第35話 南の死霊リゾート、あるいは静寂の湖畔
東の『迷わずの森』での滞在を終えた一行は、次なる目的地へと向かっていた。
目指すは南。
死霊王ネクロが治める領地、『奈落の魔湖』である。
「……暑い」
道中、勇者アニアスはぐったりとしていた。
魔界の南方は湿地帯が多く、気温以上に湿度が凄まじい。ジメジメとした空気が肌にまとわりつき、体力を奪っていく。
快適な『夢幻霊柩車』の中とはいえ、窓の外に広がる景色を見るだけで汗が吹き出してきそうだ。
「だらしないぞアニアス。この程度の湿気、サウナだと思えば心地よいではないか」
魔王リーズヴェルトが涼しい顔で言う。
彼女は代謝が良いのか、それとも魔力で体温調節しているのか、汗一つかいていない。
「サウナは上がった後に水風呂があるからいいんだ。これじゃあ蒸し風呂だよ……」
「お兄ちゃん、元気出すのだ! もうすぐ涼しくなるってネクロが言ってたのだ!」
ピコがアニアスの膝の上に乗ってきて、無邪気に励ます。
アニアスは重さと暑さに耐えながら、向かいの席で眠るネクロに視線を向けた。
「……おい、ネクロ。まだ着かないのか?」
「……ん」
ネクロが薄目を開けた。
そして、窓の外を指差す。
「……ここから、僕の庭」
その言葉と同時だった。
窓の外の景色が、一変した。
それまで続いていた鬱蒼とした湿地帯が途切れ、目の前に広大な闇が広がったのだ。
空の色が、鈍い紫色から、星一つない漆黒へと変わる。
気温が急激に下がり、肌寒いくらいの冷気が車内にも伝わってきた。
「……暗いな」
アニアスが身を乗り出す。
そこは、永遠の夜に閉ざされた世界だった。
闇の向こうには、鏡のように静まり返った巨大な湖が広がっている。
水面には青白い燐光が漂い、幻想的な光景を作り出していた。
「ようこそ……『奈落の魔湖』へ」
ネクロが珍しく起き上がり、誇らしげに言った。
「……ここは、光が届かない場所。……死者と、生者が、静かに眠る場所」
「ひえぇ、お化けが出そうなのだ……」
ピコがアニアスの腕にしがみつく。
破壊神のくせに、オバケは苦手らしい。
「大丈夫だピコ。……むしろ、この涼しさは天国だ」
アニアスは感動していた。
直射日光がなく、静かで、ひんやりとしている。
引きこもりにとって、これ以上の好環境があるだろうか。いや、ない。
車は湖の畔にある船着き場で停車した。
そこには、ボロボロのローブを纏った骸骨たちが整列して待っていた。
「ようこそお帰りなさいませ、死霊王陛下」
骸骨たちが一斉に敬礼し、カタカタと顎を鳴らす。
「うわ、出た」
アニアスが身構えるが、骸骨たちの手には武器ではなく、冷えたおしぼりやトロピカルジュースが握られていた。
「……彼らは、ホテルのスタッフ。……怖くない」
ネクロが説明しながら、骸骨からおしぼりを受け取り、顔を拭く。
「ホテル?」
「……ん。湖の中央にある島が、僕の城……兼、リゾートホテル」
ネクロが指差した先。
湖の中央に浮かぶ島には、古城のような尖塔がそびえ立っていたが、その周囲には水上コテージのような建物が並び、優雅なランタンの明かりが灯っていた。
「へぇ、洒落ているではないか! 死霊の街と聞いていたから、もっと墓場のような場所かと思っていたぞ」
リーズヴェルトが感心する。
「……死者だって、バカンスはしたい。……生者も、癒やされたい。……だから、作った」
ネクロはそう言うと、岸に係留されていたゴンドラへと一行を案内した。
船頭は、半透明の幽霊だ。
「さあ、乗る。……音を立てないように、静かに」
一行はゴンドラに乗り込み、湖へと滑り出した。
オールが水をかく音すらしない。
完全なる静寂。
水面を漂う人魂たちが、街灯のように行く手を照らしてくれる。
「……綺麗だな」
アニアスは思わず呟いた。
不気味だと思っていたが、慣れてしまえば、この静けさは心地よい。
水の中を覗き込むと、骨の魚たちが群れをなして泳いでいるのが見えた。
「お兄ちゃん、見て見て! あそこに女の人が泳いでるのだ!」
ピコが指差す。
岩場に腰掛け、長い髪を梳かしている女性の姿があった。
上半身は人間だが、下半身は魚の尾ひれ。
人魚――マーメイドだ。
「……セイレーン族。……歌が上手いけど、今は就寝時間だから静か」
ネクロが解説する。
人魚は一行に気づくと、優雅に手を振り返し、ポチャンと水の中に消えていった。
敵意はないようだ。
やがて、ゴンドラは中央の島へと到着した。
桟橋に降り立つと、そこはまるで高級リゾート地のような雰囲気だった。
石畳の道は清潔に保たれ、道端には夜光花が咲き乱れている。
「……アニアスたちの部屋は、あっち」
ネクロが案内してくれたのは、湖の上に突き出すように建てられた、一棟貸しの水上コテージだった。
テラスにはハンモックがあり、いつでも湖の絶景……と人魂を眺めながら寝られるようになっている。
「最高だ……」
アニアスは部屋に入るなり、ベッドにダイブした。
そのマットレスは、魔王城のものに勝るとも劣らない、極上の柔らかさだった。
しかも、ひんやりとした冷感素材でできている。
「……気に入った?」
ネクロが枕を抱えて覗き込んでくる。
「ああ。正直、ここなら永住してもいいレベルだ」
「……よかった。……僕の領地は、『何もしない』をする場所。……ゆっくり、休んで」
ネクロはふわりと笑った。
いつも眠そうな彼だが、ホストとしての気配りは完璧だ。
「よし! では早速、夜の湖水浴といくか!」
リーズヴェルトが元気よく提案する。
「ええっ? 泳ぐのか?」
「当然だ! リゾートに来て泳がない馬鹿がいるか! ガンドルフォが選んでくれた水着もあるのだぞ!」
「ピコも泳ぐのだー! 浮き輪持ってきたのだー!」
女性陣(?)は元気だ。
アニアスは少し迷ったが、この静かな湖で泳ぐのも悪くないかと思い直した。
「……分かった。付き合うよ」
こうして、魔界漫遊・南の旅が始まった。
恐怖と静寂が同居する死霊の湖畔。
そこで待っているのは、肝試しのようなスリルと、極上の安眠ライフだ。
だが、アニアスは忘れていた。
この「静寂」を何よりも愛するこの地に、あの「騒がしい聖女」が先回りしていないはずがないということを。
湖の底で、何やら白い光が明滅していることに、まだ誰も気づいていなかった。




