第6章 崩壊
翌週の月曜日、朝のニュースで夫の勤務先の社名がはっきりと報じられた。
「メーカーA社、営業部の不倫疑惑で社内調査が長期化」
キャスターの淡々とした声。
テロップには、会社のロゴがぼかされて映っている。
――もう隠せない。
祐一が守ろうとした“社会的な顔”は、すでに剥がれ落ちていた。
スマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、夫の同僚・黒田からのメッセージ。
〈お前、大丈夫か? 取引先まで話が行ってるぞ〉
短い一文が、現実の重さを伝えていた。
その後、夫本人からの着信が何度も続いたが、私は出なかった。
電話の向こうにある混乱の声を、聞く義理はもうない。
リビングの窓から外を見ると、空は鉛のような灰色。
曇天が世界を覆っていた。
その景色が、まるで祐一の精神状態を映しているようで、私は少しだけ笑ってしまった。
◇
昼下がり、ママ友の真田彩香からLINEが届いた。
〈ニュース見たよ。あれ、旦那さんの会社だよね?〉
〈……もしかして、関係あるの?〉
私は指を止め、ほんの一瞬だけ考えた。
そして、短く返す。
〈ううん、関係ないわ。うちの夫は関係者じゃない〉
嘘だった。
けれど、その嘘がなぜか心地よかった。
もう、私の中で祐一は「夫」ではなかった。
単なる“登場人物”。
この物語の終わりを彩る一人の役者に過ぎない。
◇
夕方。
夫が帰宅した。
顔は青白く、目の下の隈は濃くなっていた。
「会社、もう滅茶苦茶だ。営業部の契約、全部見直し。
上司は本社に呼ばれて……俺も、出勤停止だ」
「そう」
私は台所に立ったまま答えた。
「白川は?」
「……退職願、出したらしい」
「そう」
彼は沈黙し、拳を握りしめた。
「美月……お前、どこまで知ってるんだ」
「何のこと?」
「俺たちのことを、誰かが――」
「“俺たち”?」
再びその言葉。
私は穏やかに笑った。
「ずいぶん、仲が良かったのね」
「違うんだ、美月! 本気じゃなかった、ただの――」
「裏切りには、軽重なんてないのよ」
言葉を遮るように、私は静かに告げた。
「あなたが私にしたこと、それが“本気”でも“遊び”でも、
どちらにせよ、壊したのは同じ日常だった」
夫は何も言い返せなかった。
沈黙の中で、時計の秒針がやけに大きく響く。
まるで、残り時間を刻む音のように。
「会社、もうすぐ倒れるかもしれない」
夫の声は、かすれていた。
「取引先が契約を一部停止した。
社長は“倫理的責任”を取るって言ってる」
「そう」
「美月、俺……終わったのかもしれない」
「ええ、終わったのよ」
私は目を伏せたまま言った。
「でも、あなたの“終わり”は、私の“始まり”でもある」
◇
翌日、ニュースアプリが再び通知を鳴らした。
「A社営業部不倫騒動、社内資料のリークか」
記事の中には、社内メールのやり取りの一部が掲載されていた。
“営業部・倫理問題調査”という件名。
メール本文には「部内での個人的関係に起因する通報」――。
それは、私が送った匿名報告文の一節と一致していた。
どこかで誰かが、内部情報をマスコミへ流したのだ。
――佐伯かもしれない。
あるいは、もっと別の誰か。
もはや制御は効かない。
火は、完全に広がった。
SNS上では、白川結衣の裏アカウントが特定されていた。
「この人だ」「写真一致」「鍵垢閉鎖」――投稿は炎のように拡散した。
そして、祐一の会社名も実名で出回り始めた。
私はその画面を見ながら、感情が一切動かない自分に気づいた。
復讐は、終わった瞬間に、虚無へと変わる。
でも、それでいい。
怒りを燃やし尽くした灰の上にしか、次の何かは芽吹かない。
◇
三日後。
夫が家を出ていった。
荷物も少ない。
スーツケースひとつと、茶色い紙袋。
「しばらく実家に帰る」
それだけ言い残して、彼は背を向けた。
私は玄関の扉が閉まる音を聞き、深く息を吐いた。
雨の匂いがまだ残る季節。
その中で、ようやく静かな空気が戻ってきた。
テーブルの上には、未開封のメール。
差出人は「白川結衣」。
件名は「謝罪」。
指先が一瞬止まる。
クリックすると、短い文だけが表示された。
橘様
このたびは、私の軽率な行動でご迷惑をおかけしました。
ご主人との関係はすでに終わりました。
ただ、どうか一つだけ信じてほしいのです。
私は、彼を利用したつもりではありませんでした。
好きになってしまったことが、罪でした。
本当に、申し訳ありません。
私は数秒間、画面を見つめ続けた。
「罪」という言葉が、静かに胸に残った。
罪――。
その響きの中に、私自身の影が見えた気がした。
私は人を罰した。
けれど、その行為の裏には、私もまた“壊した”側にいたのではないか。
――いいえ。
首を振る。
自分を許してはいけない。
あれは必要な正義だった。
愛と憎しみの境界を、明確に切り離すための一線。
それを越えたのは彼らであり、私はただ秩序を取り戻しただけ。
私は返信を書かずにメールを閉じた。
画面の光が消えると、部屋は薄暗くなった。
その暗さが、不思議と落ち着く。
◇
夜。
佐伯から電話があった。
「全部、終わったな」
「ええ」
「会社側も、処分を決めた。祐一さんは懲戒解雇、白川さんは自己退職扱いだ」
「……そう」
「君の勝ちだよ」
私は少し黙り、窓の外の街灯を見つめた。
勝ち、という言葉が、やけに空虚に響いた。
「勝ち負けじゃないわ。
私がしたのは、ただ“清算”」
「そうか」
「でも、ありがとう。あなたがいなければ、ここまで来れなかった」
「……これで終わりにするか?」
「いいえ。まだ一つ、やり残したことがあるの」
「何だ?」
「告発の後には、再生が必要。
私は、壊したものの後始末をしなきゃいけない」
電話を切り、私は机の上の名刺を見た。
「橘美月 PRリスクコンサルタント」
それは、私自身が再び社会へ戻るための鍵だった。
破壊の先に立つための、もう一つの“仕事”。
窓の外、雲が切れ始めている。
夜空の隙間から、月が顔を出した。
その光を見上げながら、私は呟いた。
「次は、私が救う番ね」




