020 その身に武器となるはあるか
洗面所には、手前からトイレ、洗面台、猫足バスタブの順に設置されていた。充分な広さがあり、壁に沿って大きな開口部がある。大きな嵌め殺しと、上部の天窓だ。
天窓はさほど大きくはないが、ここにいるメンバーなら通れるだろう。いい位置に枝も伸びている。が、いかんせん位置が高い。そして、しっかりと格子が付いていた。面倒くさそうだ。
というか、もう少しプライバシーに配慮したほうがいいんじゃ、とアレイスタは場違いな感想を持った。開口部が広く、トイレも風呂も腰から上がまる見えだ。
「……もしかして、ルディは妖精とか精霊とかを呼んだり話したりできません?」
そうしたら、無理にここからとか考えなくて済む。楽に解決……と期待したのだが。
「無理よ」
アレイスタの希望はあっさりと打ち砕かれた。
「エスが、格子に魔術が施されているって言ったでしょ。
どうも、魔素を薄くする効果があるみたいなのよね。
この部屋、ちょっと息苦しい感じがするでしょう?
多分そのせいだわ。
きっと、彼らが無理にここに来たら存在できなくなるんじゃないかしら」
魔法感覚の鈍いアレイスタには息苦しいのはわからないので、あいまいに笑ってごまかした。肩を竦めたマティルダの言葉をエスターが補足した。
「また、そのせいで、この室内では、魔法の威力が極端に落ちる。
格子だけでなく、どうも部屋全体に同じ魔術がかけられているようだ」
「2人で窓を壊そうとしてみたけど、ヒビも入らなかったわ」
……ずいぶん物騒なことを試したようだ。
魔素というのは魔法の構成要素である。魔力は、体内と周囲の魔素を支配することにより得られる力と言われている。魔法感覚が鋭い者は、魔素を感じ取れるらしい。マティルダはそれだろう。
妖精や精霊は概念的で魔法的な生き物と言われているので、魔素が薄いと存在しにくい……らしい。そして、魔素が薄いので魔法もあんまり使えない、と。
妖精も精霊も見えないし、魔法も下手くそ、魔素など当然感じ取れないアレイスタはふーんと言うしかない。
「椅子でもぶつけてみましょうか」
「強化ガラスのようだった」
すでにやったのか。
「他の窓から小物を投げてみるとか」
「気づかなかったか?
この部屋は極端に小物が少ない。
グラスとマグくらいだが、試してみたらどれも格子の幅より大きかった。
それに、ここの庭は案外広い」
「ちなみに、夕飯はサンドイッチだったけど、紙に包まれてたわ。
お皿だったら飛距離が期待できたのに」
……トイレの窓からの脱出劇以外の方法を提案してみるも、こちらも無理そうだ。
しかし、聞くにつけ、ずいぶんと徹底した牢獄だ。まさか、魔素を薄くする魔術などと言うものが存在するとは。少しやり過ぎていると感じるほどだが、「通常」の誘拐犯はこれほど念入りに準備するのだろうか。
「……大抵の者は魔法を使うしな」
「……そうですね」
どうやら、エスターも似たようなことを考えたらしい。彼女としては、王家の血を警戒されたと考えたくないのだろう。
「ステータスは筒抜けのようだったので、魔導士か魔術師がいて急ぎ対応したとか、たまたまそういう部屋だったとかかもしれませんし」
「……そうだな」
「……まさか、魔術師はともかく魔導士も、たまたまもありえないでしょう?」
マティルダが呆れた顔をし、冷静につっこんだ。疑問を抱きつつも穏便に受け流そうとしている大人2人の空気をわかってほしいものだ。
魔法を使うのが魔法使い、魔術を使うのが魔術師、魔導を使うのが魔導士である。
魔法、魔術、魔導は、厳密には異なる。すべて魔力を動力源に動作するものだが、一般にはよくわからない何か専門的な理由で分類されている。なので、まあ普通は単純にレベルの違いと理解されていた。算数、数学、理学数学のようなものだ。
ここでは、教育機関が限られるので、魔導士はおろか魔術師になるものも少ない。たまたまそんな部屋が宛がわれる確率とどちらが高いのかはわからないが。
ちなみにアレイスタは、独学である程度、初等魔導のくらいまでを理解したつもりでいる。博士には「魔力がもっとあって魔法感覚があって実践も出来ればよかったのにね」と惜しまれた。……まあ、要するに使えない知識を詰め込んだ頭でっかち馬鹿ということだが。
「……筒抜けか。
じゃあ、やはり戦闘は避けたほうがいいな」
エスターが強引に話を変えた。マティルダは若干不服そうな顔をしているが、特に口を挟む様子はない。
なので、アレイスタもそれに便乗した。面倒ごとは考えないに限る。視界の隅で何か文字が踊ったが、気にしない気にしない。
「そうですね……」
アレイスタのステータスは、ダミアンと白髪眼鏡に見られていた。多分、彼らはサー・エセルバートと同じようにスキル[力量把握]を持っている。
だが、とアレイスタは考えた。そこに付け入る隙がある。
なんといっても、この身には山下透子の記憶がある。こんな時こそかつてのスキルを利用するときだ。
思い出してみる。
家での山下透子は、大抵コタツと一体化していた。家事全般は及第点だったが、姉のようにこまごま働くタイプでない。姉の遺伝子を間違いなく受け継いだ甥っ子にイヤな顔をされていた。掃除で邪魔者扱いされる休日のお父さんが、休日以外も、つまり家にいる間は365日だらだらとして邪魔者扱いされていた。はっきりと駄目人間である。
……博士と一緒に生活していく分には何とかなったんだからいいだろ、とアレイスタは棚上げした。
では、会社ではどうだったかと言えば。
山下透子はシステムエンジニアとして企業に雇われていた。SEというとかっこいいが、彼女はいわゆる上位SE。上に叱られ下に突き上げられる、緩衝材のような役割だ。顧客はもとより上司と交渉し、自分より年上のおじさん部下連中をなだめすかして指示を出し、出来を確認する。そんな仕事で求められるのは、情報処理の知識よりも、問題解決力とコミュニケーション能力である。
その山下透子の、使えそうなスキルと言えば。
「……過去は振り返ってもしょうがない。
皆明日に向かって生きるんだ」
「何それかっこいい」
「……何を言ってるんだ……」
台詞に誤魔化されて目を輝かせたマティルダと、呆れた声を上げたエスターを受け流す。
多分、がんばって使えるのは交渉術ぐらいだろうが、彼女が身につけていたのはハーバード式(※1)。信頼関係を築き、双方ともによい交渉だったと称えあえる、満足できる結果を出すことを目的としている。
ここに来る途中のことを思い浮かべてみる。
……あれとどう信頼関係を築けと言うのか。まともに会話するのもしんどいのだ。無理ゲーである。
実は彼女は人の感情を読むのが得意なのだが、その特技を仕事に利用することはまずない。下をまとめるのには信頼が一番で、信頼を得るのは誠実に仕事をこなしていくのが一番だ。
急になんとかしろと言われても無理無理。感情を読んで人をまとめようとすれば、信頼どころか反感を買う可能性も高い。そんな賭けはしたくなかった。
マティルダとエスターの場合は、緊急避難的に仕方なく口を出し宥めたが、上手くいってよかった。本当に。
「しかし、戦闘を避けるとなると……」
彼らに遭遇すればアウトだ。だから見張りのいるドアから出るのは意味がない。屋敷の外には多くの隊士が探索しているのだから、最短距離で彼らを呼び込めればいいのだが。
「……隠し通路とか?」
「はァ?
そんなものがある部屋に閉じ込める馬鹿はいないわよ」
マティルダに思い切りあきれた顔をされた。
「念のため、それぞれの部屋は一通りチェックした。
そのようなものは見つからなかった」
そして、エスターに冷静に返された。
ゲームだとあるじゃん、そういうの、隠し扉を開くスイッチとかさ……と思ったが、アレイスタは言葉を飲み込んだ。やはり現実になるとシビアなものだ。
でももしかしたら、と部屋を見回してみる。アレイスタは、これがゲームだったことを知っているのだ。
もしこの部屋に仕掛けがあったとして、怪しいのは鏡くらいだろうか。でも取り付けられている裏も硝子窓である。
「あってもマジックミラーとかかなあ」
「魔法鏡?
それはどういう魔法具だ?」
鏡を見てつぶやけば、後ろにいた2人に問いかけられる。
そういえば、こちらにはないのだった。
「……マジックミラーというのは、3パターンあります。
1つ目は、明るい側から見ると鏡だけれど、鏡裏の暗い側から見ると透過して明るい側が覗けるというもの。
これは、覗き窓のような用途に使われます。
2つ目は、文様が影に映りこむように細工されたもの。
これは、祭祀に使われるようです。
3つ目は、呼びかけると答えを返す魔道具です。
鏡よ鏡よ鏡さん、と呼びかけると、答えを返してくれるものが知られています」
「……ちょっと。
最後のは童話でしょ。
白雪姫の……」
そういや童話はこっちも共通でしたね。
と、適当な解説に丁寧なツッコミを入れたマティルダの顔が引きつった。エスターがばっと前に出て彼女を庇う。
「……ねえ……」
「……それは、何だ?」
ありえないものを見ているようなマティルダと、警戒したエスター。バスガイドのように鏡を示しながら説明していたアレイスタが、2人の視線を追いかけて、くるりと後ろを向いたところ。
ぼこり、ぼこりぼこり、と鏡の表面が水面のように波うち、気泡のようなものが浮かんできている。
「……な……」
なんじゃこりゃ。
「レイ、下がれ!」
思わず呟いたアレイスタに、エスターの鋭い声が飛んだ。彼女は自身の言葉通りまずマティルダを庇ったが、アレイスタも庇護下に置こうとしているらしい。ずいぶんなお人よしだな、とアレイスタは状況に似合わずのんびりと彼女の行動を好ましく思った。が。
「レイ!」
「すみません、動けません」
「なんですって!?」
悲鳴じみたマティルダの声が響く。
そうは言われても体が動かないのだ。どうやら、起動させたか呼び出したか、その弊害らしい。視線は鏡に固定され、振り返ることも出来なかった。
「こちらは気にせず下がって下さい」
「バカ!
貴方、弱いんでしょう!?」
「ここにいれば大丈夫です。
念のため、洗濯物あったら貸して下さい」
「何を言ってるんだ!?」
こちらの動揺など知らぬげに気泡は多くなる。目の前で波打つ鏡面は水銀のように液体じみていて、鏡の枠から落ちてこないのが酷く不自然だ。
「歌でも歌ってみましょうか」
「本当に何を言ってるんだ!?」
「ちょっと!
冗談言ってる場合じゃないでしょう!?」
冗談でなく、アレイスタはこの場で使えそうなスキルを3つ持っているというだけだ。[トト]と[洗濯の鬼]、[ローレライの歌]。それぞれを説明する時間はなさそうだが。
鏡面に浮かんできた気泡の間、より大きな塊がぼんやりと浮かび始めた。卵型の大きなそれは、真ん中に縦に長い突起と、その下に真一文字に引き結ばれた凹みを備えていた。そう、まるでシンプルな顔のような作りだ。
銀色の人面。
「ほーたーるのー(※2)」
「本当に歌うわけ!?」
「殿下!
お下がりください!!」
歌うアレイスタの前、デスマスクのように口をつぐんでいたそれが、くわっと口を開けた。
『世界で一番美しいのは私だ!
呼んだのは君だね!?』
響き渡ったのは美しくハリのある若い男の声。
……見なかったことにしたい。
視界の隅で文字が踊る。
【笑いの神の興味を引きました】
【称号[白雪姫の継母]を取得しました】
【スキル[鏡よ鏡]を取得しました】
【スキル[鏡よ鏡]の起動に成功しました】
【今回鏡として協力してくれたのは、トイレの神、貧乏籤の神、自己愛の神の3柱です】
なんだかすごく脱力しそうになる状況に、アナウンスが流れていった。
「……あれ、そういうお話だったかしら……?」
「いえ、美しいのは鏡でなく、魔女の女王と白雪姫だったと思いますよ、確か」
気が抜けたらしい2人の、のんびりした声が後ろから聞こえる。彼女らにも解説が流れたのだろうか。
その上に被るテンションの高い声。
『はじめましてだね、わがいとし子よ!』
……ああ。
なにかと思えば、ペプシマンに似てるんだ。
銀の顔を眺めながら、何に似てるのか思い出したアレイスタは、再び厄介ごとの気配を感じた。この場から逃げ出したい。逃げられたためしなどないのだが。
(※1)ハーバード式……ハーバード流交渉術。著者、ロジャー・フィッシャー、ウィリアム・ユーリー。ISBN-10: 4837903606、ISBN-13: 978-4837903604。ビジネスセミナも多くありますが、個人で受けるには痛い値段のものが多いので注意。個人的には、アサーションというキーワードが出ているものを選ぶといいと思います。多分。
(※2)蛍の光……原曲はスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」、作詞は稲垣千頴。 日本国内において著作権保護期間が満了(著作権が消滅)している。