第5章 妻の告発
金曜日の夜は、いつもより長く感じた。
時計の針が進むたび、部屋の中の空気が重くなっていく。
窓の外では小雨が降っている。
その音が、まるで遠くで鳴る太鼓のように、心臓の鼓動と重なっていた。
夫はまだ帰ってこない。
社内調査の件で残業と言っていたが、電話の声はどこか上ずっていた。
その声を最後に、私は彼の現在地を知ろうとはしなかった。
――もう、知る必要がない。
知るのは「どこにいるか」ではなく、「どんな結末を迎えるか」だけだ。
パソコンの電源を入れる。
起動画面の青い光が、部屋の中をゆっくりと照らした。
ブラウザを開き、フォルダをひとつ選ぶ。
名前は「R-Day」――“Revelation Day”。告発の日、という意味。
そこには、これまで集めたすべての記録が入っていた。
領収書、SNSの投稿、エレベーター映像の解析、日付と照応する勤務スケジュール。
完璧な整合性。
どのページを切り取っても、同じ真実へ辿り着くように構成されている。
――これで、逃げ場はない。
私は画面の隅にある「投稿する」ボタンを見つめた。
匿名SNSへの下書きページ。
そこに書かれた文を、もう一度ゆっくりと読み直す。
【内部告発】
某メーカー営業部にて、既婚男性社員とその部下の女性社員が不適切な関係を続けており、
会社の名誉と職場環境を著しく損ねています。
これは単なる噂ではなく、証拠資料も存在します。
(ホテル・ルナパークでの定期的な宿泊記録、当事者のSNS投稿、領収書)
詳細は以下のスレッドにて提示します。
文体はあくまで冷静に、感情の匂いを排除した。
私個人の言葉ではなく、社会的な声として響くように。
攻撃ではなく“通報”。
断罪ではなく“開示”。
それが、最も効く形だ。
投稿ボタンを押すと、画面が一瞬だけ白く光った。
そして、淡い青色の通知。
「投稿が完了しました」
その文字を見た瞬間、胸の奥で小さく何かが弾けた。
解放にも似た音。
ずっと心の底に沈んでいた重石が、少しずつ溶けていくようだった。
◇
数時間後、SNSはざわめきに包まれていた。
「この会社どこ?」「写真の傘、あの人のじゃない?」「裏垢と一致してる!」
拡散速度は、火のついた紙のようだった。
数百、数千とリポストされ、まとめサイトに転載される。
その過程を、私はまるで他人事のように眺めていた。
夜中のニュースアカウントが動く。
「大手メーカー営業部、不倫疑惑で社内調査。ネットで内部告発が拡散中」
その投稿には、数分で数千のコメントがついた。
私はワインを一口飲み、画面を閉じた。
――これで、完成だ。
◇
午前一時、玄関のドアが乱暴に開く音がした。
夫が帰ってきた。
髪は濡れ、スーツはしわだらけ。
目の下には濃い影。
「どうしたの?」
「……会社が大騒ぎだ」
「そう」
「お前、ニュース見たか? まるで俺たちのことみたいな投稿が出てる」
“俺たち”。
その言葉が口から出た瞬間、彼の頬の筋肉が引きつった。
「俺たち?」
「……いや、違う。白川と、俺が……違う、そうじゃない。偶然だ」
「偶然ね」
私の声は、氷のように冷たかった。
夫は手のひらで頭を押さえ、呟く。
「会社にも問い合わせが殺到してる。上司が明日、緊急会議を開くらしい。
もう俺……終わりかもしれない」
その言葉に、私は心の中で小さく頷いた。
ようやく、現実を見始めたのね。
「ねえ祐一」
私は彼の方を見た。
「もし本当にあなたじゃないなら、怖がる必要なんてないでしょう?」
「……」
「怖いのは、嘘を守り続けるときだけよ」
彼の目が私を見た。
その視線には、初めて“妻ではなく敵”を見るような光があった。
私は微笑んだ。
「明日、会社に行ったら、ちゃんと説明しなさい。
正直に、すべて」
「……美月、お前……」
「なに?」
「まさか、お前が――」
「何を?」
私はカップを手に取り、静かに紅茶を口に含んだ。
沈黙。
その沈黙が、彼の中の確信へと変わっていくのが見えた。
◇
翌朝、ニュースサイトのトップに記事が掲載された。
「メーカー営業部の不倫疑惑、内部関係者による証拠提供か」
記事の中には、匿名で提出されたスクリーンショットの一部が掲載されていた。
傘、ホテル、指輪――そして、女性の横顔。
ぼかされてはいるが、見る人が見れば分かる。
同じフロアにいる社員なら、確実に。
社内は完全にパニック状態。
夫からのメッセージが次々と届く。
「白川が休んだ」「部長から連絡」「顧客にまで噂が広がった」
私はそれらを見ながら、まるでニュースの更新通知のように受け流した。
やがて最後の一文。
「頼む、話を聞いてくれ」
それにだけ、私は返信した。
〈夜に帰ってきたら話しましょう〉
◇
夜八時。
夫はふらふらと帰宅した。
会社のバッジを外し、スーツを椅子に投げ捨てる。
「美月……どうしてこんなことに……」
私はテーブルに書類を置いた。
「離婚届よ」
夫の目が見開かれた。
「これ、私が出す前にあなたが署名した方がいい」
「……は?」
「慰謝料の算定は、弁護士の佐伯さんが進めてくれてる。
拒否するなら裁判になるけど、会社にすべての資料を出すことになるわ」
夫の顔から血の気が引いた。
「お前……やっぱり……お前がやったのか」
私は紅茶を口に含み、静かに頷いた。
「私じゃないわ。“社会”がやったの。
私は、正しい場所に真実を置いただけ」
夫は膝に手をつき、頭を抱えた。
その姿を見ても、哀れみは湧かなかった。
ただ、静かな終結を見届けるような心地だった。
「これで、終わりよ」
私の声は、まるで判決文を読み上げるように淡々としていた。
「あなたが私を裏切った瞬間に、もう二人の物語は終わってたの。
私はただ、最終ページを印刷しただけ」
夫は何も言えなかった。
沈黙の中で、時計の秒針だけが進む。
部屋の空気は、少しずつ冷たく澄んでいった。
◇
その夜、私は窓辺に立ち、外を見た。
街の明かりが雨に滲んでいる。
SNSの画面には、まだ騒動の余波が流れていた。
だが、私はもう興味を失っていた。
――終わりは、いつだって静かなものだ。
机の上には、白い封筒。
差出人は「佐伯法律事務所」。
封を切ると、一枚の契約書。
そこには新しい肩書きが記されていた。
「橘美月 PRリスクコンサルタント」
私は小さく笑った。
復讐の果てに残ったのは、怒りでも悲しみでもなく、
ただ、自分を取り戻した実感だけだった。
雨音が止む。
その静けさの中で、私はカップの紅茶を飲み干した。
そして、かすかに笑った。
――これが、告発の夜。
そして、再生の始まり。




