第39話 男湯の決闘、あるいは裸の付き合い
『雪見の宿・ゼム屋』の男湯。
湯気が立ち込めるその神聖なる場所は、今まさに修羅場と化していた。
入り口の引き戸を開け放ち、仁王立ちしているのは、純白のエプロンと三角巾で武装した聖女エミリアだ。
彼女の右手にはデッキブラシ、左手には聖水を満たしたバケツが握られている。その瞳は、汚れを許さぬ決意に燃えていた。
「失礼します。男湯の掃除も頼まれておりまして」
凛とした声が浴室に響く。
湯船に浸かっていた勇者アニアスは、石のように固まっていた。
状況が理解できない。いや、理解したくない。
なぜ、男湯に、よりにもよって若い女性が入ってくるのか。しかもそれが、自分を追い回している幼馴染だとは。
「……え、エミリア?」
アニアスが震える声で名を呼ぶと、エミリアは湯気越しに彼を見つけ、パァッと顔を輝かせた。
「まあ! アニアス様ではありませんか! こんなところでお会いできるなんて、やはり私たちは運命の赤い糸で結ばれていますのね!」
「糸じゃなくて、お前が追っかけてきただけだろ!」
アニアスは叫び、慌ててお湯の中に肩まで沈んだ。
全裸だ。生まれたままの姿だ。いくら幼馴染とはいえ、これを見られるのは社会的死を意味する。
「あら、恥ずかしがらなくてもよろしいのに。……幼い頃は、よく一緒に行水をしたではありませんか」
エミリアは頬を染めながら、ズカズカと洗い場に踏み込んでくる。
デッキブラシで床を擦る音が、死刑執行のカウントダウンのように響く。
「来るな! ここは男湯だぞ! 聖女が男の園に土足で踏み込むなんて、教義違反じゃないのか!?」
「ご安心ください。私は今、『清掃員』としてここにいます。清掃員にとって、風呂場はただの作業現場。そこに男女の別などありません」
謎の理屈で武装した聖女は強い。
彼女はバケツの聖水を床にぶちまけた。
ジュワァァァ……!
床に染み付いていた魔界の温泉成分とも言える長年の垢やカビが、聖なる力によって消滅していく。
「汚い……。なんて不潔な場所でしょう。男たちの汗と脂が染み付いたこの空間、私が徹底的に浄化して差し上げます!」
エミリアがブラシを構え、アニアスの方へと向き直る。
「まずは、そこの薄汚れた湯船からですね」
「ひぃっ!?」
アニアスは悲鳴を上げた。
湯船には、自分だけでなくネクロとゼムも浸かっている。
ここに聖水を流し込まれたら、魔族である二人はただでは済まない。
「ま、待てエミリア! 中には他の客もいるんだぞ!」
「客? ああ、そこの薄汚いミイラ男と、不気味な死体少年のことですか?」
エミリアは冷ややかな目で二人を見下ろした。
「魔族など、汚れそのもの。ついでに洗い流してしまいましょう」
「……失礼な娘じゃのう」
ゼムが呆れたように呟く。
彼は包帯を解き、痩せ細った腕を水面から出した。
「師匠、ここはワシに任せて逃げるのじゃ。……年寄りの冷や水、見せてやろう」
「ゼム、無理するな! 相手は聖女だぞ!」
「ふぉっふぉっふぉ、伊達に三百年も生きておらんわい!」
ゼムが指を鳴らすと、浴室内の湯気が一気に濃くなった。
視界が白く染まり、エミリアの姿が見えなくなる。
『濃霧』の魔法だ。
「今じゃ! 露天風呂の方へ逃げるぞ!」
「了解だ!」
アニアスはネクロの腕を掴み、湯船から飛び出した。
滑りやすい床を転ばないように走り、露天風呂へのガラス戸を開ける。
「逃がしませんよ!」
背後からエミリアの声が迫る。
彼女は風魔法で霧を吹き飛ばし、デッキブラシを槍のように構えて突進してきた。
◇
露天風呂に出たアニアスたちは、雪の降る岩場を裸足で駆けた。
寒い。死ぬほど寒い。
だが、止まれば浄化される。
「どこへ逃げるつもりですか、アニアス様! 私と一緒に綺麗になりましょう!」
エミリアが追いかけてくる。
その時、女湯との仕切りになっている高い木の塀の向こうから、ドカァァァン! という爆発音が響いた。
「な、なんだ!?」
アニアスが立ち止まると、塀が粉々に砕け散り、瓦礫と共に数人の影がこちら側に吹っ飛んできた。
「痛ったァ~い! なんなのよォ、あのタワシ!」
ピンク色の肌を赤く腫らしたガンドルフォだ。
続いて、ピコとリーズヴェルトも転がり出てくる。
「お兄ちゃん! 助けてなのだ! お風呂に変なのが乱入してきたのだ!」
「エミリアの分身か!?」
アニアスが驚愕していると、壊れた塀の向こうから、エミリアと瓜二つの姿をした少女が現れた。
……いや、よく見ればそれは『聖水人形』だ。水で作られた分身が、自律して動いているのだ。
「……私の『清掃部隊』ですわ。女湯の汚れも見逃しません」
追いついてきた本物のエミリアが、胸を張って言った。
男湯と女湯、両面作戦。
この聖女、掃除に関しては余念がない。
こうして、男湯と女湯の壁が取り払われ、一つの巨大な混浴露天風呂と化した雪見の宿で、全裸の魔王軍対エプロン姿の聖女という、奇妙な対峙が始まった。
「観念なさい。この温泉街全ての湯を聖水に変え、不純異性交遊の温床となっている混浴文化を根絶やしにします!」
エミリアが杖を掲げる。
空に巨大な魔法陣が展開され、光の雨が降り注ごうとしたその瞬間。
「……そこまでになさい」
凛とした、冷たく透き通るような声が響いた。
魔法陣が凍りつき、パリーンと音を立てて砕け散る。
「なっ……!?」
エミリアが驚いて振り返ると、宿の屋根の上に、一人の女性が立っていた。
純白の着物に、透き通るような肌。
長い黒髪を風になびかせ、手には氷の扇を持っている。
この宿の女将であり、氷結地獄を統べる大妖怪、『大雪女』の垂氷だ。
「お客様とはいえ、これ以上の狼藉は目に余ります。……うちの温泉を台無しにするつもりですか?」
垂氷が扇を一振りすると、猛吹雪が発生した。
エミリアの身体が、足元から急速に凍りついていく。
「くっ……! こ、こんな冷気……!」
エミリアは必死に聖なる炎で対抗しようとするが、大雪女の冷気はそれを上回っていた。
ここは彼女の領域。地の利は圧倒的に雪女にある。
「こ、凍る……! アニアス様、助け……て……」
エミリアはカチコチに凍りつき、氷像となってその場に固まった。
その表情は、アニアスに手を伸ばそうとしたポーズのまま、芸術的なまでに静止している。
「……ふぅ」
垂氷はため息をつき、屋根からふわりと舞い降りた。
「お騒がせしました、ゼム様。魔王様」
「いやいや、助かったぞ垂氷。流石はワシが見込んだ弟子じゃ」
ゼムがタオルで体を隠しながら礼を言う。
「……あいつ、死んでないよな?」
アニアスが恐る恐る氷像を突っつくと、中から微かな心音が聞こえた。
どうやら仮死状態で保存されているらしい。
「少し頭を冷やしてもらいましょう。解凍される頃には、少しは大人しくなっているはずです」
垂氷は涼しい顔で言った。
「それより皆様、お体が冷えてしまったでしょう。……特別なお部屋をご用意しましたので、そちらで宴といきませんか?」
◇
案内されたのは、宿の奥座敷にある大広間だった。
そこには、魔界の海の幸、山の幸をふんだんに使った豪華な料理が並べられていた。
刺身の舟盛り、カニ鍋、そして熱々の天ぷら。
中央には、魔界酒の樽酒が鎮座している。
「わぁー! ご馳走なのだー!」
ピコが歓声を上げて席に着く。
アニアスたちも浴衣に着替え、円卓を囲んだ。
「それでは、魔王様御一行の来訪と、騒動の解決を祝して……乾杯!」
垂氷の音頭で、宴が始まった。
アニアスはカニの足を齧りながら、隣のリーズヴェルトに酒を注ぐ。
「……散々な目に遭ったな」
「はっはっは! 全くだ! 裸で逃げ回るとは、勇者と魔王にあるまじき失態だな!」
リーズヴェルトは豪快に笑い、酒を煽る。
その顔は赤く染まり、楽しそうだ。
「まあ……結果として美味い飯にもありつけた。良しとしよう」
アニアスも笑った。
部屋の隅には、解凍中のエミリアが氷像として飾られている。
彼女が溶けるまでの数時間、この平穏な時間を満喫しよう。
宴は深夜まで続き、雪国の夜は賑やかに更けていった。
アニアスは酔っ払ったガンドルフォに絡まれたり、ネクロに膝枕をされたりしながら、ふと思った。
こんな旅も、悪くない。
一人で戦っていた頃には知らなかった温もりが、ここにはあった。
翌朝。
完全に解凍されたエミリアは、風邪を引いて寝込んだ。
アニアスは仕方なく、彼女のために味の付いたお粥を作ってやり、少しだけ感謝されたのだった。




