第六十三話 友を救う決意
紅達三人は、背後から押し寄せる黒いオオカミの津波から、全速力で逃れる。学院の廊下は狭く、三人が横に並べば、それでやっとの狭さだ。
「マナ、大丈夫!?」
三人の中で、一番体の小さいマナは、足の速さも一番遅い。加えて、背後から押し寄せる獣たちは、人間よりも俊敏だ。だが、大群があふれるかのように廊下を埋め尽くすため、うまく走ってこれないようだ。しかし、一度その渦にとらわれてしまったら、無事でいられる保証はない。
「はい、なんとかっ」
時折、紅が背後を振り向き、炎剣を飛ばして牽制をする。だが、湯水のようにあふれるオオカミは減るどころか、その容積を増してゆく。その時、真っ黒い渦の中に浮かぶ、一つの白点を見つけた。
オオカミの中、それらを従えるかのようにたたずむ少女は、感情が消失した表情で、こちらを見ている。彼女の顔を見ていると、吸い込まれそうで、紅は背筋がぞっとした。
「紅さん、このままでは他の生徒に危害が及ぶかもしれません!」
メールルの声に、紅は前を向きなおした。確かに、このままでは何も知らない生徒たちを巻き込んでしまう。
「いったん外に出よう!」
紅は、そう提言するが、メールルは否定する。
「ダメです、そのためにはロビーを横切らなくてはいけません!」
学院の大きな出入口には、当然人も多いだろう。また、食堂の時のような騒ぎになってしまう。
「じゃあ……誰もいないような場所で……」
「無理ですっ、この量を相手しきれるはずがありませんっ!」
紅は思い知らされた。これまで、何度となく脅威を打倒してきた紅だが、やはりすべては偶然うまくいっただけだったということを。
「いったい……どうすれば……」
なすすべなく、途方に暮れた瞬間、一筋の閃光が紅達の間を突き抜けた。
その閃光はあふれ出てくるオオカミの軍勢に直撃すると、まるでそこだけが時間の流れが重くなったかのようにゆっくりとした動きに変わる。
閃光のおかげで紅達はいったん距離をとることができ、魔術の主を見ることができた。
「セシア先生!」
「あなたたち大丈夫? 今はとにかくこいつらを食い止めましょう」
セシア先生含め数名の学院の先生が、紅達を助けるために廊下に駆け付けていた。三人は安堵の息を吐き、それから改めて気を引き締め、オオカミの軍勢に立ち向かう。
真っ黒な渦はすでにオオカミの姿からただの魔力の濁流と化し、邪悪な黒色の魔力が波のようにあふれていた。廊下ごと時間が凍結されており、まるで見えない壁が間をさえぎっていた。
「アーネ……」
紅は魔力の渦の中心に浮かぶ幽玄な少女を見る。
その顔はすでに感情はなく、ヒステリックな瞳をむいて憎々しげに教師たちをにらんでいた。
「さあ、みなさん。いきますよ」
セシアの合図とともに、アーネの放つ魔力の渦をレジストし始める。劣勢であることを悟ったアーネは、身をひるがえし虚空に消えてしまった。
廊下には先程までの混沌が嘘のように、静寂が戻ってきていた。
「ふう、なんとかなりましたね」
メールルは額に浮かんだ汗をぬぐい、紅に笑いかけた。それに紅も応じたが、セシア先生は厳しい声を上げる。
「三人とも。普段なら厳しく罰する状況ですが、今はそうもいっていられません。私とともに学院長先生のところまで来てください」
***
学院長室に通された三人は、初めて見る荘厳な部屋に驚きながらも、ソファに座らされた。そこにはすでにイースが居て、紅達が無事なのを確認すると安心した様子でうなずいた。
学院長先生がローブの裾を引きずりながら現れ、重苦しい表情で口を開く。
「みんな、よく来てくれたね。こんな夜更けだが、大事な話がある」
学院長は、三人のことをとがめる様子もなく、優し気に微笑んだ。
「あの少女とは会ったね。彼女は……過去に学院の生徒だった」
「はい、知っています。あの子は昔の学院で、転移魔術の研究の事故に巻き込まれて……」
「そう、命を落としてしまった」
それは、本当に偶然の事故だったという。
アーネは、周りの生徒と比べても小さく、よくいじめられていたのだという。そのため、友達も居なく、常に孤独に学院で暮らしていた。そんな少女の唯一の楽しみは、夜の学院の冒険だった。
図書館や誰もいない教室を見て回って、だれにも侵されることのない静寂を楽しんでいたという。しかし、彼女が偶然開いた扉の中に、それはあった。
パンデモニウム・ホール。異世界とつながる扉とされるその魔術は、いまだ不安定で厳重な管理がされているはずだった。しかし、その日は扉の鍵がかけ忘れられていた。少女は好奇心から近づき、やがて不安定な魔力の渦に飲み込まれてしまった。
「その日以来、彼女の姿を見たものは誰もいない。学院では事故死と断定し、痛ましい事故として記録された」
学院長は当時のことを思い出したのか、沈痛そうな表情で言った。
「それじゃあ、あの旧図書館にあった記録は……」
「あの子のものだったんですね」
メールルが紅の言葉を継ぎ、一同は事の真実を確認する。
「でもなんで、アーネちゃんがあんなことを?」
紅は先程遭遇した魔力を暴走させる少女の姿を思い出す。
「うむ。実は……近日、学院の周辺で魔術兵器の実験が行われているようなのじゃ。その余波はあまりに大きく、目には見えないが魔力の流れが非常に不安定な状況にある。その影響を受け、学院に良くない魔力がたまりつつある」
学院長から聞かされることに、一同は息をのむ。
「そのせいで、ある種の霊体として、彼女はこの世に戻ってしまった。おそらく、強い思い残しがあったんじゃろう。それがよくない魔力のせいで暴走してしまった……」
「それで、どうすればあの子を助けてあげられるんですか?」
紅は尋ねるが、その答えはない。
やがて、セシア先生が感情を押し殺した声を放った。
「……私たち学院では、この事態を危険と判断し、今晩中に事態の収束を試みます」
無情な言葉に、メールルは食って掛かる。
「それはつまり、あの子を排除するという意味ですか?」
「このままでは生徒に危険が及びます。手段を選んでいる場合ではありません」
背を向け、セシア先生は学院長室を後にする。
紅とマナは縛り付けられるような思いで、座ったままだった。
あの少女と過ごしたのはわずかな時間だ。しかし、その間に見せた笑顔。おそらく、この学院で初めての友達になれたのは、紅達だけだろう。生前の孤独と、不幸な事故の後の永遠の孤独。それを癒してあげられるのは、他に誰がいるだろうか。
「……学院長先生、私」
紅は懇願するように、老人を見上げる。老人は、感情の読めない皺を目に添えて、静かに見つめ返した。
「作戦が開始するまでには時間がかかるはずじゃな。先生方は集合して作戦会議をせねばいかんからの。それまでには大体……三十分ほどの時間があるかの」
学院長先生はつぶやくように言った。
その言葉を聞いたとき、紅は背中を押された思いで立ち上がった。
「行こう。このままほっておくなんてできないよ」
紅はメールル、マナ、イースに向かって言った。みんなも同じ思いでうなずき返す。
「おそらく先生方に任せれば、危険はなくなるかもしれません。でも、それじゃ救われない子がいるということは事実ですね」
メールルは決心を決め、立ち上がる。
「友達だもん。困ってるときは助けるにきまってます」
マナは優しい顔で、二人に続く。
「君たちが決めたことなら、俺は守るだけだ」
イースは苦笑して三人とともに行く。
その様子を学院長は満足げに眺めていた。
危険ははらんでいる。もしかしたら、この子供たちが怪我をするかもしれない。しかし、だからと言ってこの若い意志をさえぎるようなことはしたくなかった。
「これも、教育じゃな」
一人つぶやき、学院長室の外へ歩みゆく若い背中を眺めた。




