EP 3
究極の慣性ドリフト!あるいは寸胴鍋の心得
「チッ、ウインカーだと……? ふざけやがって、ババアがァ!」
赤いスポーツカーを駆るサングラスの男、翔太は、バックミラー越しにチカチカと点滅するエスティマの右ウインカーを見て、顔を真っ紅に上気させた。
公道ラリーという真剣勝負の場で、ファミリーカーに、それも主婦に後ろに貼り付かれ、追い越し車線(ここは一般道ではないが)を示す合図を出される。
これ以上の屈辱はなかった。
「舐めるなよ! ミニバン風情が、この俺の『赤い悪魔』に勝てるわけねぇだろッ!」
翔太はアクセルを床まで踏み込み、直後の右カーブへ突っ込んだ。
タイヤが悲鳴を上げ、車体が横滑りしかけるのを、無理やりパワーでねじ伏せる。粗いが、速い。一般レベルなら「峠の走り屋」として持て囃されるレベルだ。
「これならどうだ! ついて来れ……ッ!?」
カーブを抜け、翔太が再びミラーを見た瞬間、心臓が凍りついた。
いない。
ミラーのどこにも、白いエスティマの姿がない。
(事故ったか? まぁ、自業自得だ……)
そう思った、次の瞬間。
「お先に失礼するわねぇ」
――左だ。
翔太の車の左側、つまりカーブの内側の、わずか数センチの隙間に。
いつの間にか、白いエスティマが潜り込んでいたのだ。
「馬鹿な……ッ! あの速度でインを突くだと!? 横転するぞ!」
翔太は驚愕に目を見開いた。
通常、物理法則に従えば、車高の高いエスティマがあの速度で内角を突けば、遠心力で外側に吹き飛ぶか、内側のタイヤが浮いて横転する。
だが、恵のエスティマは横転などしなかった。
それどころか、車体は地面と水平を完璧に保ったまま、音もなく、滑らかに翔太の車の横をすり抜けていく。
それこそが、恵の真骨頂。
『寸胴鍋の心得』である。
(熱々のミネストローネを何十リットルも入れた寸胴鍋を、軽トラックの荷台に乗せて運ぶ時。急ブレーキや急ハンドルは厳禁。スープの表面に波さえ立てず、かつ最速で学校へ届けなければならない……)
20年間、毎日繰り返されたその修練は、彼女に『究極の慣性コントロール』を覚えさせていた。
ブレーキングによって前輪に荷重をかけ、ステアリングを切る瞬間、わずかに後輪を滑らせる。しかし、滑らせるのは「タイヤ一粒分」の横滑りだけ。
外から見れば、まるで氷の上を滑る巨大な鉄の塊。
無駄なロール(傾き)を一切発生させず、遠心力を全て前進する力へと変換する、物理法則を欺くかのようなコーナリング。
助手席に乗っていた翔太の彼女は、呆然と横を過ぎ去るエスティマの車内を見た。
運転席の恵は、片手でハンドルを握り、もう片方の手でダッシュボードの買い物メモを直していた。
そして、リアガラスの『BABY IN CAR』のステッカーが、翔太の視界の先へ、スルスルと遠ざかっていく。
「嘘だろ……。買い物メモ見ながら、片手運転で、俺を……?」
翔太が呆然とアクセルを緩めた瞬間、エスティマはあっという間に霧の彼方へ消え去った。
後に残されたのは、スポーツカーの虚しい排気音と、翔太の完敗の事実だけだった。
その頃、コース各所に配置された運営スタッフの無線は大混乱に陥っていた。
『C地点、驚愕の事実です! スタートで出遅れたゼッケン74番、白いエスティマが、現在トップを独走中! 重繰り返します、トップはエスティマです!』
『嘘だろ!? ガン・サン(岩石・サンセット)の峠を、あのミニバンがノーブレーキで抜けていったぞ!』
運営本部に激震が走る中、首位を独走する恵は、ふぅと小さく息を吐いた。
「よしよし、エスティマちゃん、いい調子ね。これなら11時の特売には間に合いそう。ハンバーグのタネをこねて、鷹人が帰ってくるまでに千姫をお風呂に入れて……」
彼女にとって、このレースは「命がけの勝負」ではない。
愛する家族のために、熱海温泉をもぎ取るための、少し急ぎ目の「お買い物ドライブ」に過ぎなかったのだ。
そして、物語の舞台は、さらなる強豪たちが待ち受ける、中盤の難所へと移っていく――。




