第22話 聖女エミリアと魔界の湯(ヌルヌル)
魔王城での朝食(味のない豆腐と干し肉)を終えた後、勇者アニアスは逃げるように大浴場へと向かった。
心身ともに疲れ果てた彼には、癒やしが必要だったのだ。
魔王城の大浴場は、壮大だった。
体育館ほどもある広い空間に、古代ローマ風の石柱が並び、豊富な湯量を誇る源泉が掛け流されている。
男湯と女湯は高い石壁で仕切られているが、天井は繋がっているため、声はよく通る構造だ。
「……ふぅ」
アニアスは湯船に肩まで浸かり、深いため息をついた。
温かいお湯が、エミリアによってささくれ立った心を解きほぐしていく。
「極楽だ……」
「うむ、良い湯だなアニアス!」
壁の向こうから、魔王リーズヴェルトの明るい声が響いてきた。
どうやら彼女も入浴中のようだ。
「そういえばアニアス、背中は流さなくて良いか? マブダチとして、壁越しに魔法の手で洗ってやろうか?」
「……気持ちだけ受け取っておくよ。落ち着かないから」
アニアスは苦笑した。
魔王との会話は、不思議と気を使わなくていい。この距離感が心地よいのだ。
……あの幼馴染さえいなければ。
バンッ!!
その思考を断ち切るように、女湯の扉が勢いよく開け放たれる音が響き渡った。
「見つけましたわよ、魔王!」
その声に、アニアスは湯船の中でビクッと身を縮こまらせた。
エミリアだ。
彼女は脱衣所を突破し、服を着たまま(聖衣に防水魔法をかけて)浴室に乱入してきたようだ。
「破廉恥です! 不潔です! アニアス様と同じ屋根の下で、あまつさえ壁一枚隔てただけの場所で裸になるなど、言語道断です!」
エミリアの金切り声が浴室に反響する。
「うるさいな聖女。風呂場では静かにするのがマナーだぞ。それに、服を着たまま入ってくるとは無作法な」
リーズヴェルトが呆れたように返す。
「黙りなさい! こんな淫らな場所、私が浄化して差し上げます! アニアス様の耳に、貴女のチャプチャプという水音が入るだけでも汚らわしい!」
エミリアが杖を構える気配がした。
まただ。また「浄化」だ。
アニアスは男湯で頭を抱えた。このままではお湯が全部『聖水』に変えられてしまう。聖水風呂なんて入ったら、勇者の自分でも肌がピリピリするし、何よりリラックスできない。
「――『水質浄化』!」
エミリアが高らかに魔法を唱えた。
カッ! と白い光が女湯を包む。
しかし。
「……あら?」
エミリアの困惑した声が聞こえた。
魔法が発動したはずなのに、お湯に変化がないらしい。
「残念だったな、聖女よ。今日の日替わり湯は、ただのお湯ではない」
リーズヴェルトがニヤリと笑う気配がした。
「魔界特産『粘液』風呂だ! 魔法耐性が極めて高く、外部からの干渉を無効化する!」
「す、スライムですって……!?」
エミリアの悲鳴じみた声。
潔癖症の彼女にとって、スライムという単語はゴキブリ以上に忌避すべき存在だ。
「ヒッ、嫌ッ……! 何ですのこの色は! ピンク色で、ドロドロしていて……! しかも意思を持って動いて……!」
「美容に良いのだぞ? 肌がツルツルになる」
「近寄らないでください! 不潔! 汚らわしい! ……きゃっ!?」
ズルッ。
ドボン!!
盛大な水音が響いた。
床がスライムの成分でヌルヌルしていたため、エミリアは足を滑らせて湯船にダイブしたのだ。
「ぶくぶく……っ! いやぁぁぁ! ベトベトします! 服の中に! 服の中にぬるい何かがぁぁぁ!」
聖女の断末魔のような叫び。
普段なら可哀想に思うところだが、今のアニアスには心地よいBGMにしか聞こえなかった。
「あらァ、賑やかねェ♡」
そこへ、新たな乱入者が現れた。
野太くも艶かしい声。ガンドルフォだ。
「ガ、ガンドルフォ!? 貴様、なぜ女湯に……!?」
「嫌だわァ魔王様、アタシの心は乙女よォ? それに今日は、新入りちゃんのお肌ケアをしてあげようと思って♡」
「ピコもいるのだー! 背中流すのだー!」
ピコの元気な声も続く。
地獄の釜の蓋が開いた。
「ひぃっ!? な、何ですか貴女たちは! 来ないで! そのピンク色の巨体で迫らないで!」
「あらン、失礼ねェ。見てごらんなさい、貴女の肌、ストレスでカサカサよォ? この『ローションスライム』をたっぷり塗り込んで、マッサージしてあげるわァ♡」
「ピコはタワシでゴシゴシするのだ! 金タワシなのだ!」
「やめて! 聖女の肌は聖域なのです! タワシは痛い! スライムは気持ち悪い! アニアス様ぁぁぁぁ! 助けてくださぁぁぁい!!」
バシャバシャという激しい水音と、ガンドルフォの「じっとしてなさァい♡」という声、ピコの「逃がさないのだー!」という笑い声が交錯する。
壁の向こうの男湯。
アニアスは、湯上がりの瓶入りフルーツ牛乳(コーヒー牛乳派だったが今日はこっちだ)を手に取った。
腰に手を当て、グイッと飲み干す。
「……ぷはぁ」
甘い。そして冷たい。
五臓六腑に染み渡る美味さだ。
「……いい気味だ」
アニアスはボソリと呟き、ニヤリと笑った。
朝食のベーコンの仇は討てた。
エミリアの悲鳴はまだ続いているが、命に別状はないだろう。魔王城の女湯は、荒療治だが美容効果は抜群なのだから。
◇
一時間後。
脱衣所から出てきたエミリアは、魂が抜けたようにフラフラしていた。
だが、その肌は悔しいほどにツヤツヤで、プルプルのたまご肌になっていた。
「……屈辱です……。あんなヌルヌルしたもので……」
エミリアは涙目で自分の頬に触れた。
指が吸い付くような感触。化粧ノリも過去最高に良さそうだ。
「……でも、悪くありませんわね……」
ボソリと呟く聖女。
その表情は、少しだけ、本当に少しだけだが、魔王城の空気に毒され始めているようだった。
こうして、「聖女エミリア、魔界の湯に敗北」という歴史的な一戦は、魔王軍(女性陣)の圧勝で幕を閉じた。
アニアスは久しぶりに、安らかな気持ちで昼寝につくことができたのだった。




