スイサイ
水 際
水 災
水 彩
雨雲。
リビングの大窓の向こうでどっしりと構える鈍色が恐ろしく、彩はすぐにカーテンを閉めて、カーペットの上で膝を抱え震える文の隣に腰を下ろし、寄り添った。
いつもはお下げの珈琲色もまだ結われるあてもなく、だらりと文の肩に重くのしかかっているように見えて、彼女の辛さをより鮮明に感じた。
ッチャランッチャランッ、…
ッチャランッチャランッ、…
また、けたたましい警告音がスマホから響いて、あや達はほぼ同時に顔をスマホに向ける。
続く機械音声は、避難指示の出た追加の地域を淡々と読み上げる。今はまだ、みぎわ川上流の地域が中心だが、彩の家のある中流地域に同様の避難指示が勧告されるのも、時間の問題だろう。
文も同じことを考えたのか、震えながら、再び膝の間に沈み込むように、顔を埋めた。
「…」
彩は床に放っておいたスケッチブックを拾い上げ、昨晩のスイサイが描き出した水面の絵を見つめる。
まっすぐな水平線。
波紋一つ無い水鏡。
どうやら雨の上がった後の視界らしい。
うっすらと靄のかかる遠景、そして水面の所々にビルや家屋のがれきなのか、何らかの大きな物体が突き出ている。
沈んだ町を前に、絶望して、あたしは、たぶん…
踏み出す一歩が容易に想像できて、肩が震えた。
その時だ。
聞き馴染みのあるポップスをスマホが奏で出す。
彩のスマホに電話がかかってきたらしい。
四つん這いに近寄って、見下ろす画面に『カニ』の文字。
そっと拾い上げ、通話開始をタップする。
「…もしもし」
「っあ、彩か。おはよっす」
「…おはよ」
「…」
「…」
「…っその、そっちは、大丈夫か?」
「ふふ、大丈夫か、って。家一キロも離れて無いじゃん。そっちとたぶん、大差ないよ」
「そっか。忘れてたぜ。へへ」
「…それだけ?」
「えーっと。…おう、…それ、だけ。んじゃっ」
「じゃね。…ばーか」
「え」
ツー―――…
間の抜けた『え』がおかしくて、彩はスマホを抱き締めクスクス笑う。
そして、スマホの画面、少し遡ったトーク履歴に映る、『土曜日』の文字に勇気付けられるように、
「…負けちゃ、ダメだ」
そう呟いて、涙を堪えて立ち上がる。
スイサイは一体、何を描き、伝えようというのか。
スイサイを遺し消えた同級生、カンナの本当の想いを知るためにも。
そして、これから起きるかもしれない『大きな災い』を知り、備えるためにも。
彩は、負けてなんていられないのだ。
涙に沈んでなんて、いられないのだ。
ドサッ、バサバサッ…
真横のカーペットに次々投げて揃えられていく本の数々に、さすがに鬱陶しさを覚えた文が、ようやく顔を上げる。
「…彩?なにしてんの」
「ん?…地理のべんきょ」
そう言って最後の一冊、自室の机から持ってきたらしい地理の図説を、ばさり、と、本の山の頂に放り置く。
そうして山の麓に腰かけて、ええとまずは、と目当ての本を探していき、あったッ、と『小学六年生から始める!簡単予習ガイド・地理』を引っ張り出す。
「…中学受験の予習でもすんの?女子高生さん」
「違う違う。あたしの期末の地理の点数、知ってるでしょ」
「あかて」
「そう。だから、こっから」
「ええ…?」
彩も終末予言に狂う質なのか、と、文が眉をしかめていると、
「っていうか、そもそも、おかしくない?」
「暗記科目の赤点が?」
「ちっがうよぉッ」
彩は『川の地形』の章を読み進めながら続ける。
「土砂災害が一つ起きただけで、こんなにすっぽり、町って沈むものなの?って話」
カーペットの端に開き置かれた、スイサイの描き出したセピアのだだっ広い水平線を、彩は顎で指す。
「…言われてみれば、確かに」
「だから多分、これは町の絵じゃないんだ。今までずっと学校の絵だったから、その先入観で」
「わたし達は、…誤認した」
文もようやく彩の目論見を理解したらしく、彼女が築いた本の山の掘削を始める。
スイサイは彩に『死の報せ』を、カンナには『彩の生活』を魅せた。
昨日、力二が持ち出してくれたカンナのスケッチブック一冊を見返しても、そのルールは、わかる範囲で揺らぐことはなかった。
だから恐らく、そのルールに則れば、昨晩、彩に描かせたセピアの水面も、スイサイは彩に『死の報せ』を魅せていることになるのだが…
「あの広さの水面、…この辺だとどこだ?」
文は戸惑いながらも目的の本を探す。
「海?…は、近くに無いもんね」
「となると湖とかか」
「…あったっけ。近くに」
文はようやく日本地図帳を発掘し、これから彩が足を確保し十数時間以内に向かえる範囲の海か、湖を探していく。
「…無い、ねえ」
「無い、かあ…」
僅かながら光明が見えたかに思えたが、頭上の雨雲は想像以上に厚く、手強かったらしい。
相変わらず部屋を染める重い鈍色に、二人は再び、肩を落とす。
と、そこへ、
ピロン…ピロン
と、二人のスマホがほぼ同時にメールの着信を告げた。
「着信音、デフォルトから変えないの?」
「お互い様でしょうが」
そうからかい合いながらスマホを手に取ると、学校のメール連絡網が『本日、休校』を告げてきた。
その流れでデジタル時計を見ると七時ちょうど。
テレビなりスマホのアラートなりで、思いの外早起きをしていたらしい。
「なによこの電車通学への差別ぅ。場所によっちゃあ絶対もう電車乗っちゃった子居るでしょ」
文はスマホを閉じて、不貞腐れるよう近くのクッションにぽすっと投げた。
「こういう時、徒歩通学のありがたみを噛み締めちゃうよ」
彩もスマホを閉じて、ソファの脚を背もたれにして、んー、と伸びをしながら、次の手を考える。
「通学…通学かあ」
何の気無しに天井に呟いて、そのうっすら鈍色の差す白いカンバスに、お気に入りのシアンとグリーンのツートーンを思い浮かべた。
「…そういや」
水門先輩の通学用のリムジン、車窓のガラスも黒ずんでて、景色、綺麗に見られなかったなあ…
「…水門先輩、あの河川敷の景色、知ってるのかな」
がさり、と、文が手にしていた本を落としたらしい。
雨音だけの静寂にはあまりに大きな音だったから、彩も何事かと視線を向ける。
「…いま、何て?」
「んえ?あたし、何か言った?」
「うんッ、言った気がしたッ」
文が目を輝かせながら、ずいっと、這い寄ってくる。
「えーと、通学路の景色」
「違う違うッ」
「河川敷だッ」
「違うッ、そうじゃない!」
「え~、じゃあ、みのとせんぱ」
「それだッ!」
そう言って文はスマホを鷲掴みし、検索アプリで何かを打ち込むと、
「あるの湖…いいえ、できたの」
「できた…?そおんな、カフェじゃないんだよ?湖ってさぁ」
呆れる彩の鼻先に、
「ほれッ」
「うわっ…びっくりした」
文が突き付けてきたスマホの画面の文字を、彩は思わず音読する。
「みぎわ川上流…みのとグループがダム新設…その名は『みのと』…?」
あや達は、次の一手を確定させた。
キィンコ―――ン――…
雨降りしきる中、カッパと傘でその水圧を耐え凌ぎながら、自分の記憶とスマホのマップを頼りに歩き、水門先輩の家の門備え付けのインターホンを押していた。
「おはようございます。本日はどういったご用件ですかな」
すると、カメラ付きの機械が聞き覚えのあるダンディな声を聞かせ、
「あ、あのっ。M西高の一年、美術部の」
「あら、はいはい、お嬢様のご学友の彩様ですか。…今、使いの者に門を開けさせますゆえ、しばし、お待ちを」
挨拶も半ば、どうやら顔と声を覚えられていたらしく名乗る前にインターホンは切れる。
それから十秒も経たずに奥の玄関からビジネススーツ姿の紳士が出てきて、足早に駆け寄り門を開け、
「どうぞこちらへ。お嬢様がお待ちです。ささ」
と、招き入れられた。後ろで手早く閉じられた門の音が聞こえてきて、さささ、と言いながら追い抜く紳士が、屋敷へと伸びる石畳の小道を足早に先導していく。
「こんな雨の日の朝に、何の用かしら」
ばたん、と玄関のドアが閉まるのとほぼ同時に、玄関ホール二階の手すりから、見慣れないビジネススーツ姿の水門先輩が、いつもの見慣れたきつい目線を飛ばしてくる。
「ええとその。こんな日にアレなんですが、社会科見学?も兼ねて、みのとグループの施設を見学したくて」
「あのねえ。今あなたの冗談に付き合ってる暇なんて無いの。帰って頂戴」
目に見える落胆が水門先輩の肩に現れ、そそくさと奥の部屋に帰っていこうとするが、
「あ、あのっ!『みのと』についてッ、詳しく聞かせて頂けないでしょうかッ」
「…ッ」
彩の言葉に凍りつくように足を止め、隣を歩く秘書との、マスコミにリークが…?、早急に確認を…、というような小声でのやり取りがまばらに聞こえてくる。そして、秘書は別の廊下に駆け出したかと思えば、水門先輩は再びホール二階の手すりに立って、
「上がってきなさい」
と言い残し、腕を組んで考え込むよう、二階中央廊下の奥に消えていった。
そして、いつの間にか隣に立っていたじいやが、さ、こちらへ、と、二階に上がる階段への案内を始める。
「どこでダムの情報を?」
『対策会議室』と張り紙の張られた多目的ホールに入るや否や、あや達は、大きな一枚板のテーブルの奥に腰かける水門先輩の見慣れたきつい目と、そしてテーブルの席を埋める見知らぬビジネススーツ姿の無数のサングラスに見つめられた。
「え…普通に、スマホで」
その一声でサングラス達がいっそうざわめき至るところで議論が始まる。が、水門先輩が呆れた顔で手を挙げると、す、っと静まり返った。
「聞き方が悪かったわ。…そもそも、あなた達はダムの『何が』知りたくて、ここに来たのかしら」
再びホールのサングラス達に、静かな緊張が走る。
「ええとお…」
彩は戸惑いながらも隣で萎縮する文に援軍を求めるが、全力で首を横に振られ、この地での孤軍奮闘を瞬時に決意した。
「…絵が、教えてくれたんです」
あの子、追い出さない?サングラスの一人がぽつり言う。
「ある水彩画が、『みのと』に行け、って。教えてくれたんです」
静まり返る会議室。
何人かのサングラスがため息を溢し、何人かのサングラスは目の前の難題に頭を悩ますよう、彩から各々、目を背けていった。
しかしただ一人、
「私、言わなかったかしら」
一番奥の席で、どっしりと構える水門先輩がまばらなどよめきを引き裂く一声を上げる。
「私に、うそは」
「ついてません」
「ッ」
彩も、負けないと決めた、
「あたしも決めましたから。先輩に、うそ、つかないって」
まっすぐな嘘偽り無い目を、水門先輩に向ける。
「…」
「それにもう、ひしゃくで水かけられるの、コリゴリなんで」
「…」
っぷは
誰かの笑いが、弾けた。
「ぁあっはっはっはっはっはっは!」
ただ一人、水門先輩が手を打って、腹が捩れるほどの大笑いを、戸惑い静まり返る会議室に響かせたのだ。
そしてひとしきり笑い終え、落ち着きの一息をふうと溢すと、
「いいわ。全て聞かせなさい」
会議室の隣、防音完備の小部屋に、あや達は招き入れられる。大笑いをかました後とは思えないほど凛と澄ました水門先輩は、防音壁に寄りかかり腕を組んで、ここなら私達だけよ、と話を促し、あや達はお互い見合った後、順を追って『スイサイ』について語るのだった。
「…つまり」
あや達から受け取った、セピアの染みたスケッチブックをパタンと閉じて、彩に返すと、
「あなたは今日、私達のダム『みのと』に死する、と?」
「その、可能性があります」
「はあ、…とびきり面倒のかかる後輩を持ったものね」
そうため息を溢して、いいわ、戻りましょう、と、再び会議室に向けて歩き出す。
「そもそも、何の会議をしていたんですか?」
道すがら、文は水門先輩に質問すると、
「…会議の存在を知られた以上、あなた達二人には話すべきね」
そう言って、ばたん、と防音室のドアの戸締まりを済ませ、
「先日の地震を覚えているかしら」
続けた問い返しにあや達は、ええ、はい、とまばらに返事をする。
「その地震が…いいえ、もしかするともっと前から積み重なった私達会社の怠慢が悪さして、『みのと』の底部に、小さな亀裂を生じさせたの」
「そんなッ」
「…だから、『対策』を?」
慌てる彩とは対照的に、冷静に言葉を尖らす文のその視線と言葉のとげは、さすが新聞部と言ったところだろうか。水門先輩は感心したようにふっと一つ笑みを溢すと、
「ええ。…恥ずかしながら、上層部連中は反対する父の意見を押し退けて、事の『静観』に舵を切った。起きた災害の責任を全て父に押し付け、他の役員が甘い汁だけ掠めとるという算段なんでしょう」
そのとげの意図に対し、包み隠すこともなく全てを吐いたから、文は逆にきょとんとしてしまう。
「じゃ、じゃあ。これから予想される土砂災害は『人災』ってことに」
「そうね。『みのと』が産むセピアの濁流は間違いなく、この町の多くの人の命を奪うでしょうね」
「…」
対策会議室の前で立ちすくむ三人の沈黙を嘲笑うように、屋敷の四方の壁を、屋根を、どしゃ降りの雨が打ち鳴らした。
「だから、『対策』をしてるんでしょ?先輩は」
重い沈黙を破った彩の言葉に、水門先輩ははっと息を飲む。
「お父さんの力になろうって、頑張ってるんでしょ?」
ドアノブを捻る事を躊躇していた手に、ぐっと力がこもる。
「…かわいい後輩に散々言われっぱなしなのも癪だし」
「私も少しは、先輩らしいところ見せないとね」
そう決意を固めた水門先輩は、勢い良くドアを開け放ち手を二回打つ。
「みんな、聞いて」
「たった今本社で行われていた臨時の役員会議で、『みのと』に関する会社の方針の変更が決定したわ」
その真っ赤を通り越した先輩の『うそ』に、気付いてか気付かずか、会議室内のサングラス達が一気に湧く。
「『静観』はしない。上層部はこのみぎわ川流域一帯に拠点を置くグループ傘下の各部署に、引き起こされるであろう大きな水災を『未然に防ぐ策』、あるいは『被害拡大を抑える策』の早期提案を求めているわ」
「みんな、お願い。この町を、『みのと』に沈めさせないで」
その一声に一段と大きな歓声が湧いて、サングラス達はテーブルに広げられた資料を各々拾い集めるなり床に捨て去るなりして、新たな議題に熱をいれていく。
あや達はその連帯感とボスへの忠誠心に感心していると、
「ほら、何ボサッとしてるの。あなた達も考えるのよ」
と、水門先輩にきつい目で促される。
「あ、あの。人手は多い方がいいですよね?」
スマホのメッセージアプリの画面を見せる彩の問いに、
「ええそうね。あなたが信頼できると言う人間なら、誰でも歓迎よ」
水門先輩はきっぱり即答し、彩はすかさず誰かと短いメッセージのやり取りを始める。
「力仕事とか、ありますよね?」
「まあ…無いわけでは」
『今ひま?』
『おう。まあまあひマーライオン』
『―位置情報を送信しました―』
『ここ来て』
『すっげぇ!!金持ちんちじゃんッ!!』
「…ところで、どんな人に声を?」
「『ぶんぶん両道』に生きる男です」
「…はあ?」
『そこってドレスコードとか、ある?』
それから十数分後、ワックスをピッチリキメてきた力二が招き入れられて、『水際川流域土砂災害 対策会議室』と紙の継ぎ足されたドアが閉まる。
「被害の及ぶ想定地域の避難状況は?」
ボスである水門先輩の問いに、
「現在警戒レベル・スリー、高齢者等の避難が順調に進んでいるとのことです」
「ハザードマップをここに」
っは、と言って脇に立つ秘書が手元の端末を操作し、黒板ほどある大きなモニターに彩度の高い色で区分けされた地図を映し出す。
「なあ文ぁ、あれ何インチかなあ」
隣の力二がどうでもいい質問を小声で囁いてきたから、
「さあ。物差しで測ってみたら?」
と適当に流すと、
「うわっ、こんな時に忘れてきた。貸してくんね?」
と、こんな時、状況の全く読めていない彼に対し肩を落とす。
ダム決壊を想定し、建設当初から考えられていたハザードマップ。水門先輩はみぎわ川を中心に下流から上流に遡るよう、指のピンチで拡大縮小を繰り返しながら策を練っていく。
「…上流のここ、民家は少ないのかしら」
そして、なにか思い付いたように、川に面しているにも関わらず、真っ白な区画一帯を指差す。
「ええ。昨年含めた最新の調査でも、その地域に住所を持つ住民はいませんね」
「…だったら」
水門先輩は人指し指横一文字、赤色のラインを、川を寸断するように真っ直ぐ引く。
「渓谷の脆い場所に発破をかけて、土砂で簡易的な堤を作れば流れを止められるんじゃなくて?」
おおそれですお嬢様!さっすがだぜ!
とサングラス達が色めき立つが、
「ダム決壊で想定される水圧に、土砂を盛っただけの簡易的な堤では、耐えられる保証はありませんね」
秘書の一声に一気に肩をすぼめる。
「あのっ」
が、その一瞬の落胆を引き裂いたのは文の挙手だ。
一気に向けられるサングラス達の期待に萎縮するも、文は、彩と力二の歓声らしきジェスチャーに見送られるようにモニターに歩み寄る。
「でしたら。空白地帯は二十数キロに及ぶわけですから、水門先輩の言うような堤を」
そう言いながら人指し指で、水門先輩の線に平行な縞模様を川の上に描いていき、
「こんな感じでいくつも設置できれば」
「連続的な衝突で水圧は軽減されていく、か」
上流から続く横縞模様を下りながら、秘書は頷いていく、が、その顔に滲ます渋りはまだ消えない。
「しかし発破とは言いますが…要は爆発です。ですから周辺一帯、いえ流域全体の水文学的エコシステムへ与える長期的な悪影響は、計り知れないものになりますよ」
「人の勝手で、それが許されるのか、って話かしら?」
水門先輩のきつい目が、秘書に沈黙を与える。
「人の業の歴史なんて、なにも今に始まった事ではないでしょう。私達は神が特別な役割を与えたもうた使徒でも何でもない。所詮、ただの猿の末裔。自然に手を加えながら、その淘汰に抗いながら、醜さを自覚しながら、ただ、生きていくだけよ」
会議室はまた、しんと静まり返った。
「私は今生も後世も、誰に笑われようと構わないわ。自分勝手にも、守りたいもののために、決定を下す覚悟がある」
そう言って、後悔に苛まれる文の目を覗き込んで、
「だから、大丈夫」
ふっと笑って肩をぽんと弾いた。
「さあ。他に異論のある者は?」
雨音がよく響く。
その音は、彼方上流でダムを満たし、産声を上げるその時を今か今かと待つ、歓喜の歌声にも聞こえてくる。
会議室の全員がようやく、覚悟を決めたかに思えた時だった。
す、っと、一人のやせ形のサングラスが手を挙げる。
「えーすいません、土木の飯田ですが、…発破に使用するダイナマイトの在庫が、現在用意できる量に限りがありまして」
「今、急ぎ追加の発注をかけても間に合わない、と?」
「恐らく…大きな盛り土、堤を三つ…いや、二つこさえるのが、やっと、でしょうか…」
「柳」
「っは」
秘書の男がメガネをくいっと整え返事をする。
「想定される流量を食い止めるには、どれだけの土砂の堤が必要かしら」
柳は端末を操作し、モニターのハザードマップに、等高線付きの地形図を透過処理で重ね合わせ、しばらく考え込む。
「早く。時間が惜しいわ」
急かされたにも関わらず、柳はまた別の数字が細々とかかれた地図も重ねて、しばしお待ちを、と、手元の別端末での計算に没頭し始めた。そして、
「各地区の鉱石含有量から最適な発破地点を割り出した結果、最低でも四ヶ所、確実に止めるのであれば六ヶ所の発破が必要になるかと」
「半数以下しか、爆薬の在庫は無いわけね」
「いえ。先程述べた通り、私が割り出したのは最適な発破地点、です。鉱物の含有量によっては脆い地点もありますから、現在抱えている在庫でも四ヶ所の発破は可能です」
「…最低限の四ヶ所、ね。それでも完璧とは言えないのでしょう?」
柳は、ええ、と、水門先輩の問いに対して、短く、しかし残酷で正確な事実を告げる。
会議室は再びどよめきに包まれた。
このまま四つの堤に全てを託すべきか、代案を練り直すか、至るところで議論が巻き起こる中、
「あのお」
他の大人達よりも頭二つ分は背の高い、力二が、手を真っ直ぐ挙げた。
どよめくサングラス達も次第に静まり、主に文に緊張が走る。
「土砂以外のなんかを、つつみ?に混ぜちゃあ、いけないんすかね」
「…例えば?」
「そっすねえ…」
水門先輩のきつい目にも臆することを知らない、あるいはただ呑気なだけといった、とぼけた仕草で十秒ほど考え込むと、
「…車、とか?」
その発言に、全員が息を飲んだ。
車…?車って言ったか?…コストがかさむなあ…それより環境への影響が…
そう、大人達が再び口々に議論を始めたときだった。
水門先輩が再び手を上げ、全員がす、っと、静まり返る。
「あなた」
「はあ」
「なかなか有望な人材ね」
そう言って水門先輩は不敵に笑いながら、秘書の柳を呼び寄せて、何か二、三こと耳打ちをすると、
「正気ですかッ、お嬢様!?」
よほど荒唐無稽な内容だったのか、柳は慌ててメガネを落としかける。
「逃げ出そうとした役員どもに灸を据える、一石二鳥の策じゃなくて?」
「確かに…そうですが」
「もしもの時の責任は全て私がとる。…でも、世間が責任を求めるのは、…ふふ、今からニュースが楽しみね」
柳がぐう、と音を上げたところで二人の秘密の会議が終わったらしい。水門先輩がテーブルをバンと叩いて立ち上がった。
「さあみんな。仕事の時間よ」
「まず土木。飯田ね。柳に職員の各端末へと発破地点の正確な情報を送らせるわ。各職員の采配は任せるから、四ヶ所の地点へのダイナマイトの手配と、急ぎ内部装薬のための掘削と起爆準備を進めて頂戴」
「っは」
「次に建築。嶋。柳がこれから端末に送る登録番号の重機と建築、運搬用車両全てを発破地点に運びなさい。配置に関しては追って指示するわ」
「指定された登録番号以外の車は、運ばなくてよろしいので?」
「ええ。この車達じゃないと、意味がないの」
「っはは。多くは聞きますまい。承知致しました」
「次に運送。宮野ね。これからあらゆるコネを使って被害想定地区全域に、警戒レベル・フォー、『全員避難』の避難指示を出させるわ。あなた達運送には、バスやタクシー、トラックを使って避難の補助をお願いしたいの」
「承知いたしました」
「最後にブライダル。要かしら。これからグループ傘下のブライダル関連施設、全てを避難場所として解放するわ。式場のシェフには炊き出しの用意と、駐在スタッフにはアメニティの配布、及び避難してきた方々の細かなトラブル全般の対処に当たらせなさい」
「っはい。任せてください!お嬢様!」
「全体の流れは以上。詳しい指示は…柳」
名前を呼ばれた柳は端末から顔を上げ、メガネをくいっと整える。
「ちょうど今、全ての詳細を各部署、各端末に送り終えました」
「だそうよ。質疑等無ければこれにて解散。各自の仕事に移りなさい」
それぞれのサングラス達が意を決して、はい!と一声が上がった。そしてぞろぞろと規則的に、人の流れはぶつかることなく、それぞれの持ち場に向かっていった。
「ふう」
多目的ホールに残されたのは、水門先輩と秘書の柳、そしてあや達三人だった。
「あの」
彩の一声に、水門先輩はどっと疲れた表情ながらも顔を上げた。
人が一気に捌けたから先輩の周囲が良く見えるようになって、改めて気付かされたが、会議は想像以上に長く続いていたらしい。栄養ドリンクや水の空いた容器、くしゃくしゃに丸められた雑記用のメモ用紙の数々が、部屋の隅のゴミ袋にそれぞれまとめられていた。
「ああ…そうね、あなた達の事を忘れていたわ」
そう言ってまた頬杖を突くようにしてあや達の仕事を考え始めるが、
「わたし達も、運送かブライダルの方達のお手伝いにまわってもいいでしょうか?」
「ぁあ、そうしてもらえると助かるわ…」
文の素早い提案に頷くように机に突っ伏した。
「じゃあ、俺は…どうすりゃいい、あやあや」
「あんたは運送の人達について、避難誘導なり避難の補助なり、やれることやんなさいよ」
「大声と力だけが取り柄でしょ。っよ、ボクシング部っ」
「俺の取り柄そんだけえ?」
あや達に茶化されながら、力二は後ろ頭を掻きつつホールを後にする。
文も、先行ってるよ、と言って小走りに力二の後を追う。
「…」
そして、ホールには柳がしきりに弾く打鍵音だけがしばらく響いたが、
「あの、先輩」
「――んん~…?」
「超、かっこよかったです」
突っ伏す水門先輩が、顔は上げずにしっしっと手で彩を追い払う仕草をしたから、彩はたまらずクスクス笑みを溢す。
そしてそれから十秒と間を置かずに、彩もホールを出ていった。
「青春ですねえ」
「うっさいわね」
「…」
「…」
「ご立派でしたよ。水門お嬢様」
「…ほおんと、うっさいわね柳」
柳が涼しい顔でカタカタとあらゆる対応をする中、水門は静かに、寝息をたて始めた。柳はそれににっこり笑いながら、テーブル上の濃いセピアを照り返す、冷めたコーヒーを啜るのだった。
結局その日、ダムは決壊したものの、彩達の住む町がみぎわ川に沈むことは無かった。発破による崩落で一部、想定以上の土砂が流れたが、みのとグループの迅速かつ広範囲にわたる手厚い災害救助や支援が、一人として死傷者を出さなかったのだ。
そして雨も完全に上がった、マゼンタの夕方。
あや達はどうしても行きたいとせがんで、寝ぼけ眼の水門に連れられ、最終防衛ラインとなった土砂の堤まで足を運んでいた。
「っわ」
「おっと」
先導する力二が、足を滑らせた後方の彩の手をとる。
二人はみのとグループのつなぎとヘルメットを身につけて、朱色を照り返す堤を中腹辺りまで登っていた。
「崩れやすいんだから気を付けろよ?」
「…ん、ありがと」
力二がよっ、と言って彩を引っ張り上げて、そのまま手を繋いだまま、少し早足に堤を登りきる。
「マスコミが嗅ぎ付ける前に、とっととすませなさいよぉッ」
堤の麓辺りで、こちらを見上げる水門先輩は苛立たしげな声を張り上げた。
「ほーい。…さ、あのお嬢さんの雷が落ちる前にとっとと…てか、何しに来たんだ?」
「知りたかったの」
そう言って彩はサイドバッグからセピアの染みたスケッチブックを取り出して、最後の絵のページを開きながら、川上を見渡した。
そして、
「…っ」
「…やっぱり、そっか」
そのマゼンタの煌めきにポツリ呟く。
「昨晩のスイサイは…この『景色』を、描いてたんだね」
雨上がりに霞む遠景。
堤に溜まり波紋ひとつ無い水鏡。
その所々に突き出る、ひしゃげた重機やトラックの残骸に、ダム『みのと』の欠片。
スイサイのセピアの描いた視点の一致に、彩の頬を、一粒の涙が伝った。
それから、スイサイは文の提案のもと、カンナと交流のあったM西高の科学部に預けられ、カンナの書いた論文をはじめとした文献を元に、日夜解析が進んでいるらしい。
彩も一度お邪魔して、文の取材の傍ら科学部の熱弁に耳を傾けたところ、どうやら『スイサイ』、もとい『分子トラッカー』とカンナが名付けた物質は、未知の分子配列の新素材と、新発見の極限環境微生物、それらの夢の融合素材、との事だった。
分子トラッカーの核となるは生物。
であれば、まずはその生物を保護する新素材を壊す条件がわかれば、新生物の解析、そして除去方法の研究も一気に進んでいくだろう。
と、科学部員の男子は語るが、当の本人、彩は船をこいでいる。文はただ、静かに彩の右手を見つめたあと、それから?と今日も熱心にペンをとるのだ。
みのとグループが建設したダム決壊のニュースも、およそひと月に渡り世間を騒がせた。どうやら発破地点の近くで崩壊した土砂は、ダム建設の際に運び込まれた砂利の、無計画な不法投棄、乱雑な盛り土の造成によるものであったと、土砂の中から見つかった重機等の登録番号に紐付く、ダム建造に関わる計画書類の調査から判明した。
それからというものの、みのとグループ内、役員同士の責任の押し付け合いが日夜入り乱れているらしく、水門先輩は毎日楽しそうに笑っている。
そしてある記者会見で
「噂されていた某大企業の御曹司との婚約が破棄されたとの情報がありますが」
という質問に対して見せた水門先輩の屈託のない笑顔と、
「ざまあみろ【ピーーーー】が」
そんな大胆な振る舞いが、一部界隈を賑わせたらしい。
そんなニュースに紛れて、身元不明の白骨化遺体が、みのとの底から見つかったという報道がひっそりとなされた。
彩にはそれが『誰』なのか、おぼろ気に理解し、すぐに一人、水門先輩のじいやに頼み込んで、決壊し進入禁止のバリケードのしかれた『みのと』跡地に、足を運んでいた。
「カンナくん」
砂利の露になったダムの底に、彩は白い花束を放り入れる。
スイサイが描いていたのは、『人の感情に対する答え』。
科学部員の男子の語った、スマホや、検索エンジンに備え付けられているような、AI音声アシスタントのようなもの、と言うのが、彩には一番しっくりくる説明だった。
分子トラッカーはあらゆる水分子に吸着し、空気中を漂い、それの位置をはじめとしたあらゆるステータスを、絶えず使用者の無意識下にビッグデータとして集積していく。
そしてそれらをもとに、使用者の望む感情の答えを、何らかの形で『応答』するのだそうだ。
何を思ったのかカンナはスイサイを絵具チューブに閉じ込めた。だから、彩は自然な流れでスイサイの応答領域をスケッチブックにし、スイサイはそこに彩の感情の問いに対しての答えを描いたんだろう、というのが科学部員の男子の考察だ。
彩の感情。
連日の、スイサイに対する『漠然とした不安』を、幼いスイサイは人間が抱えるそれを『死』と誤認、そして定義し、連日にわたる『死の報せ』を描き出した。
そして最後のダムの絵は…直前の『幸福』を初めて学習したスイサイの、勝利へのアシストだったのだろう。
「カンナくんは、あたしの事を、どう思ってたの?」
カンナの感情。
彼の恋情に気付いたのは、彼の母が施設に送られ、警察の捜査が始まって、取り調べと、遺品の整理がされ始めた時だった。
カンナは、スイサイに呑まれる以前から彩に神性を見いだし、恋い焦がれ、女神のように讃える絵をいくつも遺していたらしい。その愛情のこもった筆致は見事で、目に見えないほどの深さに、彩は胸を痛めた。
だからこそ、彩を神聖視するカンナに、ダーウィンの『種の起源』と『スイサイの魅せる彩』は毒であり、唾棄すべき存在であった。彼はどこまでいっても人間である彩と、自身の夢見たユートピアとの大きな溝に絶望し、おそらく、…。
「カンナくん。ごめんね。あたしがふつーの人間で」
人間は人間にしかなれない。
その当たり前に納得すると、静かな夜風の濃縹に一息を溢し、彩は踵を返す。
白い花束の浮くダム底の水溜まりもまた、静かな夜風にセピアの色濃い水面を、ただ揺らめかせるのだった。
土曜日。
「んまっ」
午前授業が終わって、彩は一人、いつもの自販機の傍らで、チョコミントアイスの最後の一口を、幸せと共に口一杯頬張る。見ているともう一本いきたくなるお気に入りのアイスの去ったアイス棒をゴミ箱に突っ込むと、彩は満足そうに伸びをした。
と、そこへ、
「あ、彩じゃん」
無邪気な文の呼び声が聞こえてきて、振り向く。
「おー文あ。…今日もこれから取材?」
「そそ。なんか新発見が有ったみたいで、あの科学小僧から夜中一時に呼び出し連投されてた」
うっすら隈を付けた文は、ため息混じりにそうぼやく。
「…なんか手伝おっか?」
「だーいじょうぶ。だってあんた、今日『アレ』じゃん?」
「な、なんも、無いよ?」
すぐに顔を薄桃色にして視線をそらす彩。
「そっちのスクープも気になるけど、先にこっちを片付けたいんだ」
そう言って文は、彩のセピアに染まりきった右腕を見た。
どうやらスイサイの塊…彩にとっては絵具チューブが一定範囲内に無い場合は、夜に急に眠くなったり、勝手に歩き出したりする事も無いようで、あのダムの絵が、彩にとっての最後のスイサイ画になった。
それは喜ばしい反面、スイサイを使っていないのにも関わらず侵食が止まらない彩の右腕に、文は不安と焦りを感じていた。
「大丈夫だよ」
ふいに彩が笑って、そう言い切った。
「だって親友とその相棒の科学小僧?が、この『スイサイ』」を消してくれるんでしょ?」
その笑顔に、たまらず文も吹き出す。
「ええそうね。あんたが言うと、なんでだろ。…不思議と万事解決しそうな気がする」
「そそ。万事解決バンバンジーだよっ」
「…」
「…なに?」
そんなとぼけた彩のブイサインに文は冷たく踵を返し、
「『おデート』、楽しんできなさい、バカップル」
「おデっ」
まだ違うんだからぁあ、と、僅かに西に傾いたイエローの日差しの中で叫ぶ彩に、文はひとまず安心した。
――ポタっ―――…
「あれ」
部活準備の喧騒の中、妙に鮮明な滴音が聞こえてきた。
「うわあ、鼻血ぃ?」
見ると、少し興奮してしまったからか、夏の暑さからか、鼻から血が溢れている事に気が付く。
彩は慌ててティッシュを取り出して拭いながら、制服の染みにならなかっただけマシか、と自分を納得させて、鼻に詰め物をして、一人、スキップ混じりに家路につく。
「せっかくだし、浴衣着てこっと!」
うだるような、暑い夏。
彼女の溢した血の、跡。
その赤さが漆黒のアスファルトの上で、僅かに、セピアの混じりを照り返したのは、陽炎が魅せた一夏の幻だろう。