EP 2
場違いなファミリーカーと、嗤うスポーツカー
日曜日、午前9時。
愛知県三河地方の山間部に設けられた『三河公道ラリーカップ』の特設スタート地点は、鼓膜を震わせる爆音に包まれていた。
「ウオォォォン!」「キュルルルッ!」
並んでいるのは、地を這うような真っ赤なイタリア製スポーツカーや、巨大なリアウィングを付けたゴリゴリのチューニングカーばかり。
県公認の町おこしイベントとはいえ、優勝賞品の「熱海温泉・最高級旅館ペア宿泊券(※今回は特例で家族全員招待に変更可)」を狙い、県内外から腕自慢の走り屋や、プロ一歩手前のアマチュアレーサーたちが集結していた。
そんな、ガソリンの匂いと男たちの闘気が充満するスタートラインに。
「あらあら、すごい音ねぇ。千姫が起きてなくてよかったわ」
一台の、生活感あふれる真っ白なトヨタ・エスティマが、場違いすぎるアイドリング音を響かせて停車した。
「……は?」
「おいおい、なんだあの車……」
「おばちゃん、道間違えてるぞ!」
周囲のレーサーたちが一斉にざわめく。
エスティマのリアガラスには燦然と輝く『BABY IN CAR』のステッカー。
ダッシュボードには『特売:合い挽き肉・タマネギ』と書かれたスーパーのメモ書きがクリップで留められている。
運転席の窓がウィーンと下がり、エスティマから顔を出したのは、割烹着こそ着ていないものの、どこからどう見ても普通の主婦――佐藤恵(44歳)だった。
「おーい、そこのオバサン!」
隣のレーサーから声がかかる。
数千万円は下らないであろう、真っ赤な高級スポーツカーに乗ったサングラスの若い男だ。助手席には派手な女性を乗せている。いかにも「金持ちのドラ息子」といった風貌だった。
「ここはスーパーのタイムセールの列じゃないぜ? ファミリーカーが迷い込む場所じゃねえ。怪我する前に、さっさとウインカー出して帰りな!」
周囲のギャラリーからも、ドッと嘲笑が漏れる。
しかし、恵は全く動じなかった。むしろ、近所の若者に話しかけるような朗らかな笑顔で返す。
「あら、ご心配ありがとう。でもちゃんとエントリーしてるのよ。うちの旦那、最近お仕事で腰を痛めちゃっててね。熱海温泉、ちょうどいいのよ」
「はっ、温泉旅行目当ての素人が! 最初のカーブでチビってブレーキ踏むのがオチだな。邪魔だけはすんなよ、オバサン!」
ドラ息子の吐き捨てるような言葉にも、恵は「はいはい、気をつけるわねぇ」とのれんに腕押し。
彼女の頭の中は、(今日の夕飯は信長の大好物のハンバーグにして、タネを寝かせる時間を考えると……12時前には帰らないとね)という、夕飯の段取りでいっぱいだった。
『各車、スタート1分前!』
アナウンスが響き、スタートシグナルが赤く点灯する。
スポーツカーたちが一斉にエンジンを吹かし、猛獣のような咆哮を上げた。
対する恵のエスティマは、静かにDレンジに入れられただけ。
3、2、1……青!
「オラァッ!」
シグナルが変わった瞬間、ドラ息子の赤いスポーツカーが甲高いスキール音(タイヤの摩擦音)と白煙を上げ、ロケットのように飛び出していく。他のチューニングカーもそれに続いた。
「うふふ、若いって元気ねぇ。じゃあ、エスティマちゃん。私たちも行きましょうか」
恵がアクセルを踏み込む。
スポーツカーのような派手な発進ではない。だが、タイヤの空転を1ミリも許さない、完璧なトラクション(駆動力)コントロール。
重い車体は、音もなく、しかし弾かれた矢のようにスッと前へ出た。
コースは、ここから三河特有の細く険しい連続ヘアピンカーブ(峠道)に突入する。
先行する赤いスポーツカーのドラ息子は、ルームミラーを見てニヤリと笑った。
「フン、あのオバサンのポンコツ、もう見えなく……」
――バンッ!
次の瞬間、ドラ息子の顔が驚愕に引きつった。
一つ目の急カーブを抜けた直後、バックミラーの視界いっぱいに、真っ白なエスティマの巨大なフロントグリルが張り付いていたのだ。
「なっ……!? ミニバンが、あんな速度でコーナーに突っ込んでくるだと!?」
通常、車高の高いミニバンであの速度でカーブに入れば、車体が大きく傾き(ロールし)、最悪の場合は横転する。
しかし、恵のエスティマは違った。
『寸胴鍋の給食スープを、一滴もこぼさずに運ぶ』
『泥のように眠る野球部員たちを、1ミリも揺らさずに運ぶ』
20年以上の歳月をかけて、彼女の体に染み付いた「究極の荷重移動」。
ブレーキングとハンドリングの完璧な連動により、エスティマは全く車体を傾けることなく、恐ろしいほどのコーナリングスピードを維持したまま、赤いスポーツカーの背後にピタリと喰らいついていたのだ。
「さてと。夕飯の仕込みもあるし、サクッと抜かせてもらうわよ」
恵は鼻歌交じりに、次の連続カーブへとウインカーを出した。




