表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
告発の夜に、妻は笑う  作者: マルコ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/7

第7章 告発の夜

 秋の風が、ベランダのカーテンをふわりと揺らした。

 祐一が家を出てから、もう一か月が経っていた。

 部屋の空気は穏やかで、冷たい透明感があった。

 音が減り、匂いが薄れ、生活が静けさに戻った。

 ――私はようやく、自分の呼吸の音を思い出した。


 そんな午後、一本のメールが届いた。

 件名は「取材依頼」。

 差出人は、全国紙の社会部記者。

 内容は丁寧だった。


「橘美月様

このたびのA社不倫告発に関して、社会的関心が高まっています。

匿名で構いません。

告発を行った“女性”として、取材にご協力いただけないでしょうか。」


 画面を見つめながら、私は少し笑った。

 あの夜、私はただ「社会の仕組み」に声を投げ入れただけ。

 名前を出した覚えはない。

 それでも、どこかで誰かが、私の影を見つけた。


 メールの文末にこうあった。

 > 「正義と報復、その境界を語ってほしい。」


 正義と報復――。

 その言葉の響きが、胸の奥に微かな痛みを残した。


 ◇


 夜。

 私はワインを一杯だけ注ぎ、机の前に座った。

 ノートパソコンを開き、返信欄に指を置く。

 「語るべきか」「沈黙を守るべきか」。

 心の中で何度も問いを繰り返す。


 だが、そのとき思い出したのは、あの雨の日の自分だった。

 領収書を握りしめ、鏡の中で笑った、あの日。

 あの瞬間から、私は“被害者”ではなく“行動者”になった。

 そして今、再び選ぶのだ。

 沈黙のまま生きるか、語って未来を作るか。


 私はキーを叩いた。

 〈条件付きでお受けします。ただし、匿名で〉


 送信ボタンを押すと、心がわずかに軽くなった。


 ◇


 取材当日、都内の小さなホテルラウンジ。

 グラスに注がれた水面が、淡く光を反射している。

 記者は三十代半ばの女性で、物腰が柔らかかった。

 ノートを開き、静かな声で言う。

 「まず、どうして告発を?」


 私は一呼吸置いて、答えた。

 「正義のため、というのは建前です。

  本当は、愛の形を壊したかったんです。

  ――誰かを罰するためじゃなく、私自身を解放するために」


 記者は目を細めた。

 「解放、ですか」

 「ええ。

  結婚という制度の中で、私も知らないうちに“他人の物語”を生きていた。

  彼の妻として、良い家庭を演じるために。

  でも、不倫はその仮面を壊してくれた。

  皮肉だけど、あの裏切りがなければ、私はまだ“妻”という牢にいた」


 「復讐に後悔はありませんか」

 「ありません。

  けれど、同時に虚しさもありました。

  真実を暴いた先に、何も残らなかった。

  勝った気がしたのは一瞬で、

  そのあとはただ、風だけが吹いていました」


 記者は頷き、ノートに何かを書きつけた。

 「それでも、あなたは名前を隠したまま行動した。

  なぜ、名乗らなかったのですか」

 「“正義”という言葉の下に、名前を置くのが怖かったから。

  名を出した瞬間、それは個人の復讐になる。

  でも匿名なら、“構造”として記録される。

  ――私が望んだのは、個人の勝利ではなく、社会の記憶です」


 その言葉を口にしたとき、自分でも驚くほどの静けさがあった。

 記者はしばらく黙り、それから言った。

 「記事のタイトル、こうしてもいいですか?

  『正義ではなく、記録として。告発者の声』」

 「……いいですね」

 私は小さく笑った。

 「その方が、私らしいかもしれません」


 ◇


 取材が終わり、ラウンジを出ると、夜風が頬を撫でた。

 街の灯りは滲み、どこか優しかった。

 通りを歩く人々のざわめきが、まるで遠い音楽のように聞こえる。


 ポケットの中でスマホが震えた。

 メッセージ通知。

 差出人は――白川結衣。

 迷った末に、開く。


「あなたの言葉をニュースで見ました。

正直、憎んでいました。

でも、今は違います。

あなたの言葉で、少しだけ前を向けました。

ありがとうございました。」


 短い文面。

 私は足を止め、夜空を見上げた。

 群雲の間から、星がひとつだけ覗いている。

 ――奇妙なものだ。

 壊したはずの誰かが、救われていく。

 それが、告発という行為のもう一つの顔なのかもしれない。


 ◇


 帰宅して灯りを点ける。

 机の上に、新しい名刺を置いた。

 「橘美月 PRリスクコンサルタント」

 裏面には、小さく一文が刻まれている。


 > “真実は、人を壊すことも、救うこともできる。”


 窓の外で風が鳴った。

 私はグラスにワインを注ぎ、月明かりにかざした。

 淡い赤が、ゆっくりと揺れる。

 どこか遠くで教会の鐘が鳴った気がした。

 その音を聞きながら、私は呟く。


 「もう、復讐はいらない」


 そして、微笑んだ。

 ――これは終わりではなく、始まりだ。

 誰かの嘘を暴くためではなく、

 自分の言葉で生きるための、新しい人生が。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


 本作『告発の夜に、妻は笑う』は、

 ただの不倫劇でも、復讐の物語でもありません。

 「愛が壊れたあと、人はどう立ち上がるのか」――その一点だけを描きたいと思い、筆を取りました。


 主人公・橘美月は、冷静で知的で、そしてどこまでも人間的な女性です。

 怒りではなく理性で、涙ではなく構造で、裏切りに立ち向かう。

 そんな彼女の姿に、もし少しでも「強さ」や「優しさ」を感じていただけたなら、

 作者としてこれ以上の喜びはありません。


 この作品を書きながら、私は何度も考えました。

 正義とは何か。

 復讐とは何か。

 そして、赦しとは――。


 美月は最後に「笑う」ことで、それらをすべて越えていきます。

 彼女の笑みが“勝利”ではなく“再生”の証であることを、

 読者の皆さまにも感じ取ってもらえたら嬉しいです。


 もしこの物語が心に残りましたら、

 **「★評価」や「ブックマーク登録」「感想」**をしていただけると励みになります。

 あなたの一つの反応が、次の作品を生み出す力になります。


 最後まで読んでくださったあなたへ――

 心から、ありがとう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ