第5話 魔王城の朝食
翌朝。
勇者アニアスが目を覚ましたのは、窓から差し込む陽の光でも、小鳥のさえずりでもなかった。
ガンガンガンガン!!
扉を拳で殴るような、暴力的なノックの音だった。
「アニアスー! 朝だぞー! 入るぞー!」
返事も待たずに、重厚な扉が勢いよく開く。
アニアスはとっさに『夢魔の羽毛布団』を頭まで被り、巨大な芋虫のように丸まった。
「……むぅ」
「なんだその情けない声は。ほら、起きろ。朝食の用意ができている」
「……あと五年寝かせて」
「長すぎるわ! 勇者ならシャキッと起きんか!」
リーズヴェルトに布団を容赦なく剥ぎ取られ、アニアスはしぶしぶ体を起こした。
寝癖で髪が芸術的なまでに爆発している勇者の姿を見て、魔王は「くくっ」と喉を鳴らして笑った。
「酷い顔だな。まあ良い、顔を洗ってこい。食堂ではなく、ここのバルコニーで食べるとしよう」
アニアスはふらつく足取りで洗面所へ向かった。
蛇口をひねると、魔石の力で適温に調整されたお湯が出てくる。顔を洗うだけで感動できるなんて、文明とは素晴らしいものだ。
冷たい川の水で顔を洗い、タオルもなくて袖で拭っていた数日前の自分が、まるで前世の記憶のように思える。
顔を拭き、少しだけシャキッとして部屋に戻ると、バルコニーのテーブルには既に豪勢な朝食が並べられていた。
厚切りのベーコンのような肉、色鮮やかなサラダ、湯気を立てる黄金色のスープ、そして山盛りのパン。
どれも人間界では見たことのない食材だが、漂ってくる香ばしい匂いは、アニアスの空っぽの胃袋を強烈に刺激した。
「これは……?」
「魔界特産の『コカトリスの卵』のオムレツと、『オーク肉』の燻製だ。人間界のものより味が濃くて美味いぞ」
アニアスは席に着き、ナイフとフォークを手に取った。
まずは、黄色く輝くオムレツにナイフを入れる。
ぷるん、とした弾力がありながら、中はとろりとした半熟だ。一口大に切り、口へと運ぶ。
「……っ」
瞬間、濃厚な卵の旨味が口いっぱいに広がった。
バターの風味と、わずかに効いた塩味が絶妙なバランスで舌の上で踊る。噛む必要さえないほどに柔らかく、喉を通った後も幸福な余韻が残る。
「うまっ……なにこれ、うまっ……」
思わず声が出た。語彙力など吹き飛ぶ美味さだった。
今まで村で食べていた干し肉や、旅の途中でかじっていた岩のように硬いパンとは、次元が違う。生物としての格が違う味がする。
「そうだろうそうだろう。たくさん食え」
リーズヴェルトは自分の皿には手を付けず、頬張るアニアスをニコニコと眺めていた。まるで孫を見る祖母か、息子を見る母親のような慈愛に満ちた目だ。
「アニアスは細すぎるからな。もっと肉をつけて、魔王軍のマブダチとして恥ずかしくない体にならねば」
「んぐ、んぐ……。リーズヴェルトは、食べないのか?」
「我か? 我は高位の魔族ゆえ、魔力が主食のようなものだ。食事は嗜好品に過ぎん。だが……貴様がそうも美味そうに食うのを見ていると、こちらも腹が減るな」
そう言って、彼女も優雅にパンをちぎって口に運んだ。
バルコニーを吹き抜ける風が心地よい。
眼下には魔界の街並みが広がっている。人間界の街とは違い、建物がいびつな形をしていたり、空飛ぶ絨毯が行き交っていたりとカオスだが、ここからは遠すぎて人影は見えない。
ただ、穏やかな時間が流れているだけだ。
「……平和だな」
スープを飲みながら、アニアスはふと漏らした。
「ん? 何か言ったか?」
「いや……魔王城って、もっと恐ろしい場所だと思ってたから。毎日が殺し合いで、血の雨が降ってるような」
「ふん、人間どもの勝手な妄想だ。我らは無益な争いは好まぬ。……まあ、部下たちは少々血の気が多いが、根は良い奴らだ」
部下、という言葉にアニアスの手がピタリと止まった。
そうだ。忘れていたが、この城には魔王以外にもたくさんの魔族がいるのだ。
「……他の人たちに、会わなきゃダメかな」
アニアスの顔が曇る。
美味しいご飯とふかふかのベッドは最高だが、「他者とのコミュニケーション」という対価を支払わなければならないなら、山籠りの方がマシかもしれない。いや、マシではないが、それくらい嫌だ。
「無理にとは言わん。だが、ずっとこの部屋にいるわけにもいかんだろう? 大浴場にも行かねばならんし」
「う……」
アニアスは呻いた。部屋のシャワーもいいが、広いお風呂には入りたい。しかし、そこで誰かと鉢合わせたら……裸の付き合いなんて、ハードルが高すぎて高山病になりそうだ。
「安心しろ。しばらくは我がついていてやる」
リーズヴェルトが悪戯っぽくウィンクした。
「それに、貴様のその『影の薄さ』があれば、会いたくない時は隠れていれば誰も気づかんよ。昨日のように、気配を消していれば良い」
「……それもそうか」
アニアスは納得した。
自分の特技(というか体質)が、こんなところで役に立つとは。
誰にも気づかれずに大浴場に行き、誰にも気づかれずに厨房でつまみ食いをする。
まさに、夢の《《透明人間ライフ》》ではないか。
(よし。なんとかなりそうだ)
アニアスは残りのオーク肉を頬張った。
噛みしめるたびに、肉汁と共に生きる力が湧いてくる。
魔王城での生活、二日目。
今のところ、命の危険はない。むしろ、血糖値と怠惰な心が危険なくらいだ。
だが、アニアスはまだ知らない。
この城には、一癖も二癖もある『四天柱』たちが、新入りの勇者に興味津々で待ち構えていることを。
そして、彼の「影の薄さ」さえも見破る(かもしれない)変人たちがいることを。
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