第10話 老魔導師の講義
魔王城での生活、五日目。
勇者アニアスは、図書室にいた。
これまでの経験から、「自室」「厨房」「裏庭」以外の安全地帯を開拓する必要性を感じたからだ。
図書室ならば静かだろうし、本を読んでいれば顔を隠せる。対人恐怖症にとって、本は最強の盾なのだ。
魔王城の図書室は、広大だった。
天井まで届く本棚には、古今東西の魔導書や歴史書がぎっしりと並べられている。独特の古紙とインクの匂いが、アニアスの心を落ち着かせた。
(ここなら、誰も来ないだろう……)
アニアスは適当な魔導書を一冊手に取り、部屋の隅にある一人掛けのソファに深く沈み込んだ。
開いたページには、「深淵におけるマナの対流と精神干渉」という難解なタイトルが書かれていたが、中身を読むつもりはない。ただの隠れ蓑だ。
静寂。
ああ、なんと素晴らしい響きだろうか。
ガンドルフォの嬌声も、ピコの破壊音も、ここには届かない。
アニアスがまどろみかけた、その時だった。
「……ふむ。そこな」
しわがれた声が、静寂を破った。
「ひゃっ!?」
アニアスは飛び上がり、持っていた本を取り落としそうになった。
慌てて周囲を見渡すが、誰もいない。
「上じゃよ、若いの」
声に従って天井を見上げると、そこには一人の老人が浮いていた。
全身に古びた包帯を巻き、古木のような杖を持った小柄な老人。
四天柱・最年長にして最高の知恵者、『魔導老子』ゼムである。
彼は本棚の上の方にある本を探していたらしく、重力を無視してふわふわと漂っていたのだ。
(また出た! 四天柱コンプリートだよ!)
アニアスは顔を引きつらせた。
逃げようとしたが、ゼムはゆっくりと降下してきて、アニアスの逃げ道を塞ぐように着地した。いや、着地はしていない。地面から数センチ浮いたままだ。
「お主、見かけん顔じゃな。新入りの兵士か? にしては、魔力を感じんが……」
ゼムの瞳――包帯の隙間から覗く唯一の目――が、アニアスをジロジロと観察する。
「あ、いや、その……」
「まあ良い。ワシは今、機嫌が良いんじゃ。ずっと探しておった『古の隠蔽魔法』に関する記述が見つかってな」
ゼムは手に持っていたボロボロの魔導書をペラペラとめくった。
どうやら、アニアスを尋問するつもりはないらしい。ただ、自分の発見を誰かに話したくてウズウズしている学者の顔だ。
「良いか、若いの。魔法というのは『認識』の操作なんじゃ。相手に『そこにいる』と思わせれば幻影となり、『そこにいない』と思わせれば不可視となる。だが、完全に気配を消すというのは至難の業でな……」
ゼムの講義が始まった。
アニアスは相槌を打つタイミングを完全に失い、ただ立ち尽くすしかなかった。
話の内容は専門的すぎて、「マナの粒子がどうとか」「事象の書き換えがどうとか」、アニアスにはさっぱり理解できなかった。
「……というわけで、理論上は可能なんじゃが、実証できとらんのじゃ。ワシとしたことが、三百年の研究をもってしてもな」
ゼムは悔しそうに髭を撫でた。
そして、ふとアニアスを見た。
「ところでお主、ワシが近づくまで全く気づかんかったようじゃが、何をしておった?」
「え? あ、いや……ただ、気配を消して、本を読んでいただけですけど……」
アニアスは正直に答えた。
すると、ゼムの動きがピタリと止まった。
「……気配を消して?」
「はい。まあ、特技みたいなもので……」
「ほう? ワシの魔力探知網をかいくぐって、か? この図書室には、鼠一匹逃さぬ結界が張ってあるんじゃぞ?」
ゼムの目が鋭く光った。
「やってみせよ」
「は?」
「気配を消してみせよ、と言うておるんじゃ。ワシの目をごまかせるか、試してやろう」
面倒なことになった。
だが、ここで断って機嫌を損ねるのも怖い。アニアスは仕方なく、いつものようにスッと息を吐き、意識のスイッチを切り替えた。
――固有スキル『影薄』。
アニアスの輪郭が、世界から溶け出したかのように曖昧になる。
姿が見えなくなるわけではない。ただ、「そこにいる」という事実が、脳から認識されにくくなるのだ。
「な……っ!?」
ゼムが息を呑んだ。
目の前にいるはずの青年が、見えているのに、認識できない。
魔力を探っても、そこには「無」しかない。
風の揺らぎさえも感じさせない、完全なる静寂。
「こ、これは……『無我の境地』……!? いや、それすらも超えた、『虚空との同化』じゃと……!?」
ゼムの手が震え始めた。
アニアスとしては、単に「恥ずかしいから見ないで」と思っているだけなのだが、ゼムの目にはそれが神業のように映っていた。
「す、素晴らしい……! マナの操作も、呪文の詠唱もなく、ただ『在る』だけで世界を欺くとは! これこそ、ワシが追い求めていた隠蔽魔法の究極形!」
ゼムは浮遊魔法を解除し、ドサリと床に膝をついた。
「教えろ! 若いの、いや、師匠! どうやればその領域に達せるんじゃ!?」
「ええええええ!?」
アニアスはスキルを解除して後ずさった。
魔王軍最強の老魔導師が、自分の足にすがりついてくる。絵面がホラーだ。
「い、いや、ただ息を止めて、心を無にするというか、あの……『スッ』とやるだけで……」
「『スッ』……!? そうか、思考を言語化する暇すら与えぬ、感覚的没入! それこそが真理ということか!」
ゼムは勝手に納得し、懐からメモ帳を取り出して猛烈な勢いで書き込み始めた。
『師匠の教えその一:スッとやる』。
「ありがとう師匠! 長年の謎が解けた気がするわい! これからはワシのことは弟子と呼んでくれ! いや、呼び捨てで良い!」
「いや、無理です困ります!」
「遠慮するな! 魔法の深淵を覗いた者同士、年齢など関係ない!」
ゼムは目をキラキラ(包帯の奥で)させて、アニアスを見上げている。
その純粋な知識欲は、どこか憎めないものがあった。
話が長くて面倒くさい爺さんだと思っていたが、どうやらこの人もまた、一つのことに熱中する「オタク」気質のようだ。
「……はぁ。分かったよ、ゼムさん」
「ゼムで良い!」
「じゃあ、ゼム。……俺、もう行っていいか? 本、読みたいんだけど」
「おお、そうじゃったな! 師匠の邪魔をしてはならん! ワシは向こうで『スッ』の修行をしてくる!」
ゼムは再び浮遊すると、嬉しそうに図書室の奥へと消えていった。
「スッ……スッ……」という呟きを残して。
アニアスは深い溜息をついて、ソファに座り直した。
「……なんか、弟子ができた」
意味がわからない。
だが、悪い気分ではなかった。
ガンドルフォには着せ替え人形にされ、ピコには獲物にされ、ネクロとは枕フレンドになり、ゼムには師匠と呼ばれ。
魔王城の四天柱。
恐ろしい怪物たちだと思っていた彼らは、アニアスにとって、いつの間にか「ちょっと変で、騒がしい隣人たち」になりつつあった。
(ま、いっか)
アニアスは読みかけの本を閉じた。
図書室の静寂は戻ってきたが、先ほどよりも少しだけ、空気が温かい気がした。
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