024 盆の上のティー・カップ
落ちた頭の隅で文字が踊る。
【ジョン・ドウから、MP分与を受けました】
【MPが+20されます】
【MPが全回復しました。意識が回復します】
ふわりと意識が浮上した。
ほとんど即座に起こされたのか、寝た気が全くしない。意識を失う前の状況を思い出し、アレイスタはげんなりした。
誰だよ名無しの権兵衛め、余計なことを、と思いながらも目を開け、ぎょっとする。アレイスタの片手を、能面男――これがジョン・ドウだろうか――が握っており、目の前で彼女を覗き込んでいたからである。
「ひッ!」
反射的に手を引こうとしたが、びくともしなかった。その作り物めいた無機質な顔からは、なんの感情も読み取れない。得体のしれない相手に自分の手を握りつぶされるかもしれない恐ろしさに、アレイスタの血の気が引く。
と、それまで瞬きさえしなかった能面男ジョン・ドウが、握りこんでいた手をゆっくりと開いた。アレイスタは慌てて自分の手を引き、もう片方の手で庇う。
彼の手が、つ、と動く。何と思う間もなく
ガヅッッ!!
鈍く大きい音が響き、アレイスタは首を竦めた。いつの間にか距離を詰めたダミアンが、ジョン・ドウに襲い掛かかったのだ。彼の振り下ろした腕がジョン・ドウのそれとぶつかり合い、起きた風が髪を散らし、頬を叩く。しかしダミアンの暴力的な腕は、ぶつかった後にぎゅっと無理に向き先を変えられ、下ろされた。
アレイスタは、まるで冗談のような光景に目を見張った。ダミアンは体格に恵まれ、その動きは速く、力強い。彼とぶつかり合ってその動きを押さえつけ、微動だにしない腕があるなど、信じられなかったのだ。しかも、ジョン・ドウは片手にアレイスタごと抜けた床を抱えている。
化け物だ。
だが、それを恐ろしいと感じたのは、皆というわけではなかったらしい。少なくとも、目の前の黒ジャガー男は違ったようだった。
「……お前、気に入らないなァ」
首を斜めに傾け、腕をだらりと脱力させたダミアンの、眇めた琥珀の目がきゅっと光った。その気配に、アレイスタはぞっとした。
「渡せよ、それ」
短く言い放ち、しゃくった顎で示された先はアレイスタ。ねえターシャちゃん、と笑顔を作って言われても、どう返せばいいのやら。彼女から見れば、ジョン・ドウも怖いがダミアンも怖い。
顔を引きつらせて半笑いを浮かべるしかない状況だったが、どうやらジョン・ドウにとってそれは不本意な台詞だったようだ。彼は、ダミアンの台詞に鼻を鳴らした。
「我は我が女主人の指示にのみ従う。
それは貴様ではない」
「あァ?」
表情ひとつ変えずに言い放ったジョン・ドウに、ダミアンが顔を歪ませ不機嫌そうな声を上げる。その様子にアレイスタは内心悲鳴を上げた。別に彼らが喧嘩しようがどうでもいいが、頼むから自分と関係ないところでやってほしい。
そんなアレイスタの悲鳴など知らぬ気に、それに、とジョン・ドウが続けた。
「我とて貴様は気に入らぬ」
「……ふぅん……」
ゆらり、とダミアンが動く。その手がまっすぐ自分に向けられたのを、アレイスタは見た。もっとも、彼女が見れたのは、一瞬だけだったのだが。
というのも、ジョン・ドウがダミアンの動きを避け、持っていた床をすっと移動させたのだ。当然、その上に載っているアレイスタもすっと平行移動させられる。ぐわんとかかる遠心力に、ぐるりと回る視界。ダミアンが前から横、後ろに通り過ぎていく。
ぴたりと動きが止まり、すぐに鋭い舌打ちが後ろから聞こえた。
「よこせ!」
「断る」
語気を荒げたダミアンの気配。それを跳ね除けるジョン・ドウの言葉。そのやり取りに、アレイスタは青くなった。いやな予感がする。
頼む、勘弁してくれ。
透子が一番苦手な遊園地のアトラクションは、ティーカップだった。甥っ子が小さい頃にねだられ一緒に乗ったものの、あの体にかかる遠心力と動く視界がどうにもダメで、甥っ子好き過ぎる透子の溢れる愛情をもってしても、込み上げる吐き気を押さえるのに苦労した。乗り終わった後に青い顔で吐き気を抑えつつ笑った彼女に、義兄は苦笑し姉は怒り、そして甥っ子は泣いて怒ったのだった。遠いが鮮明な記憶である。主に軽いトラウマとして。
そしてどうやら、ティーカップが苦手なのは、アレイスタも同じだったらしい。
ダミアンの腕が伸ばされると、それを避けてぶうんと風を切り振り回される床の一部。そしてその上のアレイスタ。直径1.5メートルほどの円形の床片上にいる今の彼女は、まさしくお盆の上のティーカップだった。更に言えば、彼女はカップの中のお茶の役割だ。カップは言うまでもなく彼女が嵌っている便器である。
元気な彼女だったならば、勇気を振り絞って、お盆の上のティーカップだって振り回し続ければこぼれるのだ、と主張することができたかもしれない。しかし現状、アレイスタにはそんな余裕はかけらもなかった。
ダミアンは恵まれた身体能力を誇る。獣人は往々にして何かに特化している場合が多いが、彼はおそらく中でも優れた身体能力を持つ方だろう。周りの他者からの態度より、アレイスタはそう判断していた。
その彼の突き出す腕の早さに合わせて、回避のために振り回されるのである。通常のティーカップの何倍の速度だろうか。時々ギィン! という高い音とともに、火花が散るのがまた恐ろしい。振り回され続けるアレイスタは、内心で絶叫することしかできなかった。絶えず臓腑にかかる変則的な圧力のせいで、口を開けば吐きそうだったのだ。
おおおおおおおおお?!
ちょ、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!
誰か止めてえええええ!
アレイスタの内心の絶叫は、ありがたいことに聞こえた者がいたようだった。
「ちょっと、あんたたち、レイになにしてるの!?」
マティルダの高い声が響いた。
その声は、ダミアンとジョン・ドウのやり取りに圧倒され、固まっていた者を動かす効果があったようだ。
「ダン!」
「お姫さんを確保しろ。
俺はこいつを抑える」
「だが!」
「私のことは気にしなくていいよ」
振り返らずに言い放ったダミアンに噛み付こうとした白髪眼鏡を、別の声が制した。わかるだろう、となだめるようなそれは、落ち着いた男の声だった。
「……!
鷲は2階の援護に。
残りは外だ!」
ざっ、と室内で人の動く気配があった。かすかにエスターの声が聞こえる。
「貴様らの相手は私だ。
殿下には指一本とて触らせぬ!」
「エス!」
そう、すでに水蒸気も晴れており、上には騒ぎを確認しに入った男たちがいるのだ。我に返った彼らを相手にエスターが1人で善戦しているようだが、徒手空拳ではそう長くは持たないと彼女は言っていた。これ以上助っ人に行かれたら、たぶん持たないだろう。この騒ぎに気づいた隊士が、早く助っ人に来てくれることを祈るしかできない。
とはいえ、ぐるんぐるん回され続けるアレイスタにできることは、今のところまずない。もはや青息吐息の彼女にできることといえば、懇願するくらいのものだ。それでも、高速回転の中で口を開くだけがんばったと褒めてほしいものだが。
「……や、……止め……」
うめき声に混じった声は、蚊の鳴くようなものだったに違いない。
が、きゅっと音がするほど、見事に回転が止まった。
「ッげ……!」
慣性の法則にのっとり、アレイスタは便器の前側にぎゅっと押し付けられた。膝が胸を圧迫して苦しい。
「ご無事ですか?」
ジョン・ドウが声をかけてきたが、反応する余裕などない。アレイスタは吐き気を抑え、天を仰いだ。本当は顔を伏せたかったのだが、今は体をさば折にされているような体勢である。顔を伏せて、これ以上臓腑に圧迫をかけたくなかったのだ。
視界はぐるぐる回っている。頭蓋骨の中で、脳もからからと回っているのではなかろうか。全身冷や汗か脂汗で、しっとり冷たい。
「レイ、大丈夫!?」
「っ殿下、お下がりください!」
マティルダの心配そうな声に、エスターの制する声が重なる。あまり伸びて心配をかけるわけにも行かず、アレイスタはひらひらと手を振った。白髪眼鏡の指示通りに男たちが向かっていれば、彼女たちにはこちらを案ずる余裕などなくなるはずだ。できればこの隙に逃げてほしいが、そう声をかけようにもアレイスタの地面は揺れていて、下手に口を開けば吐きそうだった。
ふと、大きな影が上からの明かりを遮るのを感じた。ばさりという羽音が聞こえる。
「……っぁ……」
かすかな声。それがマティルダのものだと気づき、アレイスタは反射的に顔を上げて目を開けた。思わず息をのみ、目を見開く。庭に向かって大きく切り取られた壁から、翼を持った大きな人影が入ってくるのが見えた。
悲鳴を上げかけたところで、明かりに照らされた東洋風の顔が、記憶にあるものだと気づく。眼鏡というよりはゴーグルのような無骨なものを身に着けているが、間違いない。その顔は、街であった2人組みの、迷惑でないほう――オットー・ペインと名乗った青年だった。
レンズの縁が光る。彼がこちらを見て、かすかに笑ったような気がした。
大きく背中が開いた黒装束から伸びた翼が、着地するとともに腕に変わる。そのまま流れるような仕草で、彼は2丁の銃を抜いた。ほぼ同時に、ぱあん、と乾いた音がして、明かりが落とされていく。室内が、薄闇に包まれた。
なぜ明かりを、と疑問に思いすぐに合点がいく。鷲と呼ばれた灰色頭の男たちは、その通り鳥の獣人なのだろう。そしてつまり、彼らは鳥目だ。明かりを落とされれば、動けなくなる。オットー・ペインでわかったが、白髪頭の眼鏡も同様、あれはおそらく眼鏡でなく魔道具だ。鳥目を補うための。
明かりが落ちたせいか、エスターと向かい合っていた男たちの動きが、目に見えて悪くなる。それを幸いと、エスターが相手をきれいに投げ飛ばした。
「ッ。
おい、ジャガー、上だ!」
舌打ちした白髪眼鏡が、更に上への援軍を指示する。猫科は大抵目が利く上に夜行性のばかりのはずだ。行かれたらまずいだろうと考えたところで、マティルダの悲鳴じみた声が聞こえた。
「レイ!?」
慌てて前を向けば、ダミアンの大きな手がこちらに伸びてくるのが見えた。思わず身を引くが、彼女は未だはまり込んだままで動けない。ジョン・ドウが迎撃のために片手を動かす。
刹那、ぱあん、と乾いた音が響く。ダミアンとジョン・ドウの間、アレイスタの目の前で床のかけらが削られ、暗闇に火花が散った。仰ぎ見れば、2階の縁、エスターとともにマティルダを背後にしたオットー・ペインが、こちらに向かって銃を構えている。
しかし、彼らの援護に舌打ちをしたダミアンが、体重を感じさせない動きで一足飛びに飛び上がった。その胸ほどの高さに持ち上げられている床の欠片、アレイスタの前にすたんと降り立つ。オットー・ペインやジョン・ドウが手を出す間も与えない、野生動物顔負けのバネを利用した、見事な動きだった。
アレイスタと目が合い、にこり、とダミアンが笑った。
けれど、それは獲物を狙う猛獣の目だ。暗闇で光る金の目が、うっすらと細められた。
「おいで?」
ひいい! とアレイスタは竦みあがった。気分は猫に睨まれるねずみである。いや、魚だ。もっと悪い。とたんに先ほどと同じ様に、冷や汗が全身を濡らした。
「レイ!?
……あ……」
「貴様、手を引け!」
「はっ。
やだね」
ジョン・ドウが吼えるが、彼は床を支えている。アレイスタとダミアンの間に手を挟むには、どう考えても物理的に届かない。そんな彼を鼻で笑ったダミアンが、アレイスタに手を伸ばした。舌打ちをしたジョン・ドウが、どうやってか両手を引いて身を翻す。が、間に合わない。
万事窮す。思わず引きつり笑いを浮かべたアレイスタだったが、ダミアンが急に、す、と手をひいた。
だうん!
ダミアンとアレイスタの間は、本当にわずかな距離しかない。その間に、すさまじい音とともに塊が降ってきた。ダミアンがもし手をひかなければ、間違いなく下敷きになっていただろう。衝撃に、床がたわみ、アレイスタの体は少し跳ねた。
彼女の眼前、便器から伸びた彼女の足と足の間の、そのわずかな隙間に降りたのは。
「ご無事でしたか、ターシャ」
「エセル様……」
このときほど、アレイスタが彼に感謝したことはないだろう。
見上げた黒いその背中は、アレイスタの義従兄殿、サー・エセルバートのものだった。