断章001 残夢
遠い日の夢を見た。
自分が小学校に入ったころだったか。
その日は朝から雪が降っていた。
ちょうど休日と重なったクリスマスの前日、広貴は夕方に父と出ていた。近所のお菓子屋に頼んでいたケーキと、有名なフライドチキンチェーン店のバケツ型パーティ用パックを受け取るためだ。パーティ用パックは、去年のクリスマスに家族でCMを見、「一度食べてみたいね」と意見が一致した結果である。後で開けたあと少し困る結果になるのだが、彼らはこの時点ではまだ知らない。
前日の深夜から降り始めた雪は薄く積もっていて、あまり雪になじみのない広貴はそれなりに足元を注意する必要があった。荷物は父と手分けして持っていたのだが、転びたくはない。
白い息を吐きながら家の扉を開ければ、母が電話を置いたところだった。彼女は顔をしかめ、緩やかにまとめた髪をいらいらといじっていた。
「透子が20時くらいに来るって」
「へえ、珍しいね?」
来るのが珍しいのではない。事前に来ると連絡があったのが珍しいのである。叔母の透子は少なくとも週に1,2回は川中家に入り浸っていたが、事前に連絡など入れたことがない。たとえ仕事上がりの夜中だろうが、なんの連絡もなしに来る。母親はそのことにいつも苦言を呈していた。
それでも、いつ来ても叔母は食事にありついていた。
今になって考えてみれば、おそらく母親は常に4人前の食事を準備していたのではないかと思う。妹が来る来ないに関わらず。そして、文句を言いながらも押しかけてくる妹の甘えに喜んでいた。対する叔母も、そうやって自分の居場所があることを確認していたのではないだろうか。
姉である母に応えるように、叔母は、土日も平日もイベントのときも川中家に入り浸っていた。恋人はいいのかと聞いたことがあったが、家族優先だと呵々と笑っていた。気を使っているという感じでもなく、おそらく彼女は本当にそう考えていたのだろう。
実際、両親を亡くして彼女に引き取られた後も、彼女はイベントごとはもちろん、大抵の土日は家にいた。一度デートの場に連れて行かれたときは、さすがに子供心に驚いたが。
父も自分も、なんとなくそんな姉妹の心情を知っていたように思う。
父も、入り浸る義妹を嫌がるかと言えば、そういったこともなかった。穏やかな父は、いつも笑顔で――彼は笑顔でないことのほうが珍しいのだが――迎え入れていた。あまりに普通に受け入れており、広貴はそんなものなのかと違和感を抱くこともなくすごしていた。
他の家族という形は知らないが、たぶん父も母も叔母も、自分の家族という枠の人間にひどく甘かった。それは、家族というものを早くになくした人間たちの集まりだったからかもしれない。そしてそれに習った広貴も、おそらく家族に甘かった。あるいは、ごっこ遊びをするように、全員で仲良し家族を楽しんでいた。
そんな家族だった。
そのため、父親は母親が顔をしかめている理由を正しく読み取った。母は妹の心配をしているのだ。それを素直に出せる性格ではなかった彼女に代わり、苦笑しながら言葉を返す。
「じゃあ、20時ごろにはじめられるように準備しておこうか。
あんまり雪が降らないといいね」
「もう、なんだってこんな日に出勤なんだか……」
明らかに機嫌が悪い母を父に任せ、広貴はマフラーと手袋を外して洗面所に向かった。ぴりぴりしている母親に怒られる前に手洗いとうがいを済ませる。君子危うきに近寄らずという諺を知るほど大きくはなかったが、身をもって知っていた。
ゆすいだ水を吐き出して顔を上げれば 幼い自分の顔が映る。母によく似ていると言われる顔は、はっきりとした目鼻立ちだ。成長したときには、真顔の父のように勇ましい顔立ちになればいいのだが。
その顔は、ふてくされたような膨れ面だった。
広貴は、叔母をそこまで心配もしていない。彼女は自分に比べて大人だ――少なくとも、このころはまだ、大人でも心配をする必要があるとは思っていなかったように思う――なので、広貴の心配は別のものだった。
叔母が来れなくなったら困るのだ。彼女に預かってもらっているものがある。
川中家では、広貴以外にはサンタクロースは来ない。彼以外は子供ではないためだ。
とはいえ、このお互い大好き家族はそれで満足しない。「大人もいい子だったよね」と讃えあい、それぞれ以外がプレゼントを準備する。
そんなわけで、父親への贈り物は母親と広貴と叔母、母親への贈り物はと広貴と叔母と父親、叔母へは両親と広貴で準備をしたのだが。
準備した後の父と母への贈り物は、バレないように彼女に預かってもらっていたのだ。
来てもらわなければ困る。それにこんな家族だから、彼女が来なければ始まらないだろう。
早く来い、とー。
広貴は顔を拭いて居間に向かった。見えるところにいないと、母はより機嫌が悪くなる。
「ただいまー!!
ごめん、遅くなった!」
時刻は20時半になろうかという頃。
母とよく似たショートカットの女性が、鼻の頭まで赤くし息を切らせ、勢いよく玄関を開けた。
「遅い!
……」
眦をあげた母親が不機嫌そうに対応する。とはいえ、先ほどまでの張り詰めたような雰囲気は霧散している。
「大丈夫だった?
寒かっただろう、と……」
父はいつもどおりニコニコと彼女を迎えた。あとに固まった。見れば母親も、叔母本人も顔を引きつらせている。
不思議に思って彼女を眺めた後、広貴は理由を理解した。
彼女はいつもの通勤鞄の他、たぶん贈り物が入っているのだろう大きな荷物を1つ、そして。
テーブルの上に乗っているのと同じ、有名なフライドチキンチェーン店の、バケツ型パーティ用パックを抱えていた。
バケツの中身をご存知だろうか。
あの中身は、チキンだけではない。サラダボウルとワンホールケーキが入っている。そして、広貴と父はケーキ屋にも寄っている。
そう、この家には、すでにケーキが2ホールあったのだ。
そして、たった今それは3ホールになった。
引きつった顔で母親が尋ねる。
「……透子、あなた注文はどうやったの?」
「電話予約……」
「貴ちゃんと同じだねえ。
さすが姉妹だ」
感心したような父の声に、母と叔母が頭を抱えた。余談だが、父は母のことを貴ちゃんと呼ぶ。
ようするに、母も叔母も、実態をよく知らずに電話で予約したわけだ。結果のケーキ3ホール。
「これから、しばらくケーキに困らないね」
「1日1個じゃすぐなくなるじゃん」
ニコニコとした父の声に唇を尖らせれば、頭を抱えていた二人が顔を上げた。
「よく言った!
そうだよね、ひーちゃん!」
「ちょっと!
一気にそんなに食べちゃ駄目でしょう!?」
タイミングはぴったりだが、内容は正反対。
とはいえ、おそらく母親は折れるだろう。今日からしばらくはケーキ祭りだ。
平和な日常の一コマだった。
覚めたくないような、遠い日の、夢。
目が覚めた。
体を起こし、頬が冷たいことに気づく。触れれば、頬が濡れていた。
舌打ちをして、片手で顔を覆い、膝を抱える。
夢と自覚した夢ほど空しいものはない。それが、覚めたくないと思う過去ならばなおさら。
今日もいつもどおりだ。
いつもどおり、彼の家族はすでにどこにもおらず、この世界にはなんの面影もない。
穏やかな父も、しっかり者の母も、おおらかな叔母も、皆。
覚めない悪夢を見ているような気分を味わう時期は当に過ぎたとはいえ、たまに見る夢が幸福であれば幸福であるだけ、彼は取り残されたような気分を味わうのだった。
体を起こす。いつまでも寝台にいるわけにもいかないし、こんな顔を他人に見られるわけにもいかない。
準備が終わるころには、意識が切り替わる。
窓に映った彼は、すでに川中広貴ではなく、若き■■■、■■■■■■■■・■■■・■■・■■■■■■■■■■の顔をしていた。