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紅蓮の天狼  作者: 弥七
第四章 力を求めて
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第五十話 降りしきる雨と命の雫

 辻きり犯はカタナに持ち替えた後も、不気味な地面に這うような構えを崩さなかった。

 アヤノは相手の出方を慎重に伺いながら、じっと隙を狙う。

 両者の刃が幾度と無く交差し、二人の間には張り詰めた空気が夜の冷気に混じり、研ぎ澄まされる。

 だが、その中でアヤノは確かな感触を得ていた。

(先ほどの小ガタナよりもむしろ……戦いやすい)

 カタナは、たとえ不気味な構えだとしても、基本的には戦術が同じである。そして、アヤノは幼き頃からガイドウの元で指導を受けてきた。カタナ同士の戦いには慣れていた。


 カタナの斬撃が加速するにつれて、アヤノが優勢になり始めた。

 辻きり犯は徐々に傷が増え、動きが険しくなる。

 大きく一振りした後、一旦下がって距離を取った。辻きり犯は肩で息をしているように見える。

「素直に降伏しろ。この場で命までは取らない」

 アヤノが宣言した。

 

 辻きり犯の仮面は笑みのまま、腕をだらりと下ろした。

 そして、体勢を整えた。背筋を真っ直ぐ伸ばすと、背は意外にも高く、不気味な構えから一転、威圧感を与える堂々とした構えに変えた。

「……構えを変えても無駄だ。貴様では私に勝てない」

 自分を鼓舞するようにアヤノは叫び、再びカタナが交錯した。

 しかし、今度は今までよりも一撃一撃が重い。力が篭っていた。アヤノは流水のようにいなしながら、相手の力量を分析する。

(素直に構えればこれほど強いのか……では何故初めからこうしなかった?)

 あまり考えにふけっていると足元をすくわれそうだ。

 再び神経を集中させ、敵の攻撃を防ぐ。

 今度の辻きり犯は至ってシンプル、基本的な戦い方だった。だが、その力は強い。おそらく師のガイドウですら苦戦を強いられるかもしれない。

 アヤノの掌が冷たくなり、背筋を冷や汗が伝った。

 先ほどまでの優勢が嘘のようだ。

 辻きり犯が強く振り下ろしたカタナを辛うじて受け止める。

 

(これ以上続けていたら、やがては逆転されるか……)

 暗闇の中、月明かりだけが二人を照らしていた。

 夜風が二人の間を吹きぬける。同時に、漆黒の空に、雲がたなびきだした。次第に辺りの明るさが消失してゆく。

 完全に真っ暗になるその瞬間、辻きり犯は大きく踏み出し、一直線に飛び込んできた。この一撃で勝負を決するつもりだ。

 しかし、今のアヤノは暗闇に目が慣れている。辻きり犯の刹那の攻撃を完全に見切っていた。だからといってすぐさま反撃にはうち出さない。アヤノには秘策があった。

 男性の剣士が大半を占める中、小柄な女性であるアヤノが、橙国内で有数の剣士として名をとどろかせる事ができるのは、この秘策にある。

 返し技。わざと隙を見せ、敵の攻撃を誘い、実はその攻撃に生じる一瞬の防御の緩みを突き返すその技こそが、アヤノの得意技であり、秘策だった。そして、この技を初見で見破るものはいない。


 完全に、アヤノの技の中だった。アヤノには既に一秒一秒がスローモーションのように感じる。辻きり犯のカタナの切っ先、軌道が全てその中で見極められている。奴は確実にアヤノの右肩を狙い、袈裟切りを放つだろう。

 アヤノの頭には、もう反撃のパターンが見えていた。

 辻きり犯のカタナが、予想通りに動く。

 アヤノは反撃の構えを取る。

 刹那の攻防。

 だが、その結果はアヤノを裏切った。

 辻きり犯は、彼女の反撃を全て見切っていた。

 行動を読まれていたのは、アヤノのほうだった。


 その直後には、何が起こったのかわからなかった。ただ、雲の隙間から顔を出した、月が視界に真ん中に浮かんでいた。

 体の感覚はない。だが、おそらくはもう既に、そこの見えない谷底に落ちているのだろう。今は落ちている真最中。浮遊感の後には、暗い寒い谷底に打ち付けられ、やがて骸と化すのだろう。

 恐怖は無い。ただ、悔やまれるだけだ。

 ――――ああ、御免なさい。シズカ。私、帰れそうにありませんでした。

 もう、最後に交わした言葉さえも、思い出すことが出来ない。

 最期が近い。

 沈み行く意識の中で願う。

 もう一度だけ、みんなに会いたかった。


 だが、その願いが叶うことは無い。

 アヤノは一人、寒い夜の真ん中に横たわり、やがてその瞳を閉じた。



***


 

 その日は朝から雨が降り続いていた。昨晩に見られた見事な月も、夜明けになる頃には分厚い雲に覆われ、太陽ですら今日はその姿を見せない。静寂に包まれた橙国を、大雨が塗り替えていた。

 シリウスは、雨が地面に降りつける音で目を覚ました。

 昨晩開けたまま寝てしまった窓から、大粒の雨水が吹き込んでいた。床まで水が滴り、ぬれている。シリウスはベッドから跳ね起きて、窓を閉めた。

 まるで空が泣いているようだ。ポツリと思い浮かんだ時、外の様子がおかしい事に気がついた。こんな雨の朝方に、街中には人が忙しそうに、あるいは焦って動き回っていた。正確な時間は分からないが、人々が行動し始めるのはせいぜい昼過ぎだろう。

 そして、その人々の多くは城の兵士達だった。シリウスと肩を並べて訓練を受けている者たちは新兵なので、普段は城で勤務していないが、この日は既に鎧を身に纏い、命令に従っていた。

 熱狂、それも恐怖に近い。感情が溢れているのを感じる。シリウスは急いで宿から飛び出した。


 路上にも、多くの兵士が立っていた。

 シリウスと同じようにただならぬ雰囲気を感じて出てきた市民もいて、人ごみもできていた。シリウスは人を掻き分け、騒ぎの中心を探す。足元を雨水がぬらし、音を立てた。

 大通りを通り抜けると、城の正面門の前まで来た。

 どうやらここが騒ぎの中心のようで、一際大きく人が集まり、バリケードのようにロープが張られていた。

 兵士が門の手前で円を描くようにぐるりと囲い、民衆が押し寄せている。背の低いシリウスは何があるのか、背伸びをしても見えなかった。

 

 仕方なく回り込むようにして人のいない所を探すが、それも上手くいかなかった。

 だが、背の高い傘の下に、見知った二つの顔を見つけた。

「シズカ、キョウシ。これはいったい……」

 初めて会った時と同じように町娘の恰好をしたシズカは、顔を沈めていてその表情は見えなかった。キョウシが以前は穏やかな表情だったが、今は苦悶の表情をしている。

「シリウス。ちょっとこちらへ……」

 呆然と立ち尽くすシズカに傘を渡し、キョウシは雨にぬれるのをいとわずシリウスを手招いた。

 路地の角の家屋の屋根が張り出た場所で雨をしのぎながら、肩を並べた。


「新しい犠牲者が出たんだ」

 キョウシは感情を押し殺して言った。

「それは……」

「アヤノだ」

「えっ?」

 シリウスは自分の耳を疑った。

「新しい犠牲者は、アヤノだったんだよ」

 体温が降下するのを感じた。シリウスは呼吸することすら忘れているような感覚がした。

 昨日まで、ほんの数時間まえには言葉を交わした人間が、もうこの世にはいない。久しく忘れていた、死の感覚。ズルリと自分の体内に冷たいものが流れ込んできた。

 膝が震え、壁に体重を任せる。

 過去の記憶がフラッシュバックする。冷や汗が額をすべり、キョウシに肩を揺らされて意識が戻った。

「大丈夫かい? 酷い顔色だ。すまなかったね、いきなりこんな話をして」

「いや、いいんです」

 存外平気そうなキョウシだが、彼も体が強張っているのか、ぎこちない仕草だった。それも当然だろう。シリウスとは比べ物にならないほどの年月をともに過したはずだ。必死に動揺を押し込めているのだろう。

「それより、シズカは大丈夫なんですか?」

 先ほどから顔を上げていない。横目で彼女の様子を伺った。

「……今は一人にしてあげよう」

 キョウシも沈痛そうにうつむいた。



***



 雨が降り続いていた。

 視界が、水でぼやける。

 冷たい地面には、もう彼女の亡骸はなかった。既に城の安置室に運び込まれている。おそらく、今日中には葬儀が行われるだろう。

 城は大騒ぎだった。姫に近い位置にいる人物でもあり、また名の有る剣士だった彼女でも歯が立たなかった。増強された見回り兵も全て気絶していた。もう、国の崩壊も近いのではと噂されていた。

 しかし、そんな事はもうどうでも良かった。

 あと少し、もう少しだけ発見が早ければ回避できた事もあるのではないか。彼女の帰還をまって目を覚ましていればよかったのではないか。もっと早く、犯人を割り出して捕まえていれば、死なずにすんだのではないか。

 頭の中で感情と事実とが交差し螺旋を生み、やがて心の奥底へ沈んでゆく。

「わたくしは……いったいどうしたら……」

 どう報いればいいのだろう。自分の弱さと無力さにうなだれた。

「どう、仇を討てばいいのか……」

 心の中に、燃え上がる炎はもう無い。

 闇が体を包んだような気がした。


 一片、花弁が落ちてきた。

 それは地面に降り、水溜りの上に浮かんだ。

 橙色の花が、地に落ちた。

若干執筆に手間取りました。ちょっと遅れてしまいました。

おかげさまで五十話目です。見てくれる読者が少しでもいるから続けていられるんだと思います。有り難うございます!

 

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