、今は話が別である。家族というのは彼女にとっては重要な問題だ。未だ落ち着いて心境の整理をする時間も取れず、どう考えていいのかわからないが、普段と違いさくっと切り替えられるものでもない。たとえそれが言葉のあやや冗談だったとしても、もはや思い切れなかった。
「ふむ」
顔面を蒼白にして凍り付いていたアレイスタの横から、平然とした声が聞こえた。全く空気を意に介さない無感動な声だ。思わずそちらを仰ぎ見れば、ジョン・ドゥが相変わらずの無表情のまま、腕を組んで2人を見ている。
それを観てとり、アレイスタは気づいた。腕を組んでいるということは、当然手を放している。さて、ではこの床は今どうやって浮いているのか。少し考え、よし、気づかなかったことにしよう、と思った。そもそも、片手で支えていたことだって可笑しいのだから、浮いていたって今更だ。
アレイスタがそんな現実逃避を図っている間に、ジョン・ドゥは結論を出したらしい。彼が動いた時、アレイスタは一瞬彼を見失った。続いて、たん、という着地音と、ばっ、と腕が動かされる際の衣服がこすれる音、それにガチッ、と鈍く鋭く鉄の歯車が回る音が、すべて同時に耳に届く。
慌てて音がしたほうに目をやれば、状況はさらにひどくなっていた。
見上げれば、黒く張り詰めたサー・エセルバートの背中。その向こうに底光りするダミアンの目。だが先ほどまでと異なり、いずれも空手というわけではない。いつの間にかサー・エセルバートは月明かりを銀色に鈍く照り返す短めの長剣を、ダミアンは月明かりに黒く硬質に沈む幅広の大きな短剣を、また共に逆手に銃を手にしていた。もちろん手にしただけでなく、サー・エセルバートは銃をダミアンに、ダミアンは剣をサー・エセルバートに、各々突きつけて威嚇している。
さらに、サー・エセルバートの剣を、ダミアンの銃を、それぞれから向けられているのは。
なぜかにらみ合う2人の横に乗った、ジョン・ドゥだ。
この状況でこと構えられ、皆無事でいられるだろうか、とアレイスタはぼんやりと考えた。いずれも助かる気がしないのだが。
「何者だ貴様」
「どけよオマエ」
あからさまに殺気立った声を向けられ武器を突きつけられても、相変わらずジョン・ドゥの態度に変化はない。
「現在の議題は、ミス・アレイスタ・ゴメスがいずれのコミュニティに属するか、だと判断した。
ならば我も参加しよう」
ちがう、そんな話題じゃないよ! とアレイスタは内心悲鳴を上げた。あれ、違ったよね、違ったはずだ、少なくとも最初は違った、たしかサー・エセルバートは投降を呼びかけていた。それにそもそもそんなことを決定されても困るし、結果にアレイスタがそれにホイホイついていくわけでもないし、ああ、もう何を言えばいいのかわからなくなってきた。思考がまとまらない。
実際に、長時間誘拐されるという非日常の中にあり、さらに短時間の間に大きな感情の波を味わったところに、この一触即発の空気だ。そして、彼女は同じ舞台の上、身動きもとれずにいる。どれだけ思考をめぐらせても、彼女はまさしくまな板の上の鯉なのだ。いくら図太い性格をしていても、やはりそれなりに精神をすり減らす。
それでも、散らばった思考をなんとか纏め上げた。
まともに考えることができたら、あるいは彼女はその選択肢をとらなかったかもしれない。けれどそのとき、彼女は何とか場を収集したかったのだ。それも、誰も傷つけずに。
かろうじて押し出た声は、みっともなくかすれていた。
「……なんで」
相手の要望を聞きだすのは、交渉の第一段階である。
サー・エセルバートやダミアンの声と武器には反応しなかったジョン・ドゥが、動く。武器をものともせず、あるいは動いたせいで実際に傷がついたかもしれないが、彼はそのことにまったく頓着せずにアレイスタに向き直った。鏡のような目は暗闇に沈んで、やはりアレイスタには表情が読めなかった。
「我が女主人のために」
そういえば、とアレイスタは唐突に思い至った。彼はこの場で明らかに異質だった。誘拐犯一味と、人質と、王国国軍所属隊士。そこに彼だけがそぐわない。別のパズルのピースが紛れ込んだように、不思議な位置にいる。その存在と同様、得体が知れない。
「……あなたの、女主人の、目的は?」
今度は、先ほどよりも滑らかに声が出た。
「聞いておりません」
その答えに、からかわれているのではとアレイスタは内心顔をしかめた。とはいえ、彼は会話に応じる様子なので、注意深く話を続ける。幸い、サー・エセルバートとダミアンも手を出さずに止まっている。まあ、片手で床の一部を振り回す馬鹿力だ、相手にしないほうが懸命だろう。その2人が動かないからか、周りも動かない。臨戦態勢の緊張感はそのままだが。
落ち着け、と考える。彼は女主人のためにここにいる。しかし女主人の目的を聞いていないのであれば、彼女の命令でここにいるわけではない。彼は自分の『女主人のために』という目的を果たすためにここにいるということだ。一足質問を飛ばしてしまったらしい。
「では、あなたはここで何をするの」
「主の側に侍り守るために」
……あれ、彼ははじめになんと言っていたか。
思い出しかけると同時に、頭のどこかで警告音が聞こえた。聞いて、慌てて思い出すのを強引に途中で止める。アレイスタは自分の本能を信じていた。
なんだか嫌な予感がする、と思う。それがこの場の状況にどう影響するかなどわからないが、なんかただただ面倒ごとの予感がする。
「……」
「ターシャ?」
本能をよぎる厄介ごとの予感に押し黙った彼女に、サー・エセルバートが怪訝そうな声を上げた。それに促され、仕方なく続きの質問をする。なんかよくわからないが、しみじみ聞きたくない。
「……あなたの主は、誰?」
ジョン・ドゥはその問いにすぐには答えず、視線を伏せ、アレイスタの前にゆっくりと膝を突いた。やはり、突きつけられたサー・エセルバートとダミアンの武器など、まったく気にしない動きだった。
膝を突いて伏せていた視線を上げれば、彼女とまっすぐに向き合う高さになる。
そのとき、ジョン・ドゥの無機質な顔に、かすかに、本当にかすかにだが、たしかに笑みが浮かんだのを、アレイスタは見た。
「あなた様こそ我が女主人です、ミス・アレイスタ・ゴメス」
「なんで!?」
ジョン・ドゥのどことなく誇らしげな言葉。
それにアレイスタが思わず悲鳴じみた声を上げたのは、まあ仕方がないことだろう。