第1章 封筒の中の裏切り
洗濯機の音が、静かな部屋に響いていた。
外はまだ春の気配が残る三月の夜。
夫の帰りを待ちながら、私は淡々と家事をこなしていた。
スーツの上着を畳もうとして、胸ポケットに違和感を覚える。
指先に触れたのは、硬い紙の感触。
取り出すと、それは白い封筒だった。
封を切ると、中には一枚の領収書。
発行元──「ホテル・ルナパーク」。
宿泊日、金曜日。金額、一万八千円。
私は数秒だけ黙り込み、それから小さく息を吐いた。
予感はあった。
正確に言えば、もう随分前から感じていた。
突然増えた残業。週末の「出張」。
帰宅後に浴びる新しい香水の匂い。
スマホを伏せて置く癖。
どれも、ひとつの方向を指していた。
だから、驚きはなかった。
けれど、こうして“証拠”を目にすると、
胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。
「なるほどね……」
口の中で呟きながら、私は笑った。
自分でも不思議なほど落ち着いていた。
怒りでも悲しみでもなく、静かな納得。
まるで、パズルの最後のピースがはまったような感覚だった。
封筒を元に戻し、スマートフォンを取り出す。
領収書の写真を撮り、クラウドに保存。
「証拠は削除しない。冷静に積み重ねる」
元広報の癖が、自然と働いた。
感情を殺し、事実を整理する。
情報を集め、タイミングを見極める。
私が最も得意とする分野だ。
洗濯機が止まり、乾いた音が消える。
私は部屋の明かりを落とし、リビングの鏡の前に立った。
鏡の中の私は、いつも通りの妻の顔をしていた。
控えめなメイク、整った髪。
家族に安心を与えるような、穏やかな表情。
けれど、その目の奥だけが冷たく光っていた。
──もう、演じるのはやめよう。
そんな声が、胸の奥から響いてきた。
夫が帰ってきたのは、夜の十時を過ぎたころだった。
いつもより少し遅い。
私はダイニングで本を開いていた。
「おかえりなさい」
「ただいま。ちょっとトラブルでね」
いつもの言い訳。
ネクタイを緩め、シャワーを浴びに向かう夫の背中を、私は静かに見送った。
テーブルの上には、冷めた味噌汁。
その向こうに、夫のスマホが置かれている。
画面には通知。
「YUI:おつかれさま、また明日♡」
胸の奥が、一瞬だけ熱を帯びた。
けれど、私は指先を止めた。
──今は、動かない。
感情で動けば、すべてが壊れる。
私は冷たい笑みを浮かべ、ページをめくった。
戦うなら、確実に。
潰すなら、完璧に。
それが、私のやり方だ。
◇
翌朝、夫は何事もなかったように出勤した。
私は見送りながら、笑顔で手を振る。
「いってらっしゃい」
「うん、行ってくる」
ドアが閉まり、車の音が遠ざかると、
家の中の空気が一気に軽くなった。
私は静かにノートパソコンを開く。
SNS、メール、スケジュール帳。
夫の行動を把握するための情報は、すでに十分にある。
まずは、会社のホームページを開く。
営業部の紹介ページには、笑顔の夫が写っていた。
隣に立つ若い女性──白川結衣。
彼女の顔を見た瞬間、直感が働いた。
この人だ、と。
マスク越しでもわかる。
夫の視線の向け方、肩の角度、写真の距離感。
そこに“関係”の名残があった。
白川結衣。28歳。営業事務。
軽い検索で、SNSの裏アカウントもすぐに見つかった。
プロフィールには「#仕事つらいけど恋してる」「#秘密の関係」。
そして、投稿にはホテルの写真。
「金曜の夜は特別な時間」
キャプションの絵文字に、私はわずかに眉を上げた。
この人は、見せたいのだ。
世界に知られたくない秘密を、
ほんの少しだけ、誰かに見せびらかしたい。
そんな自己顕示の衝動。
SNSは、それを容易に叶えてしまう。
私はそのアカウントをスクリーンショットし、ファイルに保存した。
フォルダ名は「2025_証拠」。
デスクトップに一つのフォルダが増えるたび、
胸の奥の冷たさが、少しずつ快感へと変わっていった。
◇
夕方。
ママ友の真田彩香とカフェで会った。
「最近どう?旦那さん、元気?」
「うん、まあ。忙しいみたい」
私は微笑んで答えた。
嘘は、案外簡単につけるものだ。
彩香はコーヒーを啜りながら、小声で言った。
「この前、駅前で見たの。祐一さん、若い子と一緒だったよ」
「そうなんだ」
私の声は、驚くほど落ち着いていた。
心臓の鼓動も、手の震えもない。
すべてを知っている人間の反応。
「大丈夫?」
「大丈夫。ありがとう」
笑って答えながら、私は確信を強めた。
――この世界の誰も、彼の嘘を守りきれない。
◇
夜、夫が風呂から上がる音を聞きながら、
私はパソコンに向かい、文書ファイルを開いた。
タイトルは「行動記録」。
日付、時間、発言、出費。
証拠を淡々と書き加える。
感情を挟まない記録。
それはまるで報告書のようだった。
「私はあなたを告発する。
でも、それは怒りではなく、正義として。」
画面の文字を見つめながら、私は思った。
――復讐は、感情ではなく構築物だ。
憎しみを制御し、計画に変える。
それこそが、最も美しい断罪の形。
外では、春の雨が降り始めていた。
窓を叩く音が、まるで時を刻むように響く。
その音を聞きながら、私はワインを一口飲んだ。
「乾杯」
小さく呟いたその言葉は、
夫の裏切りではなく、私自身の“目覚め”への祝杯だった。




