023 お下がり下郎
本来なら、顔を上げれば明るい照明――これも魔道具だ――が取り付けられた天井が見えるはずだ。
実際は、目の前にある男の顔が視界を覆い、更に彼の長い髪がすだれのように落ちてきて、アレイスタの顔に影を落としていた。近すぎて焦点が合わないが、その顔は先ほどの鏡に似て酷く作り物めいている。
男が、軽く身じろぎをした。
彼の背後からぎしりと音がし、顔がわずかにゆがむ。それを見て、ああ、生き物だったのかとアレイスタは遠いところで考えた。と、その顔が、前触れもなくふと離れた。目で追えば、彼女が誑し込もうとしていた先ほどの鉄格子が、溶けたチョコレートのようにひしゃげている。男はそこから入り込んできたらしい。そのまま体を引き抜き、外に出ていく。
どうやってか宙に静止した男は、右手の指をすべて一度握りこんだあと、人差し指中指を揃えてすっと伸ばした。そのまま腕を動かし、円を描くような動作を見せる。何をするのかと息をつめて見守る3人の視線を、全く気にしないような動きだった。
一拍。
ギュウウィィン、物と物が擦れあうような、甲高く不快な音が響いた。同時に、アレイスタの背後の壁面に、つ、と線が入る。窓と壁の素材の違いなど関係ないと言わんばかりの、美しい真円の形だった。
それが、スローモーションのようにゆっくりと外に倒れ、落ちていく。その冗談のような光景に、アレイスタは驚くのも忘れて見入った。
どがしゃああん! と、外から瓦礫の落ちる大きな音がした。普段なら驚いて身をすくませるほどの音だが、室内の者は皆身じろぎもしない。少し遅れ、もうもうと砂煙が上がってきた。それを背後に従え、男がゆっくりと近づいてくる。舞い上がる埃のせいか、肩で切りそろえられていた男の髪がふわりと舞った。
気づけば、ビー、ビー、ビー、と一定感覚で機械的な音が響いており、怒声が入り混じり外が騒がしい。遠くから、足音とともに扉が開くような音がした。
男は、アレイスタを見ながらも、彼女をふわりと飛び越えた。警戒してエスターが一歩下がる。が、彼は主従に興味はなかったらしい。そちらに背を向けるようにして、アレイスタの目の前に降り立った。
「レイ!」
「ッ殿下!」
マティルダが前に出ようとしたのを、エスターが押しとどめる。蛇に睨まれたように凍り付いているアレイスタは、どこか遠くでその声を聞いた。
間近で見た男の色彩は自分と同じかと思ったが、それがまさしく鏡のように色を映しただけだったのだと、アレイスタはようやく気づいた。地は紫がかった灰色のようだが、妙な輝き方をしていて得体が知れない。
バタバタバタ、と足音がして数人の男が駆け込んできた。マティルダの後ろから部屋を覗き込んだ彼らは、侵入者に目を見開き、それぞれ誰何の声を上げる。
「何者だお前は!」
「下がれ!
何をしている!」
しかし、男は全く意にかけなかった。振り向きもせず、アレイスタに視線を固定したままだ。
そして、それまで無表情だった男は、口の端を持ち上げて、笑みを形作った。
「……ようやく見つけました」
その声に、ぶわり、とアレイスタの全身が総毛だった。
真っ白だった頭が、半端に一部だけ動き始める。男の笑顔に、ひしゃげた格子やくりぬかれた壁がちらついた。なんだかよくわからない、大きな力を持った見知らぬ相手に探されていたということが、酷く恐ろしかった。
そして思い出す。自分は、身を守るための手段をひとつ持っていることを。思い出した次の瞬間には、すでに口に出していた。
「ッお下がり下郎!!」
その悲鳴じみた声に、男よりも2人が反応した。
「レイ!?
MPが!!」
「馬鹿、眠る気か!?」
言われて思い出したときにはすでに時遅し。魔道具OSGGR-01はキーワードを認識し、すぐに発動した。
視界の隅で文字が踊る。
【キーワードを認識しました】
【魔道具OSGGR-01が起動します】
【消費MPは5です】
【不足分4は、魔道具OSGGR-01待機時の蓄MPを利用します】
懐に入れた懐中時計が、ぼんやりと熱を持つ。何かがうごめく気配があった。
今になって考えてみれば。
適応属性に合わせる仕様だとステフェン・スクルドに言われたとき、アレイスタはもう少し詳細に聞いてみるべきだったのだ。
博士の適応属性は、金と水だった。顕れた効果は、酸の壁が発生し、襲撃者を襲うというもの。では、適応属性が水と火、土のアレイスタはどうなるか。
ばばああんん! バシュウウウッ!
乾いた大きな音が2度響き、目の前に水の壁と火の壁が重なって現れる。さらに一瞬遅れて、鈍く潰れたような破裂音が聞こた。
途端、真っ白に塗りつぶされた視界。
火属性と水属性の壁が同時に発動し、相殺し合って大量の水蒸気が発生した音だったのだろう。ただ、そのときは混乱のせいか、そこまで状況を把握することはできなかった。
「うわ!?」
「何だ!?
何が起きた!」
「おい、下がれ!!」
「きゃあっ!?」
「殿下!」
男たちの驚きの声とマティルダの小さい悲鳴が上がるが、全く見えない。
「ルディ!?」
アレイスタは慌てて身を乗り出し様子を窺おうとした。その瞬間に、ガッ! と体に振動が伝わってきた。
「え……」
思わず視線を落としても、視界は濃い白に覆われたまま。自分の足先さえ見えない。
ガガガガガガガガガガガガガ!
一呼吸置いて、凄まじい振動が連続で起きる。ガツガツガツと便器にあたっている箇所から振動が伝わり、実に痛い。アレイスタは思わずうめき声を上げた。
「いたたたたっ!」
「レイ!?
何が起きてるの!?」
「おい、大丈夫か!?」
「殿下、お下がりください!」
振動が収まった、と思った途端。
「……え?」
突如、アレイスタは急激な浮遊感を味わった。違うと気づいたのはすぐその後。
彼女は、落ちたのだ。
ドゴオオオオン!! と、凄まじい轟音が耳に届いた。
落下を感じて、すぐにががん、と体に衝撃が走る。しばらくして、便器に接した箇所がしびれるように痛んだ。轟音のせいか耳も痛い。水蒸気にまぎれて見えなかったが、大量のほこりが舞い上がったようだ、思い切り吸い込んでしまい、アレイスタは咽こんだ。
「ッえほ、えほ、えほ……
いったぁ……」
「ご無事ですか?」
「はあ……」
かけられた声になんとなく返事をした。しばらくして、視界が少しづつ回復する。
混乱した場を見下ろし、凄まじい眠気に襲われながら、アレイスタは本気で泣きたくなった。すべて魔道具の引き起こしたことだとしたら大したものだが、これは許してもらえるだろうか。
この世界では、たとえばトイレや洗面所、台所といった水場の設備が魔道具で実現されている。このメリットとして、上下水道設備などのインフラ整備が不要となったことはすでに述べたとおりだが、さらに個人レベルでの副次効果として、間取りの自由度もあげることができる。水場をまとめる必要がないので、トイレや風呂といった設備を、好きなところに配置することができるのだ。
そして。
洗面所の下にあったのは、アレイスタの見たとおり、はじめに通された部屋のあたりだったようだ。今の崩壊で、上階の床が抜け、更に初めの部屋と隣室の壁をぶち抜いたらしい。
呆然と、というのが正しい誘拐犯一派が、彼女を見上げている。
彼女は、両方の部屋の境、不審な男が持つ床の破片の上から――彼は丸く切り取られた大きな床を、実に片手で軽々と、お盆を持つ様に水平に保っていた――、それを見下ろしていた。未だ便器に嵌ったままの形で。
「ターシャちゃん!?」
声に振り返れば、隣室の奥、数人の男とともにダミアンと白髪眼鏡の姿が見えた。彼らは男を背にしている。モニターのような魔道具が散らばった、会議室のような部屋だ。
「おい、大丈夫か!?」
「レイ!?
無事でしょうね!?」
「殿下!
危ないからお下がりください!」
上から、男たちの声に混じり、マティルダの心配する声が聞こえる。
こっそり外に合図を送るか、逃げ出したかっただけなのに。ゲームのままだったら床が抜けたりはしないのに。
そう考えてもどうしようもない。今は思い切り注目を集めてしまっているし、すでにこれは現実だ。
視界の隅で文字が踊る。
【残MPが0になりました】
【MPが0となったので、眠りに落ちます】
……なんかもう、色々と見なかったことにしたい。
泣きそうな気分でそう考え、そうして彼女は意識を手放した。