第4章 社内リーク
木曜日の朝、夫は珍しく寝癖のまま出勤した。
ワイシャツのボタンを掛け違えたまま、気づきもしない。
いつもなら几帳面に整えてから玄関を出る人だ。
――それだけで、今の彼の心境が読めた。
私は窓辺でカーテンを開け、彼の車が角を曲がるのを見送った。
通りには、いつもと変わらない朝の光。
ただその光の中で、祐一の背中だけがどこか小さく見えた。
◇
午前十時、私はパソコンの画面を開いた。
佐伯から届いていたメッセージの件名は「第二段階」。
添付されたのは、社内掲示板のスクリーンショット。
匿名の投稿があったらしい。
「営業部の既婚男性社員と女性社員の不適切交際について」
文面は短く、直接名指しではない。
だが、見る人が見れば誰のことか分かる構成だった。
私は画面を眺めながら、薄く息を吐いた。
――もう始まった。
社内で火がつけば、あとは酸素が勝手に供給される。
人の好奇心は、ガソリンよりよく燃える。
通知音。
スマホに新しいメッセージが届く。
送信者はママ友の真田彩香。
「ねえ、旦那さんの会社、なんか大変なことになってない?」
思わず笑ってしまった。
噂はもう、家庭の外にまで届いている。
情報は想像を経由して膨張する。
その膨張が、真実を包み隠す布にもなる。
私はメッセージを返さなかった。
代わりに、ワインレッドのマグカップを手に取る。
午前の陽光が、カップの縁を淡く照らす。
この瞬間、私は奇妙な安堵を覚えた。
静かに、計画は動いている。
◇
昼過ぎ、祐一からLINEが届いた。
「会社がざわついてる」「白川、泣いてるらしい」「どうすればいい」
どうすればいい、か。
その言葉を読みながら、私は一瞬、五年前の記憶を思い出した。
彼が会社で失敗したとき、泣きそうな顔で私に頭を下げた。
あのときは、助けた。
だが今は違う。
〈大丈夫。時間が経てば落ち着くよ〉
そう打って送る。
慰めの言葉は、最も効率の良い毒だ。
人は安心すると、危機管理を捨てる。
そして、沈む。
◇
夕方。
私はリビングでテレビを見ながら、夫の帰宅を待っていた。
玄関のドアが開く音。
「ただいま」
声が掠れている。
「おかえりなさい。ごはん、温めるね」
「……ああ」
スーツの肩が下がっていた。
ネクタイを緩める手が震えている。
「どうしたの?」
「社内調査、白川が名前出されたみたいだ。
俺も呼ばれた。事情聴取ってやつ」
「そう……」
「でも、誰が通報したんだろうな。
俺たちが疑われるなんて、おかしいだろ」
私は箸を並べながら、ゆっくりと微笑んだ。
「そうね。世の中、誤解ってあるものよ」
夫は沈黙したまま、茶碗のご飯を口に運ぶ。
食欲のない動作。
噛む音が、やけに小さい。
沈黙の間に、テレビのニュースキャスターの声が挟まる。
「社内不倫の匿名告発が相次ぎ――」
夫は顔をしかめてリモコンを取り、チャンネルを変えた。
◇
夜中、夫の寝息を確認してから、私はスマートフォンを開いた。
佐伯から新しいメッセージ。
〈第二段階終了。次は“拡散”〉
続けて、SNSの匿名投稿が添付されていた。
「大手メーカー営業部、既婚男性社員が部下と不倫疑惑」
その文の下には、加工された写真――結衣の裏アカ投稿の一部が貼られていた。
ホテルの壁紙、傘、指輪。
ぼかしが入っているが、関係者には分かるだろう。
“拡散”という言葉を眺めながら、私は冷たい笑いがこみ上げてくるのを感じた。
彼らはSNSで出会い、SNSで破滅する。
ネットの中で恋を育てた者は、ネットの中で燃やされる。
――公平な世界だと思う。
◇
翌日。
会社の内部チャットが、外部メディアにリークされた。
匿名のニュースアカウントが、「某メーカー、営業部不倫疑惑調査中」と投稿。
そのスレッドには、「A社か?」「Y氏って誰?」という書き込みが並ぶ。
祐一の同僚らしき名前もちらほら見える。
昼のニュース番組でも取り上げられた。
“ある中堅企業での社内不倫トラブル”。
顔も名前も出ていない。
だが、地元の人間には一瞬で分かる。
午後、夫から電話。
「美月、ニュース見た? 俺の会社だよ」
「見たわ」
「信じられるか? もう地元で噂になってる」
「……そう」
「ほんとに誰がリークしたんだろうな」
彼の声の震えに、私は無言で微笑む。
「気をつけて。変な発言はしない方がいいわ」
「分かってる」
電話が切れたあと、私は指先で机を軽く叩いた。
リズムを刻むように。
その音が、まるでカウントダウンのように響いた。
◇
夜。
夫は酒を飲んで帰宅した。
普段飲まないウイスキーの匂い。
「上司がさ、俺に言うんだよ。『お前じゃないのか?』って」
「そんなこと言われたの?」
「……ああ。ふざけてる。俺がどんな気持ちで働いてると思ってるんだ」
声が大きくなった。
「白川も泣いてるんだぞ! 何もしてないのに!」
その言葉の裏に、ほんの少し“焦り”が混ざっていた。
私は冷静に返す。
「あなた、彼女のこと守りたいの?」
夫は一瞬、息を止めた。
「……ちがう。そういう意味じゃない」
「でも、あなたは彼女の名前を最初に出した」
「……」
沈黙。
その沈黙こそが、真実だった。
◇
深夜。
私は再びパソコンを開く。
佐伯との共有フォルダに、ファイルが一つ増えている。
名前は「内部告発・正式文案」。
クリックすると、整然とした文面が現れた。
> 株式会社◯◯営業部における上司と部下の不適切な交際について、
> 組織としての倫理観の欠如が見られます。
> この件に関し、適切な調査を求めます。
> なお、匿名を希望しますが、証拠資料の提出は可能です。
――第三段階の準備は整った。
ここから先は、私の手で送信する。
モニターの光に照らされた指先が、小さく震える。
怒りでも興奮でもない。
ただ、終わりの形が見えてきたことによる静かな緊張だった。
ウィンドウを閉じると、部屋の中が闇に戻る。
窓の外では、雨が再び降り始めていた。
私はその音を聞きながら、心の中でひとつ数えた。
――あと、二手。




