召喚された四十路の勇者は、異世界で若返った妻と再会した
ひとつ前の短編
『聖女は護衛と駆け落ちし、私はギルドの片隅でタマゴサンドを作り続ける』の続編です。
先にそちらを読んでからの方が内容がわかると思います。
何かおかしいと気がついたときには、白くてまばゆい光に包まれていた。あまりの白さに目が痛くなる。
足元には、見たこともない奇妙な幾何学模様。体が底無し沼に落ちたみたいに、ずるずると吸い込まれていく。
不思議と恐怖心はなかった。
もうどうでもいい。彼女のいない世界でひとりきりで生きるなんて耐えられない。
それならいっそ、何もかも忘れてしまいたい。
渦巻く光の中で強く、強くそう願った。
∗
「起きてくだされ、勇者殿!」
肩を叩かれる感覚に、沈んでいた意識が浮上する。
ゆっくりと目を開くとそこは、松明の灯りに照らされた薄暗い部屋だった。背中にゴツゴツとした石畳の感触がする。
「おお、気がついたか」
「ついに、勇者の召喚に成功したぞ!」
ゆっくりと体を起こすと、深緑色のローブ姿の老人たちに取り囲まれていた。
老人たちは目に涙を浮かべお互いに抱きあって喜んでいる。
頭に小ぶりな金色の王冠を載せ、ひとりだけローブを纏っていない白髪の老人が僕の手を握りしめてきた。
「勇者殿! 我がジャリタ王国を救うため、どうかお力をお貸しくだされ」
しわしわの手は柔らかくて、なんだかホッとしてしまう。
だけど――
「あの……ここはどこですか? というか、僕は誰なんでしょうか?」
何も覚えていない。
僕はいったいどこから来たのか。名前はなんなのか。何ひとつ思い出せなかった。
∗
ここはジャリタ王国。四方を他国に囲まれた歴史が古いだけの小国だと、宰相兼教育係のサウストさんから聞かされた。
これといった名産もなければ、わざわざ他国から観光に訪れる名所もない。主な産業は自給自足のための農業と酪農くらい。
若者たちは早ければ学生のうちに、遅くとも成人を迎えるとほとんどが職を求め隣国へと旅立ってしまう。
冒険者の活動が盛んな南のデクスター王国。最先端の文化芸術を誇る北のグローリャ王国。海に面した東の貿易国家ソヨル共和国。それから、魔石を用いた魔道具開発の最高峰、西のシルナルド帝国。
王孫にあたる若き王子も、留学先のソヨル共和国から帰る気配がないらしい。
結果、この国には働き盛りの若者が少なく、残された老人たちが細々と畑を耕し暮らす。
――どこの世界も、若者が田舎よりも都会に憧れて過疎化が進むのか。
まあ、五十手前くらいになると田舎が恋しくなるもの――
どこの世界も?
僕は、いったいどこと比べているんだろうか?
考えてみても何も思い出せない。
そんなジャリタ王国の大臣たちは、現状に憂いて一念発起した。城の地下に眠る、古の歴史書に記された召喚術で勇者を召喚し、魔王討伐を目指す。そして、小国ジャリタの名を世界に轟かせることで、若者の流出を防ごうと考えたのである。
計画が実行に移されるまでには、十数年の歳月を要した。財政逼迫のために大臣たちは自らの給与を自主返納、国王も王室費を減額し、国民には負担を強いることなく国の予算から無駄な歳出を削り、召喚術の研究に回した。
そうして満を持して召喚されたのが、若く勇敢な青年……ではなく、記憶を失った推定四十過ぎの自分の名前すら覚えていない僕だったというわけだ。
『まさか記憶がないとは……! 召喚術の影響か?』
『結果はどうあれ我々が召喚したのだ、しかと責任を持たねばならん!』
あの日、薄暗い部屋で僕を取り囲んでいた彼らは、長年の悲願が失敗に終わったと嘆くことも、僕を責めることもしなかった。
記憶がないといっても、読み書きや日常生活に必要な基本的な知識はあった。だが、自分に関すること――名前や家族、住んでいた世界に関することはすっぽり抜け落ちて心がふわふわと安定しない。
左手の薬指で銀色の輝きを放つ細い指輪だけが、僕の過去を知っている。
本来ならすぐにでも魔法や剣術の訓練を始めてもおかしくなかったのに、彼らはいつも僕の体を案じてくれていた。優しく、まるで実の子供や孫に接するみたいに。
それから数ヶ月が経ち、この国での暮らしにも慣れ勇者として少しずつ剣術や魔法の訓練が形になってきた頃。
南のデクスター王国の聖女一行が魔王を討伐したという報せが飛び込んできたのだった。
∗
「……ヨーコ、俺のパートナーになってくれ」
目の前には肩まであるサラサラの金色の髪に、透きとおるコバルトブルーの瞳の顔面凶器、我らが国王メル様が笑顔で立っている。
うん、相変わらず笑顔が眩しい。
「お断りします」
「ははは、即答か。ヨーコは変わらないな」
無駄にキラキラで場違い感半端ないメル様の姿に、ギルドの職員や冒険者たちがこちらを遠巻きに見つめている。
メル様は忘れた頃に視察と称してフラッとやって来ては、お気に入りのタマゴサンドを食べて帰っていく。最初の頃は恐れおののいていたギルドの皆も、今ではその見た目と真逆のキャラクターに引き気味だ。国王としての威厳は保てているのか心配になる。
「タマゴサンドあげるので、速やかにお帰り願えますか」
「タマゴサンドは貰おう。パートナーは冗談だが協力してほしいのだ。実は、ジャリタ王国が勇者を召喚したんだが――」
「勇者、召喚」
まったく、まだ召喚術で拉致する国があるのね。
「何でもその勇者、記憶喪失だそうでな。更に戦いに送り出す前に魔王が討伐されてしまい、途方にくれているらしい。そこで、同じ異世界人であるヨーコと話せば、記憶が戻るきっかけになるんじゃないかと打診されたのだ」
ひと通り話を終えたメル様は手渡したタマゴサンドに豪快にかぶりついた。そんな仕草すら上品に見えるのは、さすが王族。
「では、よろしく頼む」
爽やかな笑顔を振りまいて、ギルドの受付嬢たちを虜にしながらメル様は去っていった。
∗
半月後。
ジャリタ王国の勇者との対面の場は、あちらの国で行われることになった。なんでもこの街からジャリタまでは馬車で四時間程度で着くそうだ。
そんなに近いのに知らなかった。
私は手土産に、数種類のサンドを魔石を使用した保冷機能付きの箱に詰め、メル様が用意した馬車に乗り込んだ。
窓の外に広がるのは、のどかな農村地帯。
トマト、きゅうり、茄子、とうもろこし……美味しそうだな。
農作業に励むおじいちゃんおばあちゃんが、馬車に気がついて手を振ってくれる。
なんだか田舎に帰ってきたみたい。
「こんにちはー!」
馬車の窓から身を乗り出して手を振り返す。
デクスター王国よりも標高が高いからか、気温も涼しくて何より空気が清々しい。
「そういえば私、貴族のマナー? とか知らないんだけど大丈夫かしら?」
おじいちゃんおばあちゃんの姿が見えなくなって座り直すと、向かい側のメル様に尋ねる。
「……何をいまさら。以前、会談で会ったがジャリタのイストス陛下は懐の広い方だった。特にヨーコのような若者は大歓迎されるぞ」
そういえば出発前、冒険者たちからジャリタ王国は老人が多い国だと教えられた。自分たちよりも若い者がやって来ると「食事は?」「宿は?」「帰ったらこれ、お食べ」と世話を焼きたがるのだとか。
まさに田舎の祖父母だ。イストス様もそんな感じの方なら安心だわ。
∗
昼過ぎ、私たちはジャリタ王国の王城に到着した。太陽に照らされたその建物は、城と呼ぶにはこぢんまりとしている。贅沢な装飾はない、大切に手入れされてきた大きな洋館のような佇まいだ。
衛兵に案内されたのは、一階の応接の間。よく磨かれ艶のある木製の扉が開かれると、部屋の中央に配置された円卓を囲む椅子から白髪に王冠を戴いた老齢の男性がゆっくりとした動作で立ちあがった。
「ようこそおいでくださった。儂がこの国の王を務めるイストスである」
淡い水色の瞳から人の良さが滲み出ているイストス様に丁寧にお辞儀した。
「はじめまして、私は陽子です。よろしくお願いします」
「うむ、よろしくな。メルキオール陛下も、わざわざ足を運んでくださって感謝する……こちらは宰相のサウストじゃ」
細身で灰色がかった髪を後ろでひとつに束ねた男性がイストス様の言葉に合わせて最敬礼する。
この人が、勇者の教育係。いかにも実直、真面目を絵に描いたような人だ。
メル様も国王らしい優雅な所作で二人に一礼を返した。
「さあさあ、長旅で疲れたであろう。まずは座ってくだされ」
イストス様に促され、私たちは円卓の椅子に腰を下ろした。
落ち着いたところで私は、壁際に佇むメル様の従者に声をかける。預けていた保冷機能付きの箱を円卓に置いてもらうように頼むためだ。
蓋を開けて中から数種類のサンドを取り出したタイミングで、扉がノックされた。
「おお、来たようじゃな」
開かれた扉から入ってきたのは、少し緊張した面持ちのひとりの男性だった。
――少し猫背気味なシルエット、下がった目尻とうっすら刻まれた皺、高すぎない鼻、薄い唇。邪魔だからといつも襟足を短く刈り上げていた黒髪は耳が少し隠れるほどに伸びている。
間違いない。間違うはずがない。
心臓が跳ねる。全身が心臓になったみたいだ。
「……智ちゃん?」
震えて掠れた、情けないほど小さな声がこぼれた。
そんな、どうして智ちゃんがここにいるの?
……彼が、勇者? 智ちゃんが?
彼は薄く笑顔を作った。困ると眉を下げて口角を少しだけ上げる。彼の昔からの癖だ。
私のただならぬ様子に、いつも飄々とした笑顔のメル様が笑みを消して私と智ちゃんに交互に視線を向ける。イストス様も淡い水色の瞳を丸くしてオロオロと困惑していた。
「……勇者殿、こちらにおかけなさい」
宰相のサウストさんが智ちゃんに椅子を勧め、彼はこちらを見ることなくおずおずと席に着いた。
ああ、私を忘れてしまったんだ。
彼の中に、私は存在していない。
目の前が真っ暗になりそうになり、無意識に左手の薬指に嵌めている指輪を右手で包み込んだ。
応接の間には重苦しい空気が張り詰める。
駄目だ。気持ちを切り替えよう。大丈夫。智ちゃんならきっと思い出してくれる。
もう会えないはずが会えたんだもの。大丈夫。
手にしたままのタマゴサンドを見つめ、何度か深呼吸して、どうにか気持ちを鎮めた。
「……こちら、私が作った物です。よければお召し上がりください」
震えそうになる手で、円卓の中央にサンドを並べる。すると、それまで私たちの様子を窺っていたメル様が、ニコリと笑ってタマゴサンドを掴んだ。
「ヨーコのタマゴサンドは絶品ですよ。是非、皆さんも」
場を和ませるようにメル様がタマゴサンドを頬張る。
「……僕も、いただきます」
智ちゃんもタマゴサンドに手を伸ばした。
つい、凝視してしまう。
彼は、恐る恐る小さく一口かじった。
目が細められて目尻の皺が深くなる。
次の一口は大きく……
「懐かしい」
あっという間に食べ終えた智ちゃんは、幸せそうな表情でボソッと呟いた。
……思い出した?
「智ちゃん、私のことわかる?」
「――智ちゃん? いいえ、すみません……でも、このタマゴサンドというものは美味しいですね」
「なんで、なんで思い出さないのよ! 智ちゃんが好きなタマゴサンドなのに……この流れは記憶が戻るパターンでしょ!」
「すみません……」
思わず椅子から立ち上がり強めに返してしまって、彼の肩がビクッと跳ねる。
「勇者殿には誠に申し訳ないことをした。魔王討伐のために国をあげて召喚したが記憶がない。どうしたものかと思案している間に、魔王が討たれたとの報せが届いてしまってな。ならばせめて、記憶を取り戻してやりたいと、異世界人の受け入れの実績があるデクスター王国に相談した次第……すべては我々の責任じゃ」
イストス様に額が円卓につきそうな勢いで頭を下られた。
「我々も勇者殿の召喚に成功して初めて、自分たちがどれほど身勝手で酷いことをしてしまったのかと猛省したのです」
サウストさんまで平謝りしてくる。
いい加減にして! 聖女とか勇者とか勝手に召喚にしないでよ!
そう叫びたかったけれどできなかった。
だってサウストさんもイストス様も智ちゃんを見る目が優しいんだもん。あの金髪碧眼君が私を雑に扱ったのとは大違いで、智ちゃんのことをほんとうに大切にしてくれているのがわかる。だから、言葉を呑み込んだ。
怒り、悲しみ、やるせなさ。いろんな感情が巻く。
結局、重苦しい空気のままだ。私は何をしているんだろう。
鼻の奥がツンとして涙で視界がぼやけるのを、下唇を噛んで堪える。
「……え、陽子ちゃん?」
ふいに、間の抜けた声が私の名前を呼んだ。
ガタンと椅子が倒れる音がした次の瞬間、ぬくもりに包まれていた。
「会いたかった……」
智ちゃんに抱き締められている。
私よりも高い体温……懐かしい。
∗
怒ったと思ったら泣き出しそう。
ぐっと下唇を噛む仕草に胸がざわつく。
違う。僕が好きなのは、怒った顔でも泣いた顔でもない。
『智ちゃんは、初めて会ったとき私のどこを好きになったの?』
そうだ。僕が好きなのは、ずっと見ていたいのは、笑顔だ。
笑うと頬がまあるく膨らむあの、笑顔。
会いたい。もう一度会いたい。陽子ちゃんに会いたい。
どうして忘れていたんだろう。あんなに大切で愛おしい彼女のことを。
僕が隣にいたら、こんな風に泣かせたりしないのに。
そう、隣にいたら。
あれ、今、目の前にいるのは――
「……え、陽子ちゃん?」
椅子が倒れる勢いで立ち上がると、僕は目の前の陽子ちゃんに駆け寄りギュッと抱き締めた。
「会いたかった……」
柔らかくて僕より低めの体温が心地いい。
ああ、陽子ちゃんだ。もう二度と離れたくない。
「おお……勇者殿、記憶が戻られたか! そのお方は元の世界のご家族かの?」
「いやはや、ほんとうに、ほんとうによかった……」
円卓の向こうで、イストス陛下とサウストさんがハンカチで涙を拭っている。そして、金髪に鮮やかな青い目のものすごいイケメンが爽やかな笑顔を浮かべている。
「挨拶が遅くなったな。デクスター王国国王、メルキオール・ディド・デクスターだ。メルと呼んでくれたまえ」
「あ……はじめまして」
僕は、陽子ちゃんを抱きしめた状態で挨拶した。
不敬罪になるかな、これ。
一気に血の気が引いたものの、メル陛下は大笑いしているだけだった。
僕の腕の中の陽子ちゃんは、そんなやり取りもどこ吹く風で胸に顔をうずめたまま微動だにしない。普段の彼女からは想像もつかない甘えっぷりに、愛おしさが込み上げる。
「ははは。これは、これは、実にいいものが見れた」
メル陛下の言葉に、陽子ちゃんが顔をうずめたまま「タマゴサンド、二度とあげないから」と呟いた声はちょっと鼻声だった。
∗
その後、僕たちは円卓に並んで座り、イストス陛下たちも交えてサンドを片手にお互いの身に起きた出来事を教えあった。
陽子ちゃんが、聖女召喚に巻き込まれてこの世界にやって来たこと。その聖女が彼女のパート先の女子高生だったのには驚いた。
いつか僕に会えるかも知れないからと、僕が好きなタマゴサンドやキーマカレーをコッペパンに挟んだサンドのお店を開いたこと。
それから、なんと彼女は悪政を働いていた前国王親子を失脚させた実質的な立役者だということ。
……え、コッペパンサンド一年分で国家転覆成功させちゃったんだ?
でも、陽子ちゃんの作るタマゴサンドは美味しいからあり得るか。
想像以上の武勇伝を聞いた後は、僕がこの国で過ごした数ヵ月のことを話した。
目を覚まして記憶喪失だった僕をこの国の人々は責めるどころか、実の子や孫のように可愛がってくれたこと。
『勇者』だと言われても半信半疑だったけど、訓練初日から魔法が使えたこと。
初めての風魔法でサウストさんを城の屋根まで吹き飛ばしてしまったこと。
剣術も最近やっと様になってきたこと。
「いいなあ。私なんて、魔法とか何ひとつ使えないのに」
陽子ちゃんは悔しがっているけど、魔法も使えないのに異世界で店を開いて自立して生きてきたのは凄いことだと思う。
僕はジャリタの人々の助けがなかったら、ひとりじゃ何もできなかっただろう。
「……それにしても、すっかり若くなっちゃって。僕だけおじさんだな」
「召喚されたタイミングで『若返りたい』って願っちゃったからみたい。懐かしい? 初めて出会った頃を思い出すでしょ」
大好きな陽子ちゃんの笑顔に、チクリと胸が痛んだ。
……思い出す、か。 僕は、彼女が突然消えてしまった絶望からすべてを忘れたいと願ってしまった。
初めて出会ったあの夏の日の記憶も、愛しい笑顔も。
召喚された陽子ちゃんなら、僕があの瞬間に、『全部忘れたい』と願っていたこともわかっているはずだ。
何故、忘れたいと思ったのか。その理由も。
『アレ』の単語ひとつだけで、明日は床屋の日だとか、買い忘れたのは歯みがき粉だとか、昔旅行先で食べたのはフレンチトーストだとか、僕の考えが全部わかる陽子ちゃんは、きっとすべてお見通しだろう。
僕が触れられたくないことを理解して、何も言わないでいてくれる。
「うん、もちろん覚えてる。もう忘れないよ、ずっと一緒にいようね」
僕の言葉に陽子ちゃんは小さく肩を震わせた。
「……突然いなくなって、ひとりにしてごめんね」
「気にしないでいいんだよ? 陽子ちゃんのせいじゃないんだから。ずっとタマゴサンドを作って僕のことを待っていてくれたんだよね? ありがとう」
「ほんとは、もう会えないんだって思ってた。でも、どこかで諦められなかったから……」
円卓の上に置かれた陽子ちゃんの手に、そっと自分の手を重ねた。僕たちの左手の薬指には、プラチナの指輪が同じ煌めきを放っている。
∗
イストス様は智ちゃんが私と一緒にデクスター王国に行くことを快く認めてくれた。
別れの日、馬車に積みきれないくらいのお土産を贈られる。『いつでも帰ってきていいのじゃぞ』、『もう一泊していかんか?』と智ちゃんの手をいつまでも握る姿は孫を見送るおじいちゃんだ。
ちなみに私が『智ちゃん』と呼ぶのを聞いたイストス様たちが、彼を「トモチャン殿」と呼び「僕は智也です」と必死に訂正していたけれど、出発するまで「トモチャン殿」のままだった。
月に一度は遊びに来よう。私もジャリタが大好きになったし。
デクスター王国へ戻り、荷解きすると醤油や味噌に似た調味料とお米が出てきた。
『トモチャン殿のお気に入りの調味料と穀物じゃ』とイストス様が持たせてくれたものだ。
異世界でこの懐かしい食材に出会えるなんて、あまりの感動に思わず手を合わせてイストス様に感謝を捧げる。
私も気に入ったと知ってからは、ジャリタからの仕送りが定期的に届けられるようになった。
新しい食材を使って私のお店のメニューもリニューアル。
キーマはパンだけでなく米も選べるようにしたら大人気で『キーマカレーライス』もメニューに加わった。
試しに振る舞ってみた乾燥きのこで出汁をとった味噌汁は冒険者たちに好評で、すっかり定番メニューだ。
そして、コカトリスのタルタルカツサンドは醤油ベースの特製ダレを絡めた『コカトリス南蛮タルタルサンド』に進化を遂げた。
新メニューは視察にきたメル様も大層気に入り、国として正式に輸入が決定。私が呼んでいた、『コメ』、『ショーユ』、『ミソ』の名称で広く売り出されることになった。
これでジャリタ王国の財政難は解決に向かうし、恩返しになると智ちゃんが嬉しそうだ。
智ちゃんはギルドの職員として働くことになり、二人で街の外れの小さな一軒家を購入した。家電はもちろん昭和レトロ。異世界で再開した二人の暮らしは、ちょっと新婚気分で毎日が楽しい。
∗
ある日、ギルドの外からいくつもの悲鳴が聞こえた。
「た、助けて、街にボアの大群が……!」
外から慌てて逃げてきた女性の言葉に、冒険者たちが武器を手に駆け出していく。
響き渡る爆発音と悲鳴と怒声。
外から聞こえてくるさまざまな音に、ギルドの中に残っている受付の若い女の子が青ざめた表情で震えていた。
智ちゃんは怯える女の子に言葉をかけると、自然な足取りで表へと出ていってしまう。
その直後、窓の外が白く光るのと同時にズドォォンと雷鳴が轟いた。
そして訪れた静寂。
何が起きたんだろう? 智ちゃんは?
私はゆっくり扉に近づき、そっと開いて外の様子を窺う。
目の前に広がっていたのは、数十頭のボアが真っ黒焦げで横たわる異様な光景。その中心には右手を空に掲げた智ちゃんが涼しい表情で立っている。
忘れてた。この人、勇者として召喚されたんだった。
それにしても、勇者って年齢制限ないのかしら……おじさんなのに、勇者。
やだ、待って。私、勇者の妻じゃない?
ちょっと言ってみたいかも「私、勇者の妻です」って。今度、メル様に会ったらドヤ顔で言ってみよ。
「おいトモヤ、あんた強すぎるぜ」
「ギルド職員なんか辞めて俺たちのパーティーに入ってくれないか?」
呆然となっていた冒険者たちが、彼に羨望の眼差しを向ける。
「いやあ、僕、四十過ぎのおじさんだし体力がついていかないよ。それに、ジャリタの皆さんに比べたら僕なんて、まだまだ……」
眉を下げ口角を少しだけ上げた笑顔だ。
「ちょっと、次に私の夫を勧誘したらお店出禁にするわよ!」
智ちゃんに向かって歩きながら私は声を上げる。
「勘弁してくれよ、もう誘わないって」
「タマゴサンドが食べられないのはキツイぜ」
「俺、ジャリタ王国で修行すっかな」
必死に言い訳をしながら散っていく冒険者たちの姿に智ちゃんがやれやれと苦笑いを浮かべた。
そして、無意識にそっと右手を差し出してくる。その大きくて私よりも体温の高い手をぎゅっと握りしめた。
もう二度と離さない。
おじいちゃんとおばあちゃんになっても、ずっと。
最後までお読みいただきありがとうございます。
個人的には陽子が異世界で力強く生きていく結末で満足していたのですが、「夫が可哀想」との感想をいただき、続編を考えてみました。
少しおっとりした愛妻家の智ちゃんと、芯が強くて意外と甘えん坊な一面もある陽子。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
おかげさまで
7/25付 日間 異世界転生/転移 短編 2位
7/26付 日間 ハイファンタジー すべて 2位
日間 ハイファンタジー 短編 2位
日間 異世界転生/転移 すべて 2位
ランクインしました。
ありがとうございます。
7/24一部修正しました。




