EP 6
熱海温泉と三河の白い流星〜伝説の始まり、そして母は金目鯛をほぐす〜
数週間後。
静岡県、熱海温泉。相模湾を一望できる最高級旅館の特別室にて。
「くぁ〜っ! 露天風呂、最高じゃねぇか! 腰の痛みがスゥーっと抜けていくぜ……!」
浴衣姿の鷹人は、畳の部屋で大の字になりながら、満面の笑みで唸っていた。
土建屋の激務で悲鳴を上げていた彼の体は、名湯と凄腕マッサージ師のおかげで完全にリフレッシュしたようだ。
「パパ、卓球! ちーちゃん、ピンポンするの!」
「おっ、よーし! パパが相手になってやるぞー!」
小さな浴衣を着た千姫が、鷹人の背中に乗っかってはしゃいでいる。
その横では、長男の信長が、すでに空になったおひつ(三杯目)を抱えながら、豪華な夕食の余韻に浸っていた。
「いやー、マジで美味かった。まさかこんなすげぇ旅館に家族全員で泊まれるなんてな。母さん、くじ引きか何かで当てたの?」
熱海旅行の出どころを詳しく知らされていなかった信長が、お茶を啜りながら尋ねる。
窓際で海を眺めていた恵は、ふんわりと微笑んだ。
「んー、まぁそんなもんよ。ちょっと町内会のイベントでね、エスティマちゃんでひとっ走りしてきたら貰えちゃったの」
「ふーん……。あ、そういえばさ」
信長は、何気なくスマートフォンを取り出し、SNSの画面を開いた。
「最近、車好きのヤツらの間で、すげぇ動画がバズっててさ。愛知の公道ラリーの映像らしいんだけど」
「……あら、そうなの?」
恵の肩がピクッと跳ねたが、信長は画面に夢中で気づかない。
「なんか、『三河ダイナマイツ』っていう地元の有名なプロチームが、真っ白なノーマルのエスティマにぶっちぎられるっていう信じられない動画でさ。しかもそのエスティマ……」
信長が読み上げるSNSのトレンドワードには、こんな言葉が並んでいた。
【悲報】三河最強のWRX、買い物途中のオカン(44)のミニバンに敗北
【三河の白い流星】あのエスティマの溝落とし、物理法則無視してて草
【特売タイムアタック】ゴール直後に表彰式ブッチしてスーパーに向かうオカン、覇王すぎるだろ……
「ネットじゃ『三河の白い流星』とか『給食の女神』とか呼ばれて大騒ぎになってるんだよ。しかも、よく見たらうちのエスティマと同じ型だし、リアガラスに『BABY IN CAR』のステッカーまで貼ってあってさ。世の中にはとんでもない主婦がいるもんだよなー」
信長はケラケラと笑いながら、動画を再生しようとした。
その時である。
「はいはい、スマホはそこまで! せっかくの旅行なんだから、画面ばっかり見てないの!」
恵がサッと信長のスマホを取り上げ、代わりに、美しく煮付けられた巨大な金目鯛の皿をドンッと置いた。
「ほら、金目鯛の煮付け、まだ残ってるわよ。野球部の四番なんだから、骨の周りの一番美味しいところ、残さず食べなさい!」
「お、おう! 食べる食べる!」
食い気の勝る信長は、あっさりとスマホの話題を忘れ、箸を構えた。
(……ふぅ、危ない危ない)
恵は内心で冷や汗を拭いながら、お茶を一口飲んだ。
自分がネットで『三河の白い流星』などという厨二病全開の異名で呼ばれ、伝説の走り屋扱いされているなど、家族に知られるわけにはいかない。
もし鷹人に知られれば「お前、あんな危ないことして!」と怒られるか、あるいは「俺の嫁、最強!」と変にテンションを上げられて面倒なことになるのが目に見えている。
「恵ー、お茶おかわりもらえるか?」
「はいはい、今淹れるわよ」
鷹人に呼ばれ、恵は急須を手にする。
窓の外には、美しい熱海の夜景と、静かな波の音が広がっていた。
(まぁ、鷹人の肩こりも治ったし、ちーちゃんも喜んでるし。信長も美味しいご飯が食べられたんだから、結果オーライよね)
『伝説の走り屋』としての名声など、彼女にはどうでもよかった。
愛する家族が笑顔でいてくれること。
そして、明日帰ったら、スーパーで買ってきた特売の合い挽き肉で、信長の大好きな特大ハンバーグを焼いてやること。
それこそが、佐藤恵という『最強の給食のおばちゃん』にとって、何よりの勲章なのだから。
「さーて、明日はどこに観光に行こうか!」
家族の笑い声が響く熱海の夜。
一方その頃、三河の峠では「あの白いエスティマ」の幻影を追い求める走り屋たちが急増し、地元の警察が頭を抱えていることなど、恵は知る由もなかった――。




