022 禍福は糾える縄の如し
『……まだ落ち着いてないみたいだけどさ』
ようやく涙が止まってきたアレイスタを見ながら、鏡は困ったように笑った。
『実はこのスキル、1分いくらでMPが減るんだよね。
だから、泣き止んだらどうかな』
あと1分半もしたら眠り込んじゃうんじゃないの?、と晴れやかに言われる。驚いて涙が引っ込んだ。
ちなみに、魔力(MP)を消耗すると、精神疲労が蓄積して眠ってしまうことが知られている。
「な、先に言って下さいよそういうことは!」
「なんですって!」
「おい、今更か!?」
アレイスタの声に、後ろ2人の悲鳴じみた声が重なった。
どうりで妙に疲れると思ったのだ。
先刻のルーレットでイヤな予感がしたわけである。運がないアレイスタと、一番愛称の悪いシステムだ。せめて公平に固定値にしてほしい。
『はーはーはーはーはー!
きゅーうーにーぃ、はーやーくーちーにー、なったーねーえー!』
「性質悪!
表記が不適切なので、消費MP毎分と改めて下さい!」
『ははははは!
改善要望を受付ました。
いただいたご意見は次回更改時に参考にさせていただきますよーだ』
「ちくしょう貧乏籤め!」
「舌の根も乾かぬうちにそれか。
しかも今回は貧乏籤関係ない」
地団太踏んで歯軋りしたアレイスタに、エスターが冷静に突っ込んだ。別に恨んではない。八つ当たりだ。
「レイ、何やってるの!?
早くなさい!」
「殿下、下品ですよ」
「トイレの神様に代わってください!
早く!」
「ああもう!
エスはいちいちうるさい!」
おまけにマティルダに怒鳴られた。内容はもっともなので、アレイスタは即座に従った。
『はいはーい。
まったく、神に対して失礼な子だねえ。
んじゃあまたね!
健やかにあれ、いとし子よ!』
にっこりと笑った鏡の顔から、一瞬で表情が抜け落ちた。
うつろになれば恐ろしい銀の顔に、アレイスタは反射的に身を硬くした。けれどすぐ、ふっと目覚めたように表情がつく。
鏡が、少しはにかんで笑った。
『…はじめまして、いとし子』
声は、年配の女性のものだった。同じ顔であっても、雰囲気が全く違う。相手を包み込んでくるようなやわらかい空気は、透子がお世話になった児童相談所の職員の方や、アレイスタがお世話になった雑貨屋のレネばあさんに似ている。
おっとりとしたしゃべり方は時間がかかりそうだ、と思ったのはアレイスタだけでなかった。
「悪いけど早くしゃべりなさい」
「殿下!
不躾過ぎますよ」
「時と場合によるでしょう!?」
「はじめましてー!
忙しくすみません、よろしくお願いします」
もめ始めた2人の声をごまかすため、大きな声で挨拶をする。謝罪するアレイスタに、彼女は茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せた。
『せっかく会えたけど、あんまり時間がないのよね?』
「すみません」
『ふふ。
いずれ、またお話しましょうね。
便座のお手入れ方法とか、盛り上がると思うのよ』
……いや、それはどうだろうと思ったが、アレイスタはごまかすようにあいまいに笑った。
『さて、ここから出て行きたいのよね?
でも、困ったわー。
ここ、魔術とか魔法とか駄目なのよねえ』
普通は見張りを倒すんだけどねえ、あなたたちじゃ無理でしょう?壁も壊せないし、格子も折れないわよねえ、困ったわあ、とおっとり言われる。
「どうすればいいでしょう?」
そう言われるということは、打つ手がないのだろうか。
自然がっかりした声を出したアレイスタに、彼女は安心させるように微笑んだ。
『大丈夫よ、いとし子。
奥の手があるもの』
彼女は、内緒話をするように、声をひそめた。
『あのね、便座に上って、窓の格子の傍に寄るの。
それでね――』
『――格子を誘惑して誑し込めばいいさ!!』
と、急にぐるんと鏡の目が回り、先ほどまでの聞きなれたテンションの高い若い男の声に切り替わった。自己愛の神の声だ。またすぐに目が回る。
『――ちょっと!
あなたなにを……!?』
慌てたトイレの神の声。そして、再度ぼこりと鏡に気泡が現れ始める。
ちょっと待て。
「え。
えええええ、神様!?」
「こら、ちょっとお待ちなさい!」
ぼこぼこぼこ、と激しく、大きくなってくる気泡。鏡の表面が激しく波打ち、鏡の声がくぐもる。
『……ぇ……!…………』
「待てって言ってるでしょう!?
こら!
お待ちったら!」
波立ちと気泡に紛れ、顔が沈んでいく。しばらく波打っていた鏡面は、時間が経ち元に戻る。ゆがみひとつない、元の鏡面に。
アレイスタは、マティルダの怒声を背後に聞きながら、呆然とそれを見送った。
静寂。
そこに移った自分の顔を見て、なんともいえない脱力感を味わう。そしてものすごく眠い。
「……何だったのかしら……」
「……殿下、仮にも神ですよ」
「……私はものすごく眠いです」
MPが減ったことも原因だろうが、目が腫れぼったい。途中で泣いたせいだろうか。
目を擦れば、それを見たマティルダが顔をしかめた。
「ちょっと、寝ないでよ。
ちょうどいいから、顔を洗いなさい」
「殿下、下品ですよ」
「うっさいわね」
顎で洗面台を示すのは淑女としてどうだろう、とは、正直アレイスタも思った。
顔を洗い、きゅっと蛇口を閉めて顔を上げる。先ほどの貧乏神の一言をじわじわと思い出し、気分は踊りだしたいほど晴れやかだ。鏡の中の顔も自然綻んだ。
甥っ子は無事でいる。この世界に生きている。会いにいける距離にいる。それはなんとすばらしいことか。
思わずにやけかけた顔を、ぱん、と叩いて気合を入れた。自分が探し出さねばいけないのだ。こんなところで足踏みしている暇はない。
と、鏡越しに、マティルダがこちらを横目で見ているのに気づく。振り返れば視線を逸らされた。一体なんだ、と首を傾げれば、彼女は言いにくそうに口を開いた。
「……あのね、私は貴方に感謝しているわ」
そっぽを向いたまま言ったマティルダの言葉に、アレイスタはいぶかしんだ。すでに礼を言われていたので、何が言いたいのかわからなかったのだ。
「だから、いつか貴方が困っていたら、助けてあげる。
困ったら言いなさい」
「殿下……」
大体泣くほどの心配ごとがあるなら、早く言えばいいのよ、全く、みっともないったら。
嗜めるエスターの声を無視し、不機嫌そうに吐き捨てた彼女に、あっけにとられた。と、そっぽを向いてたマティルダにぎろりと睨まれる。
「……なによ」
「いえ……」
なんというか。言葉は全く姫君らしくないのだが。
「……ありがとうございます。
私も殿下のことを好ましく思っていますから、あなたが困っていたら、何か手助けできればと思いますよ」
「な!?」
ということを言われたのだろと、解釈したのだが。
笑顔で礼を言ったアレイスタに、マティルダは茹蛸のように真っ赤になった。
「あ、あたしはそんなこと言ってないわ!」
「そうですか?」
それは残念だ。
「私も。
個人で出来る範囲で手助けしよう」
「ありがとうございます」
「……ちょっと!」
エスターも申し出てくれたので、笑顔で受ける。と、マティルダから声が上がった。見れば、目が三角に吊り上っている。
「どうかされましたか?」
声をかければ、気まずそうに視線を逸らされた。何かあったかとエスターを見れば、肩をすくめられた。どうやら彼女はわかっているようだが、特に口を出す気はないようだ。
仕方ないので自分で声をかける。
「殿下?」
「……その」
真っ赤な顔でもごもごと口の中でくぐもった音を出している。その、全く彼女らしくない態度に、アレイスタは首を傾げた。
「何か?」
「あ、あなた、その……」
聞き取れないので、覗き込めば、更に顔を逸らされた。声も、より小さくなる。
アレイスタは、この時点でようやく彼女が照れていることに気づいた。と、同時にわずかな憐憫の情がわく。この年頃ならば、人の好意を無条件に受けていてもおかしくない。なのに慣れていないということは、皆彼女を遠巻きにしていたのだろうか。
と。
「……ま、まあいいわ!!」
マティルダが急に大声を出した。至近距離でそれをくらったアレイスタは、一瞬耳が麻痺した。
「さっさとここから出るわよ!
レイ、早く格子を誑し込みなさい!」
「下品ですよ」
「え、本当にやるんですか?」
「うっさいわ!
早く!」
この場をごまかすように、マティルダが早口でせき立てる。アレイスタは、きーん、といまだおかしい耳に手を当てながら、それにおとなしく従った。
しかし、彼女の年で好意に慣れていないとは気の毒だ。王室の教育方針かもしれないが、少し親切にしてあげよう。
と、妙な顔をしているエスターに気づく。
「?
どうかされましたか」
「いや……その、君は……。
いや、なんでもない」
問いかけてみれば、微妙な顔でごまかされた。何か言いたげな仕草だったのだが。
何なのだ、一体。
トイレは、元の世界とあまり変わりないが、ただ一点、大きな違いがある。便座に蓋がついてないのだ。これは、排泄物処理の違いによる。
こちらでは、大抵の道具は魔道具だ。トイレも、水を流すのでも溜めるのでもなく、魔法で処理されてしまう。実際にどういった処理がされているのかアレイスタは知らないが、即座に処理をされる。そのため、匂いが問題にはならないのか、蓋がついていなかった。だったら大きくデザインが変わりそうなものだが、そこはゲームプレーヤーが混乱をしないようにか、馴染み深い陶器のものだった。ご丁寧にウォシュレットや音姫までついている。
ちなみに、そんなわけでこちらには下水処理設備がなく、似た理由で水道設備も発電設備もなかった。魔法万歳。
そして、今回はその一点の違いが問題だろう。
話題にしている窓は、何度も言うが上部についている。トイレの便器の上に乗らないと背が届かないのだ。
「落ちないでよ」
「……そういうこと言われると、落ちないといけない気になりますね」
「何バカなこと言ってるの」
「気をつけろ」
そういえば、こちらではあの手のお約束芸を見ていない。話が通じなくて残念だ。東方に行ったら通じるのだろうか。
あくびをかみ殺しつつ便座を上げ、後で拭きますからと言い訳しつつブーツで便器の上に乗る。ヒールがあるから、その分だけ素足より高くなったからだろう。おかげで、ちょうど顔の前に窓が来た。しかし。
「……誑かすって、どうすればいいんですかね」
振り返って2人に聞いてみた。だってやったことない。しかも相手は無生物。馬鹿らしいにもほどがある。
2人とも、そろってぽかんと口を開け、
「……そ、そうね。
その格子に向かって、きれいだよとか、言ったらどうかしら」
「たぶん、その。
いつも通りでいいんじゃないか?」
視線をあからさまに逸らされた。そしてエスターさん、いつも通りってどういうことですか。適当にもほどがあります。こんにゃろうめ。
仕方ないので格子に向き直る。
……当然のことながら、フツーに鉄格子だ。黒く光っている。錆付いてでもいればありがたかったのに。
こういうのは恥ずかしいと思ったら負けだ。笑顔を作って、指で格子を撫でる。
つつ、と擽りながら、
「美しく黒光りしたきれいなあなた。
少し開けてくれませんか?」
「……ぶっ」
後ろでマティルダが噴出した。
「で、殿下。
笑ったら気の毒ですよ」
あなたの声も震えてますがね、エスターさん。
じわじわと自分の顔が熱くなるのがわかる。
「だ、だって。
格子相手に、痛すぎるわよ」
「それは確かに」
「あなた方が言ったんじゃないですか……!」
真っ赤な顔で、アレイスタは勢いよく振り返った。否、振り返ろうとしたのだが。
つるり
「……え」
一瞬の浮遊感と、足と背中――ひざ上の腿裏、それに背中よりの側腹の上部という地味な位置――に、ごごつん、と走る衝撃。
「いった…」
痛い。ものすごく地味に痛い。ひざ裏の上とか、肩甲骨の下の肉とか、鍛えない場所だからか余計に痛い。
「馬鹿!
本当に落ちてどうするの!?
怪我はない?」
「……おい、立てるか?」
心配している(のだろう、マティルダの場合は怒声に近いが)2人に覗き込まれる。
何が起きたのか把握するまで時間がかかったが、どうやら滑って陶器の便座に体を強かぶつけたらしい。尻どころか腿や胴のあたりまで、便器にすっぽりと入ってしまっている。情けないことこの上ない。
「はあ、すみません……」
差し出されるエスターの手をとり、立ち上がろうとする。
が。
みっしり。
「……抜けないな」
「……そうですね」
滑ったときの衝撃を受けて、体が実にいい感じに嵌ったらしい。便器にはまり込んだ体は、ピクリとも動く気配がない。
「……え、冗談じゃなくて!?」
「……いやいやいや冗談ですとも。
エスターさん、もう一度お願いしていいですか?」
「ああ、いくぞ……!」
手を借りて、引っ張ってもらう。が。
「い、痛い痛い痛い!
ストップ!」
「ああ、済まない!」
引っかかった足と背中がひっぱられると骨がきしむように痛い。
しゃれにならない。さすがに、排泄物と誤認されて処理されることはないようだが。
「……は、はははははは…」
「……な……」
「……これは、また……」
乾いた笑いしか出てこなかった。人間、困ると笑うしかないとは本当である。
「何やってるのよあなたは!」
「私が聞きたいですよ!」
思わず言い返す。こっちが喚きたい気分だ。
「おい、2人とも落ち着け!」
エスターの声に泣きそうになる。なんでこんなタイミングで…!
視界の隅で文字が踊る。
【笑いの神の拍手を得ました】
【貧乏籤の神から応援が送られました】
【偶発事故の神の笑いを得ました】
【偶発事故の神の加護を得ました】
【称号[降りる人]を得ました】
【スキル[押すなよ押すなよ(おやくそく)を得ました]】
「心底要らないわ!」
思わず突っ込んだアレイスタに、2人がびくりと体を震わせる。
「ちょっと、悪かったわよ、ねえ落ち着いて……」
「……殿下!
お下がりください!」
ばっとエスターが警戒態勢に入った。
何かと見れば、2人ともアレイスタの後ろを見ている。マティルダは驚愕した面持ちで、エスターは警戒を滲ませて。
ただ、そこには何もないはずなのだ。あるのは窓だけ。
瞬間、ぞくりと悪寒がし、全身が総毛だった。
「え……」
ゆっくりと振り返る。
体が便器に嵌っているせいで、稼動域は広くない。首だけで振り返るが、何も見えなかった。
否。
宙に、足先が見えた。
「レイ!」
「殿下、下がって!」
足を視線でたどり、少しずつ顔を上げる。恐ろしいが、見ないわけにもいかない。
視線を上げた先には、先ほどアレイスタが誑し込もうとしていた窓。
そして。
首筋に何かが触ったのを感じて、アレイスタは反射的に顔を上に向けた。
「ヒッ!」
そこには。
窓から身を乗り出した男性が、真上から至近距離でアレイスタの顔を覗き込んでいた。