第36話 湖畔の夜と水着騒動、あるいは光る湖底
『奈落の魔湖』の夜は更けていく。
水上コテージのテラスからは、月明かりのない漆黒の湖面と、そこに漂う無数の人魂が織りなす幻想的な光景が見渡せた。
「さあアニアス! 着替えたか!?」
リビングからリーズヴェルトの元気な声が響く。
勇者アニアスは、洗面所の鏡の前で自身の姿を確認し、小さく溜息をついた。
「……まあ、これなら許容範囲か」
彼が身に着けているのは、膝丈の黒い水着だ。
ガンドルフォのブランド『G・G』のタグが付いているが、幸いにもフリルやレースは付いていない。シンプルで機能的なデザインだ。
ただ、上着を脱いだことで露わになった引き締まった上半身が、なんとなく気恥ずかしい。村育ちの彼は、肌を晒すことに慣れていないのだ。
意を決してリビングへ戻ると、そこには既に準備万端の魔王たちが待っていた。
「おっ、似合うではないかアニアス! 細身だが、意外といい筋肉をしているな!」
リーズヴェルトがニカっと笑う。
彼女は大胆な黒のセパレート水着を纏っていた。魔王のマントを羽織っているが、その下のプロポーションは圧倒的だ。健康的な色気が爆発している。
「魔王様、ナイスバディなのだ! ピコも負けないのだ!」
ピコは動きやすさを重視した、紺色のワンピース型水着だ。浮き輪を腰にはめ、水中メガネを装着している。完全に泳ぐ気満々だ。
「……僕も、準備完了」
ネクロは、白と黒の縦縞模様が入った、全身を覆うタイプの水着を着ていた。どこかレトロな雰囲気だが、肌を露出したくない彼らしい選択だ。手にはビート板を持っている。
「よし、全員揃ったな! いざ、夜の湖へ!」
リーズヴェルトの号令で、一行はテラスから桟橋へと降り立った。
◇
夜の湖水は、ひんやりとして心地よかった。
アニアスは足先を水に浸し、その冷たさに目を細めた。
蒸し暑い魔界の南方において、この冷気は最高の贅沢だ。
「冷たくて気持ちいいのだー!」
バシャーン!
ピコが助走をつけて飛び込んだ。
盛大な水しぶきが上がり、近くを漂っていた人魂たちが驚いて散っていく。
「こらピコ、静かに泳がんか。ネクロを見習え」
リーズヴェルトが指差した先では、ネクロがビート板を抱え、仰向けになってプカプカと浮いていた。
微動だにしない。
まるで水死体のように静かだが、本人は至福の表情で夜空を見上げている。
「……水の上、無重力。……最高」
「あれはあれで心配になるな……」
アニアスも静かに水に入った。
肩まで浸かると、体の熱がすぅっと引いていく。
水面を目線の高さで見ると、青白い燐光がホタルのように舞っているのが見えた。
「綺麗だな」
「うむ。魔界にも、こんな静かな場所があるのだな」
リーズヴェルトが滑るように泳いで近づいてくる。
水に濡れた銀髪が、燐光を反射してキラキラと輝いている。
「アニアスよ。旅に出てよかったな」
「……ああ、そうだな」
アニアスは素直に頷いた。
城を追い出された時はどうなることかと思ったが、こうして知らない景色を見て、肌で感じる体験は悪くない。
コミュ障の彼にとって、世界は「怖い場所」だった。
けれど、マブダチと共に歩く世界は、案外「楽しい場所」なのかもしれない。
「……ん?」
その時。
アニアスは違和感を覚えた。
水底の方から、何やらボコボコという音が聞こえてくるような気がしたのだ。
「どうした?」
「いや、なんか音が……」
アニアスが言いかけた瞬間。
湖の底から、強烈な白い光が放たれた。
「な、なんだ!?」
リーズヴェルトが目を細める。
光は急速に拡大し、漆黒だった湖全体を眩いばかりの白銀色に染め上げていく。
同時に、水温が急激に上昇し始めた。
「熱っ!? なんだ、急にお湯になったぞ!」
「あちちなのだ! 茹でタコになるのだ!」
ピコが慌てて岸へ上がろうとする。
さらに、水質の変化を感じ取ったのか、リーズヴェルトが顔をしかめた。
「ぐっ……! なんだこの水は! 肌がピリピリするぞ!」
「……聖属性。……これ、聖水」
ネクロがビート板にしがみつきながら呟いた。
「聖水だって!?」
アニアスは驚愕した。
この広大な湖の水が、すべて聖水に変わったというのか。そんなデタラメな魔力を行使できる人間など、一人しかいない。
ボコォォォッ!!
湖の中央で、巨大的な水柱が上がった。
光の奔流の中から、一つの人影がゆっくりと浮上してくる。
純白の聖衣(防水仕様)を纏い、背中に空気ボンベのような魔導具を背負った少女。
「……ふぅ。これでスッキリしましたわ」
聖女エミリアだ。
彼女は湖面に立つと、満足げに周囲を見渡した。
「この湖、底の方にヘドロが溜まっていて不潔でしたの。魚たちの骨も散乱していましたし……。すべて『浄化』させていただきました」
彼女の手には、眩い光を放つ杖が握られている。
どうやら彼女は湖底に潜り、物理的に、そして魔法的に大掃除を行っていたらしい。骨の魚たちが住処を追われ、水面でパクパクと口を開けている。
「……あいつ、ここにもいたのか」
アニアスは絶句した。
我々がバカンスを楽しんでいる間に、彼女は水底で孤独な清掃活動に勤しんでいたのだ。
「おのれ聖女め! せっかくの避暑地を熱湯地獄に変えおって!」
リーズヴェルトが剣を抜こうとするが、アニアスが止めた。
「待て! ここで正体がバレたら、また泥沼になる!」
「しかし、このままでは我らが干からびてしまう!」
「隠れるんだ! ネクロ、霧を出せ!」
「……了解」
ネクロが指を鳴らすと、湖面に濃密な霧が発生した。
視界が白く遮られる。
「あら? 急に霧が……。まだ浄化が足りないのかしら?」
エミリアの声が近づいてくる。
アニアスたちは息を殺し、霧に紛れてコテージの影へと移動した。
固有スキル『影薄』を全員に共有し、存在感を消す。
エミリアは霧の中をしばらく彷徨っていたが、やがて諦めたように杖を振った。
「まあ良いでしょう。湖の水は全て聖水に入れ替えましたし、これでアニアス様がいついらしても安心ですわ」
彼女は懐から地図を取り出し、確認する。
「次は北……『氷結地獄』ですね。あそこの温泉街、破廉恥な混浴文化があると聞いています。……根絶やしにしなければ」
エミリアの瞳に、使命感という名の狂気が宿る。
「待っていてくださいね、アニアス様。世界中をピカピカにして、貴方様をお迎えに上がりますから!」
彼女はそう宣言すると、水面を滑るように走り去っていった。
その速さは、モーターボート並みだった。
◇
エミリアの気配が完全に消えた後。
霧が晴れた湖には、疲れ切ったアニアスたちの姿があった。
「……行ってしまったか」
リーズヴェルトがぐったりと肩を落とす。
聖水風呂の影響で、肌が少し赤くなっている。
「酷い目に遭ったのだ……。ピコの自慢の水着が、ちょっと色落ちしたのだ……」
ピコが涙目で水着の裾を引っ張る。
「……でも、静かになった」
ネクロが再び湖に浮かび直す。
エミリアの過剰な浄化によって、湖の水は透明度を増し、底まで透けて見えるほど綺麗になっていた。
皮肉なことに、リゾート地としての景観は向上している。
「……まあ、結果オーライか?」
アニアスは苦笑した。
聖水の影響を受けない人間である彼にとっては、温水プールになった湖はむしろ快適だったりする。
「アニアスよ、背中を流してくれ。聖水の成分を洗い落とさねば」
「はいはい。コテージのシャワーを使おう」
とんだハプニングに見舞われたが、それもまた旅の思い出だ。
一行は温まった体を夜風で冷ましながら、コテージへと戻っていった。




