第41話 聖王国の焦燥と、禁忌の儀式
魔王城に、平和な朝が戻ってきた。
あの大規模なシロアリ駆除から数週間。城内の空気は完全に入れ替わり、むしろ以前よりも清浄な気がする。
最上階のVIPルーム。
勇者アニアスは、愛用の『魔導聖剣コタツ』に入り、窓から差し込む朝日を浴びながら茶を啜っていた。
「……平和だ」
しみじみと呟く。
波乱万丈だった魔界漫遊の旅も、今となっては良い思い出だ。
だがやはり、自分の部屋で、自分のコタツに入って過ごす時間こそが至高である。
「アニアスよ、茶菓子を持ってきたぞ」
魔王リーズヴェルトが部屋に入ってくる。
手には、旅先で手に入れた『氷結地獄の温泉饅頭』と『迷わずの森の木の実クッキー』が載った盆を持っている。
「気が利くな。ちょうど甘いものが欲しかったところだ」
「ふふん、マブダチの好みくらい把握しているさ。……ほら、あーん」
「……自分で食う」
アニアスは饅頭を一つ手に取り、口に運んだ。
薄皮の中に詰まった餡の甘さが、口いっぱいに広がる。
これぞ日常。これぞ幸福。
聖女エミリアはまだ旅の空の下だ。
彼女からの定期連絡(という名の怪文書)によると、現在は『南の湿地帯で蚊を絶滅させる活動』に勤しんでいるらしい。
しばらくは帰ってこないだろう。
「この平穏が、永遠に続けばいいのにな」
アニアスは窓の外、遥か彼方に広がる空を見上げた。
その空の向こう側――人間界の方角で、どす黒い雲が渦巻き始めていることなど、知る由もなく。
◇
一方その頃。
人間界、聖王国フソルパドの王都。
その地下深くに存在する『禁忌の祭壇』には、重苦しい空気が充満していた。
「……勇者アニアスの反応、依然として消失したままです」
神官の一人が、震える声で報告する。
祭壇の中央には、巨大な魔導レーダーのような装置が置かれているが、そこには何も映っていない。
「馬鹿な……! 聖光鳥も、騎士団も、聖女様さえも送ったのだぞ! なぜ連れ戻せない!」
祭壇を見下ろす玉座で、国王が頭を抱えていた。
彼の胃には、既にいくつもの穴が開きそうだ。
「聖女エミリア様からの連絡も途絶えました。……最後の報告によれば、『魔界の汚れが酷いので、大掃除をしてから帰ります』とのことですが……」
「あやつは何を言っておるのだ! 掃除などしている場合か!」
国王が叫ぶ。
事態は深刻だった。
魔王軍の動きは静かだが、いつ攻め込んでくるか分からない。
それなのに、国最強の戦力である勇者は行方不明、聖女は暴走中。
国民の不安は高まる一方で、王宮への批判も日に日に強まっていた。
「……陛下。もはや、手段を選んでいる場合ではありません」
国王の側近である宰相が、低い声で進言した。
その目は、冷酷な光を宿している。
「勇者アニアスは、我々を見捨てたのです。あるいは、魔王に寝返ったか……。いずれにせよ、これ以上彼に期待するのは無駄かと」
「ではどうしろと言うのだ! 代わりの勇者など、そう簡単に見つかるものではないぞ!」
「ええ。この世界には、もういません。……ですが、『別の世界』になら、いるかもしれません」
宰相の言葉に、その場の全員が息を呑んだ。
「ま、まさか……『異界召喚』を使うつもりか!?」
それは、聖王国の初代国王が封印したとされる、禁断の秘術だ。
次元の壁に穴を開け、異なる世界から強力な魂を持つ者を呼び寄せる。
成功すれば、未知の力を持った救世主が現れる。
だが失敗すれば、世界の理が崩壊し、取り返しのつかない災厄を招くとも言われている。
「リスクは承知の上です。ですが、魔王の脅威に怯えながら座して死を待つよりはマシでしょう」
宰相は祭壇の中央へと歩み出た。
「準備は整っております。……さあ、始めましょう。我らが新たなる希望を呼び寄せるのです!」
神官たちが詠唱を始める。
祭壇の魔法陣が、禍々しいほどの光を放ち始めた。
空間が歪む。
空気が軋む。
そして、魔法陣の中央に、黒い亀裂が走った。
◇
日本、東京都内の某オフィスビル。
深夜二時。
静まり返ったオフィスで、一人の青年がパソコンの画面と睨めっこをしていた。
「……終わんねぇ」
彼の名前はショウ。二十五歳。
新卒で入社した会社は、絵に描いたようなブラック企業だった。
サービス残業は当たり前。上司からのパワハラは日常茶飯事。
有給休暇? なにそれ美味しいの?
「はぁ……。異世界にでも行きてぇなぁ……」
ショウは栄養ドリンクを飲み干し、虚ろな目で天井を仰いだ。
最近の楽しみといえば、通勤電車の中で読むWeb小説くらいだ。
チート能力をもらって、美少女に囲まれて、スローライフを送る。そんな妄想だけが、彼の心を支えていた。
「もし神様がいるなら……俺をここから救い出してくれよ……」
その願いが届いたのか、あるいは単なる偶然か。
突然、足元がカッと光った。
「え?」
ショウが足元を見ると、床に幾何学模様の魔法陣が浮かび上がっていた。
「は? これって……まさか……」
小説で何度も見た展開。
召喚陣だ。
「うそ、マジで!? やったぁぁぁぁ!!」
ショウは歓喜の声を上げた。
恐怖などない。あるのは、この地獄から解放されるという喜びだけだ。
「さらば残業! さらばクソ上司! 俺は行くぞ、剣と魔法の世界へ!」
光が強まる。
ショウの体は粒子となって分解され、次元の彼方へと吸い込まれていった。
デスクの上に、書きかけの始末書を残して。
◇
聖王国の地下祭壇。
光が収まった魔法陣の中央に、一人の青年が立っていた。
ヨレヨレのスーツに、目の下の濃いクマ。
手には空の栄養ドリンクの瓶。
「……こ、ここは?」
ショウが周囲を見渡す。
石造りの壁、松明の明かり、そしてローブを着た人々。
間違いなく、異世界だ。
「成功だ……!」
「勇者様が現れたぞ!」
神官たちが歓声を上げる。
宰相が歩み寄り、恭しく頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました、異界の勇者様。我々は貴方をお待ちしておりました」
「勇者……! 俺が、勇者……!」
ショウは震える手で自分の顔を覆った。
夢じゃない。
社畜人生は終わったのだ。これからは、選ばれし者としてチヤホヤされるバラ色の人生が待っているのだ。
「お願いします、勇者様! 我々を苦しめる魔王を倒し、この世界をお救いください!」
「任せてください!」
ショウは力強く答えた。
その瞳には、過労による狂気にも似た、異様なやる気が満ちていた。
「魔王でも何でも倒してやりますよ! ……で、特典とかないんですか?」
新たな勇者の誕生。
それは、魔王城でコタツに入っている先代勇者アニアスにとって、最大の「面倒事」の始まりを告げる合図でもあった。




