第五十三話 散りゆく一枚の木の葉
風が吹き抜ける。橙国の夜は静寂に包まれている。国の中心に居座る城、その最上階部分に張り出したバルコニーのような場所がある。国中を見下ろすことができるこの場所は、これまでに様々な人物がそれぞれの心持で立ってきた。国を治める者、国の未来を見据える者、国の危機を憂う者。
そして今、ここに立つ人物は下界を見下ろして何を思うのだろうか。
キョウシは服装を普段の着物に着替え、腰には愛刀である〝龍頭国鋼゛が挿さっている。先ほどの襲撃時にもこの愛刀を用いた。数々の修羅場を共に潜り抜けた相棒である。
風に身を任せ、思いをはせる。
(彼女は……果たして、どんな答えを持ってくるのだろう)
国の未来を掛けた決闘。
後悔は、無い。
(こうなることは既に……いや、はじめから解っていたんだ)
国の民に刃を向け、修羅の道へ身を堕す。国を守ると決意したときから、いつかは大事な人間と衝突することなど予想はできていた。だから、今では後悔していない。たとえ、もう二度と、あの頃へ戻ることができなくても。そうしてまで、貫くべき事があると決めたから。
(誰かがやらねばならないことだ。警鐘を鳴らすには、いささか犠牲が多すぎた。だが、もう後戻りはできない)
国を旅立った時から、決意したことだ。
そして、すべてはもうすぐ決着がつく。
迷いはない、カタナを振るだけだ。
そして彼女はその場に姿を現した。
闇払いの時に用いる儀式用の華やかな着物に身を包み、国家直伝の宝刀、〝桜花゛を握りしめ、満月に照らされた舞台へと進む。その背後には、あの男も一緒だ。
意を決した彼女の表情は、口を一文字に結び、視線は鋭くこちらを直視していた。整った顔立ち、長い艶やかな黒髪。桜の様にうっすらと指す頬の色。すべて、幼き頃から変わらない。あの日のままの彼女が、そこにいた。
「キョウシ。答を持ってきました」
短く告げる。そこに、これまでの関係や思いは無い。二人は既に殺人鬼と一国の姫だ。
「問おう、この国を、橙国を、汝はどう導く?」
「わたくしは、すべてを守ります。国民の安全も、文化も、権利も、治安も、近隣諸国との友好も、国の未来も、すべてを守ります」
決然と告げられた言葉に、迷いはない。
「そして、貴方を裁きます。今ここで、すべての罪を」
それは決別の言葉だった。
「わかったよ。シズカ。君がそう望むなら、ボクはもう止めない。しかし、引くつもりもない。言葉で分かり合えないのなら、刃を交えるだけだ」
「承知しました。わたくしは貴方に打ち勝ち、わたくしの意思を貫きます」
シズカがカタナを抜いた。
双方がお互いを見据える。そこにはもう、二人の過去はない。
その様子をシリウスは後ろから見守っていた。あらかじめシズカと交わした約束、それはシリウスは一切手を出さないこと。これは橙国の未来を掛けた戦いであり、部外者であるシリウスには関係ないというのだ。もちろん、シリウスはこれに反発したが、シズカは一歩も譲らなかった。
結局、シズカが生きているうちはシリウスは絶対に手を出さないという約束になった。
(だが、それでは意味がない……)
シズカは絶対に勝つから心配は無用だと言っていたが、シリウスはここで見守ることしかできない自分に腹が立った。
(頼む……)
シリウスは祈るようにシズカを見守る。
まず、最初に攻撃を繰り出したのはシズカのほうだった。女性が持つにはいささか大振りなカタナを、けれどしなやかに扱い、流れるような斬撃を放つ。
だが、キョウシはそれを容易く防ぐ。やはり儀式用の剣術を中心に学んできたシズカにとって、キョウシという相手は相性が悪すぎた。
キョウシは返すカタナで反撃を放つ。シズカの着物の袖が裂け、真っ白な腕が露出されるが肌は切れていない。すんでのところで身をよじり、何とか攻撃をかわすことができた。
しかしキョウシの連撃が遅いかかる。大きい体に合わず、素早いステップで間合いを詰め、逃げる隙を与えない。シズカが一瞬の隙を突いて反撃するも、キョウシは二メートルほど軽々しく跳躍しそれをかわす。
「気も扱えない君では、ボクを傷つけることすらできないよ」
キョウシの体全体を包み込むように気が張り巡らされていた。シリウスやガイドウが使う気と根本的には同じなのだが、彼らとは違い体の一点に集中させることはしない。その分、驚異的な破壊力は出ないのだが長時間の使用と全能力の底上げが可能になる。一挙手一投足の読みあいが重要な決闘に置いては、キョウシの扱い方のほうが有利ともいえる。
「確かに、貴方の知るわたくしでは気を扱うことができませんでしたね」
その瞬間、シズカの持つカタナ、〝桜花゛が橙色の淡い光を放った。間違いない、気の力が込められている。
シズカはキョウシの知らない間に気を習得していたのだ。
「ほう……ガイドウ師匠もよく教える気になったね。箱入り娘のように大事にしていたのに」
「ええ、これは師匠に教わったものではありません。わたくしが独学で学んだものです」
気の根本的な使用に関しては難しいことはない。ただ神経を集中させるのみだ。ただ、それを完全に一人の力で習得するとなると、これは天武の才がなければ非常に困難だ。
キョウシは内心で感心と驚愕に満ちていた。
(彼女はまだまだ伸びるだろう。やがてはそれだけで兵器のように。……ガイドウがあまり武術を教えたがらなかったのはこのためか……)
キョウシは橙国に外部と対抗できる力がないと憂いていた。しかし過去には気を扱うことのできる兵士を人間兵器のように扱っていたこともある。
(果たして、そうなることが国のためといえるのだろうか)
キョウシの頭に浮かんだ疑問はふり払われる。シズカの斬撃は今、驚異的な破壊力を秘めている。受け止めるわけにはいかない。襲い掛かる刃を、足元に力を籠め跳んで回避する。
シズカのほうも、気があるからと言ってただカタナを振ればいいだけではない。
気の弱点の一つとして、その制御が難しいということがある。たとえば振り下ろしたカタナが地面に着いたときにも力を放出してしまう。再び力を込めるのには相当な集中力は必要になる。
つまり、攻撃を外すわけにはいかないのである。
とはいっても空を切る空振りなら放出する心配はない。必然的に横薙ぎが多くなる。
シズカの攻撃は舞うようにくるくると回る。これは普段から訓練を積んだ儀式用の動きだ。だからと言って実践で使えないわけではない。キョウシは攻撃を回避するのにも疲弊してきた。
(このままでは……。ならばいっそ、こちらも一点に力を集中させ、相殺するか)
キョウシは全身にめぐる気を、剣先に集中させる。その途端、キョウシの持つカタナが伸びたように見えた。シリウスには過去にも体験がある現象だ。気の力が凶暴なほど剣先に集まる。
シズカもその時を待っていたのか、カタナを構え直し、キョウシと向き合う。
一瞬の静寂。
お互いの気を感じ合う。
二人の間を、一枚の木の葉が舞った。
同時に二人は動きだし、カタナがぶつかり合う。
あふれ出した気は空中で衝突し、膨張して暴風を巻き起こす。後ろで見ていたシリウスでさえ、城の外へ吹き飛ばされそうな威力だ。空中に浮かんでいた雲がすべて吹き飛び、満月がその姿を現す。
キョウシとシズカは一旦距離を取った。
シズカの気は今の一撃ですべて放出された。しかし、その目に映るものに驚愕した。
「……今のですべてかい? それならば、ボクには勝てない」
キョウシのカタナには、まだその光が残っていた。
キョウシは全身にめぐる気の半分だけを、先ほどの一撃に込めたのだ。残る半分はいまだ籠められている。完璧な制御と精神力だった。
「さらばだ。シズカ。君の描く未来では国は守れない」
「シズカッ!」
シリウスは飛び出そうとしたが、シズカは手でそれを制した。
キョウシが動く。
シリウスの目にはすべてがスローモーションのように見えた。
キョウシのカタナが振り上げられ、その光の軌跡を残しながらシズカのほうへと襲い掛かる。シズカはもう気の残っていないカタナでそれを受け止めようとしている。
(無理だ……!)
おそらく、キョウシの一撃によってカタナが吹き飛ばされ、シズカの体も大きく切り裂かれるだろう。だが、もうシリウスが飛び出しても間に合わない。
(また……目の前で守れないのか……?)
キョウシのカタナ、〝龍頭国鋼゛が月明かりに照らされる。その光と、満月にかざされた光でまばゆく光った。
そのカタナの刃の一点に、小さな黒点のようなものが見えた。
それは、本当にわずかな刃こぼれだった。キョウシが手入れを怠っていたわけではない。おそらくシリウスとの交戦の時、あの時はカタナに気を籠めていなかった。その時に付いたのだろう。
シズカのカタナ、〝桜花゛が動く。
その動きは、寸分の狂いもなく、ある一点へ。
そう、あのわずかな刃こぼれの場所へ。
まるで、細すぎるいばらの道をゆく、この国の未来のように。
何の迷いもなく、けれど確実に、それは貫いた。
〝龍頭国鋼゛が砕け散った。
それはキョウシの心を映し出すような光景だった。
同時にキョウシの右腕も深く切り裂かれていた。その手から、残った柄が零れ落ちる。
勝敗は決した。
「……わたくし一人では決して、勝ち取ることにできなかった勝利です。キョウシ。貴方にはなくてわたくしにはあったもの。それは仲間です。アヤノがいなければ、真相までは辿り着けませんでした。シリウスさんが居なければ、貴方のカタナに打ち勝つことができませんでした。そして、国民の方たちが居なければ、戦おうという意思を持つことができませんでした。……あなたの負けです。そして、この国も未来はわたくしが必ず守ります」
シズカの瞳は、涙でぬれていた。
キョウシは茫然とした顔で、それを見上げていた。いつの間にか跪いていた。
その涙を、ただ眺める。幼き頃からシズカはよく泣いていた。そしてアヤノとキョウシになだめられてようやく泣き止むのだ。その遠い日の情景を、まるで走馬燈のように思い出す。
いつの間にか、忘れていた光景だった。
国を守る事に固執して、見失ってしまった光景だった。
そして、最も大切なことに、いまさら気づいたのだった。
「は、はははっ。ボクは……ボクは馬鹿だ。なんで、なんでこんなに簡単なことを、こんなに大切な人を守れないんだ……」
キョウシはおもむろに立ち上がり、歩を進める。
「なにを……」
シリウスは彼の行動を読めなかった。
「シズカ。君は強い。ボクなんかよりもはるかに強い。そんな君なら……この国を任せても大丈夫そうだ」
キョウシは手すりに足を駆ける。
「やめろッ!」
シリウスがその行動を悟った時、
「さようなら。シズカ。ボクは君を……いいや、ボクにはもうそんな資格なんてないな。お別れだ」
キョウシの体は夜の橙国を舞った。
それは、枝から落ちる木の葉のように。




