第七十二話「逆境の英雄」
頭上から響いてくる声は、グレベインに非情な決断を迫るものだった。
驚愕に目を見開き、声の主を改めて見る。アルタイルは感情の読めない表情のまま、「どうした。早く殺せ」といった。
グレベインは抗議するように声を上げる。
「しかし、無関係な人間を殺すというのは……」
彼の訴えはアルタイルには届かなかった。
アルタイルは腕を組んでグレベインを見下ろし、軽蔑するように続ける。
「その人間は我々の任務の妨害をしたのだ。十分死に値するだろう」
騎士団は、当然無益な殺生を行ってはいけないという大原則がある。
しかし、戦乱の多い世においては、信者の平和を脅かす者に対して力を持って戦わなければならない。
そして、騎士団の最大の敵であるゲヘナに肩入れするものが居れば、その者も敵であることに変わりはない。
「む、むぅ……」
アルタイルからの指示は、決して絶対ではない。
だが、グレベインは多くの同朋を葬ったゲヘナを憎む気持ちと憤怒が、ゲヘナの味方をするアイリーンにも向きつつあった。
「早く、殺せ」
無慈悲な声。
「敵に変わりはない、か……。女子供を殺すのは矜持に反するが、奴の前で甘いことを言っている場合でもない」
グレベインはアイリーンの首をつかむ手に、力を込めた。
ギチギチと肉に骨に指が食い込む音がし、アイリーンは声にならない悲鳴を上げた。
「かっ……、くっ……」
顔が青ざめ、目から涙がこぼれる。泣いているわけではない、首が締め上げられ、行き場を無くした水分が外へ流れ出るのみである。
「た、すけ……」
腕がだらりと垂れ、体が痙攣を始める。グレベインは力を緩めない。
「許せ……」
一思いに、首をへし折ろうとした時だった。
「離せ……」
グレベインの耳に、地面から声が聞こえた。
「離せって言ってんだよこのデカブツ!」
グレベインが地面に意識を向けた瞬間、爆風が吹き抜けた。
見れば、地面から這い上がってきた悪魔のような人影が、そこには立っていた。
背中には大剣が貫通したまま、両足でしっかりを地面を踏みしめ、立っている。
ゲヘナは何かを放ったかのように、腕を前に突き出していた。
グレベインが怪訝に思った時、ようやく何が起きたのかを理解した。
彼の右腕、先程までアイリーンの首を締め上げていたその腕が、無くなっていることに気が付いた。
腕が無くなっている。
その事実を目視し、脳が理解し、事実を受け入れた時。
グレベインは腕先から吹き出す血しぶきと共に絶叫した。
「グウオオオオオオ!?」
「黙れよ」
その瞬間、グレベインの頬をゲヘナの右手の平が握りしめる。口がふさがり、言葉が出ない。
同時に、彼は解き放たれたアイリーンを抱きかかえた。
彼女は意識を失い、ぐったりともたれている。
(早く……転移しなくては……!)
グレベインは脳内で転移魔術の詠唱を行う。
彼が騎士団最強の戦士として、君臨することができている大きな要因が、この自由自在に空間を移動することができる転移魔術にある。
すなわち、敵がどのように強大な攻撃を放っても、どのように彼を拘束しようとも安全圏まで転移してしまえば攻撃を食らうことが無い。
また、相手の死角に一瞬で移動できることは、すなわち最強の攻撃ともいえる。
王都の地下で研究されていた転移魔術。
その技術の一部を、彼は戦闘用へ転化し身に着けていた。
これもまた、アルタイルの開発した魔術の一つである。
だが、そんな転移魔術を打ち破る唯一の方法。
「泣き喚く暇すら与えねぇ。テメエはここで消し飛べ」
ゲヘナが無慈悲にも、右腕に魔力を込める。
これまでとは比べ物にならないくらい、空間が歪む。
(転移転移テンイテン……い……)
それは、焦り。
死の恐怖という生物が必ず持つ生存本能。
それによる心の焦りが、彼の呪文詠唱を妨げる。
最強の矛と盾を併せ持つグレベイン。しかし、その最強魔術に頼るが故の、精神的脆さ。
彼を打ち破るに、ゲヘナの力は十分だった。
グニャリ、視界が崩れる。
ゲヘナが魔力を込めると、グレベインの頭部は消えてなくなり、やがて主を失った胴体がドサリと崩れ落ちた。
「ば、馬鹿な……グレベインが、死んだ? あの最強騎士サマが負けたって言うのか」
驚愕の声を上げるのは、アルタイルの横に立つイズだった。
彼は身を乗り出し、戦況の結末を目に焼き付ける。
「……いや、よく見ろ。相打ちだ」
この状況に至っても、冷静な声を出すのはアルタイルだった。
見れば、ゲヘナはグレベインを打倒した後、体に剣が突き刺さったまま、その場に崩れ落ちた。
そのまま、ピクリとも動かない。
激しい戦闘の後、荒野は静寂に包まれた。
「ゲヘナを回収しろ。この場では殺せん。大聖堂にて処刑を執り行う」
アルタイルは、事務的な指示をイズに出す。
それはまるで、こうなることをあらかじめ予想していたかのような口ぶりだった。
「え、あ、ああ。……女はどうする」
イズは面食らいながらも、一歩前に踏み出す。
「捨てて置け。どうせ、もう用はない」
「用? ああ、まあ、わかったぜ」
動揺しながらもゲヘナの回収に向かうイズをよそに、アルタイルは踵を返す。
向かう先は、大聖堂。
北の聖地、騎士団の総本山である。




