第7章 告発の夜
秋の風が、ベランダのカーテンをふわりと揺らした。
祐一が家を出てから、もう一か月が経っていた。
部屋の空気は穏やかで、冷たい透明感があった。
音が減り、匂いが薄れ、生活が静けさに戻った。
――私はようやく、自分の呼吸の音を思い出した。
そんな午後、一本のメールが届いた。
件名は「取材依頼」。
差出人は、全国紙の社会部記者。
内容は丁寧だった。
「橘美月様
このたびのA社不倫告発に関して、社会的関心が高まっています。
匿名で構いません。
告発を行った“女性”として、取材にご協力いただけないでしょうか。」
画面を見つめながら、私は少し笑った。
あの夜、私はただ「社会の仕組み」に声を投げ入れただけ。
名前を出した覚えはない。
それでも、どこかで誰かが、私の影を見つけた。
メールの文末にこうあった。
> 「正義と報復、その境界を語ってほしい。」
正義と報復――。
その言葉の響きが、胸の奥に微かな痛みを残した。
◇
夜。
私はワインを一杯だけ注ぎ、机の前に座った。
ノートパソコンを開き、返信欄に指を置く。
「語るべきか」「沈黙を守るべきか」。
心の中で何度も問いを繰り返す。
だが、そのとき思い出したのは、あの雨の日の自分だった。
領収書を握りしめ、鏡の中で笑った、あの日。
あの瞬間から、私は“被害者”ではなく“行動者”になった。
そして今、再び選ぶのだ。
沈黙のまま生きるか、語って未来を作るか。
私はキーを叩いた。
〈条件付きでお受けします。ただし、匿名で〉
送信ボタンを押すと、心がわずかに軽くなった。
◇
取材当日、都内の小さなホテルラウンジ。
グラスに注がれた水面が、淡く光を反射している。
記者は三十代半ばの女性で、物腰が柔らかかった。
ノートを開き、静かな声で言う。
「まず、どうして告発を?」
私は一呼吸置いて、答えた。
「正義のため、というのは建前です。
本当は、愛の形を壊したかったんです。
――誰かを罰するためじゃなく、私自身を解放するために」
記者は目を細めた。
「解放、ですか」
「ええ。
結婚という制度の中で、私も知らないうちに“他人の物語”を生きていた。
彼の妻として、良い家庭を演じるために。
でも、不倫はその仮面を壊してくれた。
皮肉だけど、あの裏切りがなければ、私はまだ“妻”という牢にいた」
「復讐に後悔はありませんか」
「ありません。
けれど、同時に虚しさもありました。
真実を暴いた先に、何も残らなかった。
勝った気がしたのは一瞬で、
そのあとはただ、風だけが吹いていました」
記者は頷き、ノートに何かを書きつけた。
「それでも、あなたは名前を隠したまま行動した。
なぜ、名乗らなかったのですか」
「“正義”という言葉の下に、名前を置くのが怖かったから。
名を出した瞬間、それは個人の復讐になる。
でも匿名なら、“構造”として記録される。
――私が望んだのは、個人の勝利ではなく、社会の記憶です」
その言葉を口にしたとき、自分でも驚くほどの静けさがあった。
記者はしばらく黙り、それから言った。
「記事のタイトル、こうしてもいいですか?
『正義ではなく、記録として。告発者の声』」
「……いいですね」
私は小さく笑った。
「その方が、私らしいかもしれません」
◇
取材が終わり、ラウンジを出ると、夜風が頬を撫でた。
街の灯りは滲み、どこか優しかった。
通りを歩く人々のざわめきが、まるで遠い音楽のように聞こえる。
ポケットの中でスマホが震えた。
メッセージ通知。
差出人は――白川結衣。
迷った末に、開く。
「あなたの言葉をニュースで見ました。
正直、憎んでいました。
でも、今は違います。
あなたの言葉で、少しだけ前を向けました。
ありがとうございました。」
短い文面。
私は足を止め、夜空を見上げた。
群雲の間から、星がひとつだけ覗いている。
――奇妙なものだ。
壊したはずの誰かが、救われていく。
それが、告発という行為のもう一つの顔なのかもしれない。
◇
帰宅して灯りを点ける。
机の上に、新しい名刺を置いた。
「橘美月 PRリスクコンサルタント」
裏面には、小さく一文が刻まれている。
> “真実は、人を壊すことも、救うこともできる。”
窓の外で風が鳴った。
私はグラスにワインを注ぎ、月明かりにかざした。
淡い赤が、ゆっくりと揺れる。
どこか遠くで教会の鐘が鳴った気がした。
その音を聞きながら、私は呟く。
「もう、復讐はいらない」
そして、微笑んだ。
――これは終わりではなく、始まりだ。
誰かの嘘を暴くためではなく、
自分の言葉で生きるための、新しい人生が。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作『告発の夜に、妻は笑う』は、
ただの不倫劇でも、復讐の物語でもありません。
「愛が壊れたあと、人はどう立ち上がるのか」――その一点だけを描きたいと思い、筆を取りました。
主人公・橘美月は、冷静で知的で、そしてどこまでも人間的な女性です。
怒りではなく理性で、涙ではなく構造で、裏切りに立ち向かう。
そんな彼女の姿に、もし少しでも「強さ」や「優しさ」を感じていただけたなら、
作者としてこれ以上の喜びはありません。
この作品を書きながら、私は何度も考えました。
正義とは何か。
復讐とは何か。
そして、赦しとは――。
美月は最後に「笑う」ことで、それらをすべて越えていきます。
彼女の笑みが“勝利”ではなく“再生”の証であることを、
読者の皆さまにも感じ取ってもらえたら嬉しいです。
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最後まで読んでくださったあなたへ――
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