第49話 騎士団長の胃痛、あるいは中間管理職の憂鬱
聖王国フソルパド、王都。
その中心に位置する騎士団本部の執務室で、一人の男が深く重い溜息をついた。
「……胃が痛い」
男の名はガレイン。
聖王国騎士団の団長を務める、歴戦の猛者である。
鋼のような筋肉と、数々の修羅場をくぐり抜けてきた古傷が刻まれた顔立ちは、見る者を畏怖させる威厳に満ちている。
だが、現在の彼は、机の上に積み上げられた書類の山と、空になった胃薬の瓶を前に、完全に敗北者の顔をしていた。
「団長! 大変です! 宰相閣下からまた催促の矢文が!」
部下の騎士が慌てて部屋に入ってくる。
ガレインはこめかみを揉みながら、力なく顔を上げた。
「……今度はなんだ。予算の削減か? それとも閲兵式の強要か?」
「いえ、『異界の勇者ショウ殿の動向はいかほどか。魔王討伐の吉報はまだか』との問い合わせです!」
その言葉を聞いた瞬間、ガレインの胃袋にキリキリとした激痛が走った。
勇者ショウ。
禁忌の儀式によって異世界から召喚された、新たな希望。
彼は「魔王を倒してくる」と意気揚々と旅立ってから数週間、音信不通となっていた。
「……まだ、連絡はないのか?」
「はい。王都を出発して以来、定期連絡用の使い魔も戻ってきません。最後に確認されたのは、国境付近の『道の駅』でパンを買っていたという目撃情報のみです」
「パンを買っていただと……? 遠足か。あやつは遠足に行っているのか」
ガレインは頭を抱えた。
召喚された直後から、あの勇者は問題児だった。
「装備が重い」だの「デザインがダサい」だのと文句を言い、あろうことか伝統ある聖騎士の鎧を脱ぎ捨て、奇妙な布切れのような服、彼が言うところのジャージで旅立とうとしたのだ。
説得の末、なんとか軽装鎧を着せたが、その際も「動きにくい」「クールビズにしろ」などと意味不明な言葉を喚いていた。
「捜索隊は出したのか?」
「はい。ですが、街道は不気味なほど平和で、魔物の姿も戦闘の痕跡もありません。勇者殿がどこへ消えたのか、皆目見当がつかないのです」
神隠し。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
だが、ガレインの直感は告げていた。あのお調子者の勇者が、そう簡単に死ぬわけがないと。
おそらく、どこかで道草を食っているか、あるいは――考えたくもないが、魔王軍に捕らえられているか。
「……とにかく、捜索を続けろ。宰相には『現在、勇者殿は敵地の深部へ潜入中であり、極秘任務のため連絡を絶っている模様』と適当に報告しておけ」
「は、はい! 了解しました!」
部下が敬礼して去っていく。
ガレインは机の引き出しから新しい胃薬を取り出し、水なしで飲み込んだ。
苦い。人生の味がする。
だが、彼を悩ませる種は、勇者だけではなかった。
「団長、失礼します。……例の件について、報告書が届きました」
別の部下が、疲労困憊した顔で入ってくる。
その手にあるのは、分厚い羊皮紙の束だ。
差出人の名前を見た瞬間、ガレインの胃痛はレベルアップした。
『聖女エミリア』。
「……読め。要点だけでいい」
ガレインは目を閉じた。聞きたくない。だが、聞かねばならない。それが中間管理職の義務だ。
「はっ。……まず、南の湿地帯より。『蚊が鬱陶しかったので、湿地帯の水を全て蒸発させました。これで安眠できます』とのことです」
「……地形が変わったな。地図の書き換えを申請しておけ」
「次に、西の鉱山都市より。『ドワーフたちの服が汚れていたので、街ごと洗濯しました。感謝の言葉はまだ頂いておりませんが、きっと照れているのでしょう』とのことです」
「……ドワーフたちからの損害賠償請求が怖いな。財務省に回しておけ」
「最後に、北の温泉街に向かう途中とのことですが……『私の行く手を阻む山が邪魔でしたので、聖なる光でトンネルを開通させました。これでアニアス様の元へ一直線です』と」
「……山を、貫いたのか」
ガレインは天を仰いだ。
聖女エミリア。
彼女は国一番の治癒術師であり、国民からの人気も高いアイドル的存在だ。
だが、その本性は、幼馴染である先代勇者アニアスへの歪んだ愛情で暴走する、制御不能の破壊兵器である。
彼女が動けば、魔王軍よりも先に国土が更地になりかねない。
「……アニアスは、まだ見つからんのか」
ガレインはポツリと呟いた。
先代勇者アニアス。
地味で、目立たなくて、会議の時も隅っこで気配を消しているような青年だった。
だが、彼は臆病なだけで常識人だった。
無茶な命令にも「はぁ……」とため息をつきながら従い、決して暴走することなく、着実に任務をこなしていた。
今にして思えば、彼は理想的な部下だったのだ。
「ああ、アニアス……。お前は今、どこにいるんだ。お前がいないと、この国はツッコミ不在で崩壊してしまうぞ……」
ガレインの悲痛な叫びは、執務室の壁に虚しく吸い込まれていった。
◇
その時。
窓の外から、一羽の白い鳥が飛んできた。
伝令用の使い魔だ。
鳥はガレインの机の上に降り立つと、足に結ばれた小さな筒を差し出した。
「む? これは……勇者ショウの使い魔か?」
ガレインは慌てて筒を開け、中の手紙を取り出した。
ついに連絡が来たのだ。
魔王城に到達したのか。それとも、魔王を倒したという吉報か。
ガレインは震える手で手紙を広げた。
そこには、ミミズがのたうち回ったような独特な筆跡で、こう書かれていた。
『お疲れ様です、ガレインさん。
勇者ショウです。
いろいろあって、今、魔王城にいます。
魔王城ってすごいっすね。床暖房とかあるんですよ。
あと、ご飯がめっちゃ美味しいです。
先輩も元気です。
俺、しばらくここで修行(雑用)することになったんで、探さないでください。
P.S. こっちの世界のシャンプー、髪がキシキシするので、いいやつ送ってください』
「…………」
ガレインは手紙を読んだまま、石像のように固まった。
脳が理解を拒否している。
魔王城にいる?
床暖房?
先輩が元気?
そして、探さないでくれ?
「……ふざけるなァァァァァッ!!」
ガレインの怒号が王都の空に轟いた。
机を叩き割り、立ち上がる。
「なんだこの報告書は! ナメているのか! 敵の本拠地で何をご飯食べてくつろいでいるんだ! しかもアニアスも一緒だと!?」
血管が切れそうだった。
この数週間の心労は何だったのか。
自分が胃薬を噛み砕きながら必死に上層部への言い訳を考えている間に、彼らは魔王城で優雅な生活を送っていたというのか。
「連れ戻す……! 絶対に連れ戻して、説教部屋に監禁してやる!」
ガレインは壁に掛けてあった自分の大剣をひっ掴んだ。
「団長!? どちらへ!?」
部下が驚いて声をかける。
「出撃だ! 総員、準備しろ! これより魔王城へ強行突入し、バカ勇者どもをふん縛って回収する!」
ガレインの目には、鬼気迫る光が宿っていた。
それは正義感ではない。
中間管理職の積もりに積もったストレスが、ついに爆発した瞬間だった。
「待っていろアニアス、ショウ! 貴様らの『ホワイトな職場』など、この私が残業と休日出勤の地獄に変えてやる!」
聖王国騎士団長ガレイン。
彼もまた、アニアスの平穏を脅かす、新たな刺客として動き出したのである。
もっとも、彼が魔王城のコタツと温泉の魔力に勝てるかどうかは、神のみぞ知るところだが。




