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イエロー


水 災



天井。


見慣れない寝室の、大好きなヒマワリを思わせるイエローの天井に、彩は頬をにんまりと緩める。

「…お泊まりも、しちゃった」

最高の夏休みのフィナーレに小躍りするように、キングサイズの来客用ベッドのシルクを滑って、職人手縫いの麻サンダルを突っ掛け、のびのびと朝の微睡みに別れを告げた。

と同時に、大きなのっぽの置時計がささやかな鐘を六回鳴らし、朝の六時ちょうどを告げる。


「…」

が、エレガントな朝もつかの間、ふと視界の端に見えたアカシア製の化粧台の上の光景に気が付いて、

「…人様の家でもお構い無しなのね。あなた」

そう右手のセピアにぼやきながら、化粧台上のスケッチブックを拾い上げた。

描かれているのは放課後の屋上、ドアから出て右側のフェンスの辺り。グラウンドの野球部の練習を見下ろしているような構図だ。

ふう、とため息を溢して、いつからか持ち歩くようになってしまったスイサイのチューブと、スケッチブックをバッグにしまって、筆洗でしゃかしゃか汚れた平筆をすすぎ布巾で水気を吸う。

そうしてセピアに濁った水を抱えながら、堂々たるバルコニーに踏み出し、その隅の排水溝にちょろちょろ流した。

「大きなお庭」

顔を上げ、立ち上がると、手すりの向こうにはここが日本であると忘れてしまいそうな、クラシックでありつつモダンな装いの、美しい庭園が広がっている。

そんな広い庭園を見回していると、

「あ」

その中央、色とりどりのバラの花が植えられた噴水の縁に腰かける、水門先輩の姿を見つけた。

手には文庫本サイズの手帳の様なものを持っていて、鉛筆でバラの茂みのスケッチをしているらしい。

夢中になって柔らかな笑みをたたえながら、愛おしそうにバラを描く水門先輩の佇まい。幸福そのものに見えるのに、彩には同時に、水門先輩の抱える孤独を、他に誰もいない広い庭園のただ中に見出だした。

それが思わぬ熱視線になっていたらしく、水門先輩ははっと顔を上げると、まっすぐと二階バルコニーを見上げて、いつものきつい目で、僅かに耳たぶを桃に染めて、睨んできた。

彩はさっと会釈して、ささっと部屋に逃げ込む。


しかし、五分とかからず水門先輩は彩のいる来客用の寝室の戸をノックしてきて、招き入れられベッドの縁に腰掛けていた。

「その様子だと、ぐっすり眠れたようね」

「ええもう、最高でしたッ」

水門先輩は腕を組んであきれながら、頭頂辺りを顎で指し示す。

「寝癖。バカみたいよ」

「ええッもう、最悪だあッ」

彩も慌てて手櫛を走らせるが、

「っしょうがないな」

と、ため息を溢した水門先輩は立ち上がって歩き、彩の両肩に後ろから手を添えて、

「化粧台。座って」

ずいずいと部屋の隅へと押してくる。

「はいぃ」

そのままストンと椅子に座らされ、アカシアの艶やかなベージュの引き出しから鮮やかなイエローのヘアブラシを取り出すと、彩の栗色の髪を優しく撫でるよう、慣れた手付きで解かしていく。

「…」

目の前の鏡には、丁度後ろに立つ水門先輩の首から上が見えないせいで、表情は全くわからない。だから落ち着かず、そわそわと目を泳がせていると、肩に添えてくれている先輩の左手薬指に、真っ赤なルビーの美しい指輪を見つけた。

わあ。恋人からもらったのかな。

先輩綺麗だから、引く手数多なんだろうなあ。

どんな人だろ。インテリ系?…脳筋は嫌いそうだし。

と、先輩が心に決めた指輪の相手の妄想を捗らせていると、

「フィアンセよ」

先輩はそっけなく言い放つ。

「ふぃ…え?」

「フィアンセ。…婚約者よバカ」

「ええッ」

驚きのあまり頬を真っ赤に染める彩に、水門先輩は思わずクスクス笑う。表情は見えないが、彩にとっては近日中希に見る先輩の大笑いだった。

「へえええ。もう婚約ですか」

「一応、私、大企業の家の一人娘なんだけど」

「それもそうですねえ。で、お相手は?」

「コンプライアンスって知ってるかしら。あんたみたいなちんちくりんに言えるわけないじゃない」

「ちんちく…でっすよねえ」

「ふふ」

冷たい。

水門先輩の表情は見えなくとも、彩でも温度のわかる冷たい笑いだった。

庭先に見た孤独を思うと、胸がきゅっと締め付けられた気がして、思わず黙り込んでしまう。

そんな俯く彩の頭に、水門先輩は優しくぽんと手を添える。

「まあ。…クチもベッドもつまらない男、ってことだけは、特別に教えてあげる」

「んベッ」

「冗、談。…ふふ、あなたからかうと面白いんだもん」

「水門せんぱぁあい」

軽く後ろのお腹に頭突きをしてみると、軽く頭頂に返ってきたげんこつに嬉しくなった。

「それで?あなたには居るのかしら」

「フィアンセなんていませんよお」

「へえ?せっかく土曜日にいい催しがあるんだから。…高校一年ならもっと気楽に遊びなさい」

「土曜日?」

最近どこかで聞いた気がする。どこでだっけ。

「『汀祭(みぎわまつり)』よ。毎年やってるでしょ」

「ああ。河川敷の」

「みのとグループも、花火周りで出資してるのよ。今年は奮発したらしいから、楽しみにしておきなさいっ」

首から下しか見えないが、左手を腰に当てて胸を張っている辺り、きっとどや顔なんだろうな、と彩は笑う。

「それ。コンプライアンス的に言ってもいいんですか?」

直後、できた、と、さっきより強めのげんこつが頭頂に直撃するが、その痛みが嬉しくて、彩は艶々になった髪を弾ませて、また笑った。

ばぁか、と言ってブラシをしまう水門先輩のあきれた横顔も、心なしか庭先の笑みより柔らかかった。


「…」


ふいに、気持ちのいい風が、バルコニーの大窓から吹き込んで、レースのカーテンをふわりと弄んだ。

「…いい風、吹きますねえ」

ブラシ掛けも終わり、彩はイスから立ち上がろうとすると、

「…ああそうだ」

水門先輩ははっと思い出したように彩の両肩に手を添えるものだから、彩も何事かと座り直す。

「私もそろそろ、部の卒業制作のモチーフを決めようと思うんだけど」

卒業、というワードに、彩の肩が僅かに下がってしまう。


…そっか。

せっかく仲良くなれたのに、もう半年もしないでお別れか。

それに高校卒業後はすぐにご結婚だろうし、…。


そう俯いてると、先輩も黙っていることに気が付く。

「…え、それで…決まりそうですか、モチーフは」

静寂に耐えかねて聞いてみるが、鏡の向こうの先輩の絹のガウンから覗く襟元が、少し赤みを帯びた気がしただけで、返事はないかに思えた沈黙のあと、


「あなた、どうかしら」

「…え」


「考えておきなさい」


そんなやり取りを残して、先輩は返事をさせる間もなく踵を返してすたすたと部屋を出ていってしまった。


「えっ?」




 夏休み明け初日にリムジンで登校という、なかなかない経験をして、彩はクラス中の皆から羨望の眼差しを集め、少し得意になっていた。

自分の席に着いて、制服が纏う乾きたての紅をくんくんと堪能していると、

「おはよう、彩」

「ゆうかぁ!おはよ!」

イタリアの夏に少し焼かれた小麦色のゆうかが、ぺこりと申し訳なさそうにして、机のそばに立っていた。

「掃除、任せちゃってごめんね。今さっき、水門先輩にこっぴどく怒られてきた」

「へぇえ。怒られちゃったんだ?」

「何で他人事なのさあ」

「そりゃだって、ねえ?あたしにはブツを用意してくれてる訳でしょ?」

「ブツ…って、あっはは。うん。早速今朝作ったよ」

「待ってましたぁ!じゃあお昼一緒ねー」

「ん!おっけ!そだ、文も食べるかなあ。お」


「待って」


文を呼ぼうとするゆうかの手を、彩は少し乱暴に遮ってしまう。そんな彩から、自分への乱暴の申し訳なさに混じる文への拒絶の様なものを感じ取って、ゆうかは黙って手を引っ込めた。

「じゃ、…お昼に」

「うん、…お昼に」

自分のクラスに俯きがちに戻っていくゆうかを見送ったその目で、文に視線を流す。

文は自分の机の上にノートや古びた本をいくつも広げて、ペンを回しながら、朝の教室の雑踏我関せずと、何かに頭を悩ませていた。


 

 それから、午前の授業を終え、お昼にゆうかお手製イタリアンのプチコースに舌鼓をうち、午後の授業を終えるという、豪邸で目覚めた朝とリムジン登校から始まる、いつもよりちょっとセレブな一日が、いつものように、何事もなく過ぎていった。

そして迎えた放課後。

彩はスマホの画面に映し出されるメッセージアプリ、水門先輩との空っぽのトークルームとにらめっこしていた。


卒業制作のモデルになる件。

さすがに、今日の部活前には返事しないとなあ。


「あたしなんかモチーフにしても、つまんないんじゃ、ない、です、か。…ううん。別に先輩の審美眼を疑いたい訳じゃ」

打ち込んだテキストデータをバックスペースで消していく。

「なんで、あたしなんか」


窓から吹き込んだ温風が、じっとりと、頬を舐めた。

嫌気がさして顔を向けると、外のグラウンドでは、運動部の部員達が活動準備を着々と進めている。


「はぁあ」


そうため息を軽く溢した時だった。


「彩」


振り返ると、文が真面目な顔で立っていた。

「…どした?」

「ちょっと、…聞きたいことが、あるんだけど」

そう言って、がやがやと湧く放課後の教室に戸惑うように見回している。

「…どっか静かな場所、行こっか?」

彩の提案に、文は少し笑って、うん、と返す。

脇に抱えた何かの資料をまとめたファイル、文はその縁をきゅっと握った。



 彩は俯く文を連れて、屋上に向かう。道すがら水門先輩に、『今日の部活、休みます』とだけ伝えると、既読はすぐに付く。そして一分ほどの沈黙のあと、『わかったわ』とだけ返信があった。

屋上のドアを開けて、文がふらっと右側のフェンスの辺りに行こうとしたから、

「あっちのベンチにしない?」

「え、でも日向じゃん」

「んー、何となく。あっちがいいな」

左側のさんさんと日が照りつけるベンチを指差す。

一歩もフェンスの方へ歩き出そうとしない、彩の頑なな態度に折れたらしく、

「…、わかった」

と言って、しぶしぶ文もベンチの方へ歩きだした。

ぎぎいと二人分の軋みが、亜麻色の日だまりに響く。


「…」


じっと視線を向けた陽炎の先、グラウンドでは野球部がピッチングマシーンを使ったノックを始めたらしい。お調子者の外野手の一人が、うええいと一際大きな声を上げる。

「…で、聞きたいこと、って?」

黙り込む文に、彩は促すように問いかける。

すると、文は神妙な面持ちを凛とすまして、ようやく決心したように、脇に抱えていたファイルを膝の上に置く。

タイトルは…『七不思議調査資料』。



「彩…カンナ君のこと、何か覚えてる?」



文の口から聞くことになるとは予想もしていなかった名前に、彩は一瞬、言葉を失う。

「カンナ…くん。うん。覚えてるも何も、同じ美術部だもん。よく知ってるよ。不登校になっちゃった、幽霊部員の男の子」

その返事に文は、そっか、あたりまえよね、と、少しだけ表情を崩すが、その瞳の奥の何かまでは、まだ読み取れない。

文の首筋を一つ、玉のような汗が伝う。

「え…聞きたいことって、カンナくんのこと?」

「うん。そうなの」

そう言って文はファイルを開くと、何ページ目かで捲るその手を止めた。

「この間さ。新聞部の企画で、今オカルト調査してるって言ったじゃない?」

「うん」

「そしたら、オカ研と科学部への取材で、興味深い証言が取れたの」


オカルト研究会と、科学部?

まるで水と油じゃない。それが、美術部のカンナくんとどう繋がるの…?


「カンナ君は六月末から不登校になったと、出席票の記録に残ってるんだけど、どうやらその二週間ほど前から毎日欠かさず、オカ研と科学部に入り浸っては、それはもう、美術以上に熱心に討論を重ねたらしいわ」

「ま、待って、文」

「な、何」

「それで、あたしに、聞きたいこと、って…?」


何でかはわからない、彩の心臓がばくばくと高鳴り始めた。


「…彩に、聞きたいのは、六月下旬、…いいや、六月のカンナ君の振る舞い、ね」


「ねえ」


「何…?」


「ゆうか、には、聞いたの」


「…」


「ねえ」

「…ッまだ」

「ねえねえ」

「ま、だよ」

「ねえ文」



「彩ッ」



彩ははっとして、文の胸ぐらに掴みかかっている自分に、気が付いた。

「離、して」

涙を滲ます文から、さっと身を引く。

「ご、ごめんっ。なんだろ変だな」

さんさんと照りつける真夏の日差しのなかで、彩はガタガタと震えている。

「…続けても、いい?それとも少し、休む?」

自分も怖い思いをしたと言うのに、文は気丈に振る舞っている。

「…大丈夫。続けよ」

彩は俯きながらも、強くそう言った。

「わかった。続けるわね」

文はふう、と呼吸を整えると、

「カンナ君の振る舞いについて聞きたいのは、実は、そんな重要じゃないの。本当はもっと、…」

文の視線を感じて、彩は思わずセピアに染まった右手を隠す。

「彩にも関わる事かも、しれない、の」

そう震える声色で、一枚の紙切れをファイルから抜き出す。


「調査を進めていくとね、カンナ君、…ほんとは、ただの不登校なんかじゃない、って事がわかってさ」


彩は唾を飲む。


「他の新聞部の皆は、怖くなっちゃったみたいで、取材途中で、投げちゃって」


「皆で突き止めたのは…学校が隠蔽した、カンナ君の」



「…『失踪』、だったの」



「…う、そ」



彩は絶句した。


そして、


文が、震えながら、


差し出してきた、紙切れ、



「これ、カンナ君が」


「…失踪前に、自室に遺した、直筆の、手紙」


「ご家族から、…あなたに、…って」








  彩 チャ   ン  へ






思わず彩はえずいてしまうが、口元を手で覆い、喉のわずかな酸味に耐える。


セピアの絵具で(したた)められた、

失踪した、カンナくんの、置き手紙。


「何で…、あたし宛、なの」


その答えに、文は、

彩の震え続ける右腕、

上腕の半分ほどを染め上げたセピアのシミに、

手を添えた。


「彩…お願い」

「ほんとのほんとに、今回だけでもいい」



「一人で、抱え込まないで」



その直後に聞こえた当たりのいい金属音と、



おいバカやろおお



背後、野球部の誰かが叫んだらしい、罵声のあとに、


ガッシャアアン

ッパリィィン


古びたフェンスの金網を突き抜けていくような豪速球が、屋上のドアの窓ガラスをぶち破った。

怯えて振り返る文に、知っていたと目を瞑る彩。


フェンスの穴は、文が立とうと思っていた貯水タンクの日陰の辺りだったらしい。

ちょうど、彩の身長の、頭辺りの位置に。

ぽっかりと、大口を開いていた。


「…彩ぁ」


目を開けると、恐怖に染まる文の目と合う。


「…全部話すね。…文」


さんさんと照りつけていたはずの太陽は、いつの間にか、どんよりと重たい雲の向こうに隠れていた。




  彩 チャ   ン  へ



ス イサイ ヨリ カン アリ テ、


 スイ サイ ヲモッ テ カン シ、


スイサ イ ヲ カン  ト ス。



  モウス グ、  イッシ ョク


イッ ショ ダ    ネ



「――ふ、うぅ―、…」


 手紙を読み終えた彩は、思わず膝を抱えて、震える肩を抑え込もうと、ぎゅっと、力一杯抱き締めた。

震える吐息が、彩の家のリビングに、よく響いた。

「大丈夫…?彩」

スケッチブックから顔を上げた文が肩に手を添えてくれ、彩も向き直って精一杯の笑みで応えて見せるが、向かいに腰を下ろす文自身も、恐怖に震えているようだった。


「…カンナ君は」


文は震えながらも七不思議調査資料のファイルを開いて、ページを捲りながら続ける。

「カンナ君はとりわけ、黒魔術と、生化学に動物行動学、…それに都市工学の分野に、熱心に取り組んでたみたい」

ページを捲る手が止まる。

「失踪数日前は、彼なりに『論文』をまとめて、学者の真似事に興じてた、…って、カンナ君のお母様が」

ファイルからエー四サイズの茶封筒を引っ張り出して、文は手渡してきた。

「まあ、何を言ってるのか、わたしにゃサッパリ。所詮真似事。…いいえ、それにも満たない、論の無い論文だった」

彩は受け取ったずっしりとした茶封筒を恐る恐る開けて、一枚目の紙を引っ張り出して見た。

「高精度、分子トラッカーによる…都市、機能制御改善、と、真社会性、獲得?…何なのさ、これ」

「言ったでしょ?…論の無い論文、って」

彩と文は、同時にため息を溢した。

「とにかく、『コレ』が今、私達の目の前に、存在している以上」

文は彩の鼻先に銀色の絵具チューブ、カーペットのクリーム色を照り返す『スイサイ』を突き出して、続ける。

「カンナ君は『コレ』を作ったのか、自然界から探し出したのか、オカルト的に呼び出したのか、わかんないけど、…とにかく、何らかの目的を果たして、美術部の部室にコレ置いて、失踪したってわけ」

「カンナくん、何が、したかったのかな」

彩は茶封筒から論文の紙束を引っ張り出して、読み込もうとするが、

「…っう」

染み付いたスイサイの悪臭と、何より彩の知っている筆跡とは程遠く乱れた彼の筆使いに、思わずばさりと手離してしまう。

「まあどのみち彼の目的や動機は…全部が全部、そのセピアの向こう側よ」

そう呟いて、文はもう氷も溶けきって温くなったアイスコーヒーのコップに、口をつける。その苦味のせいか、ふいに、

「そういえば」

一口舐めた程度のアイスコーヒーのコップを盆に戻すと、

「手紙と論文を受け取ったとき、カンナ君のお母様、…彩に、会いたがってた」

「あたし、に?」

文は言っちゃった、という後悔の色を浮かべながらも、こくり、と頷く。

時計の秒針の音が、鮮明に響く。

時刻は、十五時五十分。


「…行こう」


彩の提案に、文は驚いたようにはっとする。

「今から!?」

「うん。場所、わかるんだよね?」

「取材、行ったしねえ。でも、…ううん」

何か嫌なことでもあったかのような、もう二度と行きたくもないと言いたげな渋りを文は滲ます。

「二人だとぉ、なあ…」

「心細い?」

そう言いながら、彩はスマホのメッセージアプリで誰かに短い文章を送っている。

「って彩?」

「ん?」

「誰にメッセ飛ばしてんの」



『今、ひま?』

『おう。ひまひまヒマラヤ山脈』

『うち来れる?』



「カニ捕まえた」


『おっけ?すぐ行く』




ピーンポ―――ン…


 カンナの家は、彩達の家からそう遠くない、静かな住宅街の褪せた鉄色の中に、ひっそりと佇んでいた。玄関に立つ少し前には、住宅街一帯に小学校帰りの子供たちの声がきゃっきゃと響いていた気がしたが、

「ここいら、静かでいい場所じゃん?」

と力二のささやかなぼやきが僅かに反響するくらいには、今は静まり返っている。

文が、こいつほんと、と頭を抱えてため息を溢すと、


ガチャ…


足音は聞こえてこなかった気がする。

ふいに玄関の扉が開くと、

「どちら、様でしょ」

深い隈ができた怯えた表情の、ひどく腰の曲がった女性が、二十センチばかりのドアの隙間から顔を覗かせた。

「…先日はお世話になりました。M西高の新聞部の者です」

「っあぁあ、この間の、ね。また来てくれたのぉ」

文の挨拶に、女性はにちゃりと黄ばんだ歯を見せるように頬を吊り上げた。


カンナくんの、お母さん…?


三ヶ月前くらいだろうか、スーパーに買い物に行ったときに彩も会ったことがあるが、その時のすらっとした綺麗な立ち姿からかけ離れた彼女の豹変ぶりに、彩は思わず顔を伏せてしまう。

それが、会釈と取られたのだろう。

「あらぁあ、彩ちゃん??」

反射的に、はいっ、と答えて顔を上げた。

「…来てくれたのお。あの子も、…きっと」

ぐふっぐふっ、と喉に水を詰まらせたような音を響かせながら、彩の右手を愛おしそうに見つめている。

「さ、ここで立ち話もなんだし、お上がりなさい?」

カンナの母は、ほとんど骨と皮だけのげっそりと痩せ細った手で、ドアをぎぎいい、と全開にした。

「…っ」

瞬間、スイサイのあの臭いが、三人を包む。


「お、お邪魔、します、ぜ」


そんな中、最初に一歩ぎこちなくも踏み出したのは、ボディーガードとして呼んだ力二だ。

にたにた笑うカンナの母の前を横切って、玄関に踏み込み、靴を脱ぎ揃え廊下の奥の鉄色の中に消えていく。彩と文もお互い見合って、覚悟を決めて玄関に上がるのだった。


静まり返った住宅街に、ばたん、と、ドアの閉まる音が響いた。


通されたリビングは暗く、クモの巣の張ったシャンデリアに明かりはない。そもそも、電気の通っている気配を、家から何一つとして感じられない。

カチャ…

ソファにぎちぎちに腰掛けていた三人の目の前のローテーブルに、盆に乗った、汚れた湯呑みが三つ置かれた。

そして、カンナの母によって急須から注がれる、セピアに濁る液体で、それぞれ順番に満たされていく。

「どうぞ、ごゆっくり」

湯呑みを満たし終えたカンナの母は、にちゃりと笑いながら、ローテーブルを挟んで向かい側の椅子に腰掛けた。

リビングの大窓の外は、相変わらず褪せた静寂を貫いている。

時計も、冷蔵庫も、あらゆる家電の駆動音の無いその静寂に、誰かが唾を飲んだ。

と、直後、

「これえ、なに茶です?」

ソファの真ん中に詰め込んだ力二が、はにかみながら沈黙を破るが、両サイドからのほぼ同時の肘鉄で再び黙り込む。そして咳払いを挟んで、

「先日は、貴重な資料をお譲り頂き、ありがとうございました」

文がファイルを掲げながらお辞儀するが、カンナの母は黄色くねばつく笑みを絶やすことなく、視線はじっと、彩に向けている。

その視線さえ粘度を持っているように、彩の全身を、そしてセピアの右腕を、交互に見回しては、ねちょりと笑みを溢した。

「本日はそのお礼と、…カンナ君の友達二人が、どうしても挨拶がしたい、と、言うことだったので」

文は構わず挨拶を済ませて、右隣の二人をそれぞれ見る。

「ほら二人も、挨拶、を」

文の催促も、力二のコンニチワっ、も聞き終える間もなく、

「そう」

と、カンナの母が嬉しそうに立ち上がり、

「…ッ」

まっすぐ彩の右側にしゃがみ込む。


そして、膝の上で、小さく震える、彩の右手を、

「うれっしいわぁあ」

もぞもぞと、触る。


笑い声と言っていいのかもわからない、

ぐふっぐふっ、という音を漏らしながら、

もぞもぞと、

もぞもぞと、彩の右手を、

上腕を、二の腕を、肩を、首筋を、

ゆっくりと、じっとりと、触っていく。

「うれしい、うれしいわああやちゃん」

そう、頬を舐めていくカンナの母の、吐息は、

濃縮された、スイサイの悪臭、そのものだった。



「ああ、あのッ」



ふいに、力二がガバッと立ち上がる。

「か、カンナの、部屋。カンナの部屋に、行きたい、です」


「…前、え、絵の!絵のコレクションを見せてもらう、って、約束してて。へへ、へ」


永遠とも言える静寂。



―ポツ――ポツポツ―――



リビングの大窓、その鉛色の明かりを、雨粒が奏で始めた。

そしてその雨音に混じるようにぐふっぐふっと笑みが響き、

「ふふ、ぐふっぐふ、…ええ、いいわよおっ。二階に行きましょうかあ、んふ、ぐふぐふっ」

雨音に踊り出すような足取りで、カンナの母はリビングの戸口に立つと、こっちよ、と、彩に向けて、手招きする。

「えっへへ、あざっす」

と言って力二は二人の間に割って入り、

「彩、行こ?」

文も優しい声色ですり寄って、震える彩の手を握る。

まばらに立ち上がった三人の足音が、濃い鉄色の階段を重苦しく登っていった。


「ここ、カンナの部屋」

カンナの母は二階の廊下の真ん中辺りのドアをぎいと開けて、三人を中に押し込むような視線で招き入れると、


「ごゆっくり」


と言って、ドアは閉めずに、ぐふぐふと笑みを溢しながら、一人、階下に消えていった。

「ナイス、カニ」

そう言って文は、深く息を吐いて脱力する力二にウィンクして、肩を抱く彩をそっとカーペットに座らせる。

「前の取材の時は、新聞部のみんな『リビング』でびびっちゃってさ。…ま、わたしもなんだけど」

あのリビングでびびらない人間は居るのだろうか、と彩は肩を落とす。

「とにかく。カンナ君の自室に潜入できたのは一歩前進ね。…彩、動けそう?」

「あ、あんま、無茶ぁさせんなよっ?」

心配そうに慌てふためく力二が珍しく、彩はふふっと笑みを溢し、続けて、ふう、と、呼吸を整える。

「ここまで来たんだ、あたしもとことん、調べるよ」

「さっすがあ」

二人は見合って笑い合うものの、相変わらず震えは止まらないせいで、笑みはそのままため息のようになって、雨音に溶けた。

しかしその湿気た静寂もつかの間、


「よっしゃあッ」


力二も空元気を振り絞ったらしい。

震えた喝と共にカーテンをシャッと明け、濃い鉄色の暗がりだった部屋に、鉛色の明かりを差し込ませた。

「なんか知らんけど、俺も手伝うぜ。何すりゃいい?」


それから三人、手分けして、六畳の部屋の各々の担当場所を物色していく。

「めぼしい本は無さそうだぜ」

力二はため息で舞い上がった埃でけほけほ言いながら、ベッドの下から這い出てきた。

「そんな場所に、本なんてあるわ、け…ッ」

何かを察した文は本棚から一歩下がり、ベッドの縁から覗く力二の尻を無言で蹴り付ける。そしてこほん、と咳払いをして再び手にした付箋まみれの『種の起源』に視線を落とす。

「…どうやらカンナ君、ダーウィンを心から尊敬し」

パラリ、とページのめくれる音がよく響く。

「――心から憎んでも、いたみたい」

雨足が強まってきたらしい。窓を打つ雨水が滝を成している。

「…つまり、どゆこと?」

完全にベッドから這い出てきた力二はカーペットに胡座をかいて、尻をさすりながら首を傾げている。

「人間、そんなもんじゃない?好きになればなるほど、嫌いにもなっていく、アレよアレ」

そうかあ?と眉をしかめ天井を仰ぐ力二に、文はやれやれと肩をすくめ、

「神がまだ重要視されていた時代、その大きな時代の流れのなかで『種の起源』を出版し、現代生物学…とりわけ、カンナ君がお熱だった行動学にも大きな影響を与えた。…人類に与えながら、閉じ込めもした。そんなダーウィンへの、愛と怒りを感じたな」

そう言って文は文庫本を本棚に戻しながら、

「そっちはどう?彩」

勉強机を物色する彩の背中に声をかけるが、

「うーん、特にめぼしいものは無いかな」

と、焦りの混じる返事だけが返ってきて、だめかあと肩を落とす。

その時だった。


「うげっ」


文の長話に飽きて再びベッドの下に潜り込んでいた力二が、嗚咽混じりの悲鳴をあげる。

文は本棚に背中を預け腕を組み、

「何よカニ。ステキなコレクションでも見つけたの?」

慌てて何か薄い本の束を抱えながら這い出てくる力二を、汚物を見下す目で出迎える。

「ああ、やっべえの見つけた」

そう言って、ガサッと十数冊のスケッチブックをカーペットに投げ置いて、スマホのライトをかざす。

「っばか!ハレンチっ見るわけ無いでしょッ!?」

文はすかさず両手で顔を覆うが、



「何…コレ」



彩の消え入りそうな声に、はっと顔を上げ、

「力二あんたねえ、彩に、なん、て…もの、を」

二人が深刻そうに見つめる、セピアの水彩画。

その、ありえないほど精細で、気味の悪い筆捌きに、目が点になる。


「これ」


彩は膝を落として、両手をついて、


「全部」


スケッチブックを、食い入るように見下して、




「っあたしの…、絵…?」




彩はその事実から目を背けるようにして、カーペットの脇にうずくまりながら、嘔吐した。

「す、すまねえ彩ぁあ、す、すぐに片付け」

力二はスマホのライトを慌てて消して、スケッチブックをガサガサと片付けようとするが、

「待ってッ」

文はそれを止めて、セピアが描き出す全ての、あるがままの『彩』を一つ一つ確認していく。


通学路を一人寂しそうに歩く彩。

教室で机に伏せてだるそうな彩。

体育前に着替える彩。

廊下で人と駄弁る彩。

トイレに…お風呂に…、ベッドに…、気持ち悪い。


全部が全部、彩の生活を、

気味が悪いほど正確に、写実的(リアル)に、

そのセピアは生き生きと描き出している。


「ねえ、彩」

「なあに…」

「スイサイは、『死の報せ』…なんじゃ」



「もうッ、わっかんないよォオッ」



ドスン、と彩が床板を殴り、その音が虚しく家中にこだまする。


やっちまったすまん、すまん、彩、とぽつり呟きながら、力二は頭を抱え込む。


文も、ただただ、絶句し、床板の冷たさにうずくまるようにして、涙をその鈍色に落としていく。


彩に『死の報せ』を、カンナ君には、『彩の生活』を…

スイサイは、一体、何を、魅せるの…


文が挫けそうになったときだった。



「いやぁぁあああああッ」



耳をつんざくほどの、

「彩ッ」

彩の悲鳴と、駆け出す力二の短い叫び。

視線を上げた先、彩がうずくまる側で、


「アヤチャンアヤチャンアァアヤアアチャァァアンッ」


足音も気配さえもなかった。

にもかかわらず、

半狂乱に陥って白目をひんむいたカンナの母が、


「スイサイノカンハァアアチカイィィィィイイイイイ」


彩を食いつくそうとでも言わんばかりの勢いで這い寄り掴み掛かろうとしていて、

「やめろッ、こんのッ」

それを阻止せんと力二が後ろから全身を使って羽交い締めにしていた。


「文ァ!!」


力二の叫びに、文ははっとして



「ここは俺に任せろッ!彩を連れて逃げるんだッ!!」


「わかったッ」


「えッ、…ぉお、おし行けッ!はやく行けッ!」



もはや骨と皮だけのようなその四肢の、どこにそんな力があるのだろうか。

現役男子高校生、ボクシング部の期待のダークホースの腕力をもってしても、その場に押さえ込むのがやっとといった有り様だ。

少しでも力二が力を緩めでもしたら、カンナの母の黄ばんだその歯が、その爪が、彩の柔らかな薄桃の肉を、一瞬でズタズタにしてしまいそうだ。


「走れェ、あやあやぁああッ!!」

「ごめんッ、…カニッ」


カンナの母をなんとか抑える力二。

怯える彩の手を取って、文は駆け出す。


「うおぉぉぉおおおおああああああああッ」


すっ転ぶように駆け出した後方のカンナの部屋から、力二の叫びと、カンナの母の呪詛のような叫びの不協和音が聞こえてくる。その音が想像させるおぞましい光景が、振り返ることを本能が拒否する。

しかし文は階段を駆け下りようとした瞬間、

「…ッそうだ!」

何を思ったかバッグの中からシトラスの制汗スプレーを取り出して、

弱音吐く本能を踏み潰すように踵を返し、

カンナの部屋に舞い戻り、


「カニを離せよぉおッ!」

「ッんギィィィイイイイ」

しゅーーーっと、

スプレーを発狂するカンナの母の目と

「いたいたいたいたいッ」

事故ではあったがちょっと溢れて力二にも噴射する。



「ほらあ走れカニッ」

「お、ぉぉおうッ悪ぃッ」



そして目元を真っ赤に腫らした力二の手を取り、

文の瞬時の機転をもってして、無事三人、

雨降りしきる住宅街に躍り出た。


「ずらかるぞッ」


『彩』のスケッチブックを一冊だけ手にした力二の一声に、彩と文は頷いて、そのあまりにも静かな住宅街から弾け飛ぶよう、海松(みる)色の大雨の中、三人は再び走り出すのだった。




 カンナの部屋で見つけたスケッチブック一冊をあや達に手渡して、力二は、んじゃ、と言って自分の家にさっさと帰っていった。

文は、電車が雨で止まっているのと、何より憔悴しきった彩が心配で、今晩は彩の家に泊まることにした。


彩はシャッと、リビングの雨にまみれる大窓のカーテンを閉める。

そして、スマホの画面、父からのメッセージに、

『電車が止まっちゃって、今夜帰れそうにないや』

『家事、頼んだよ』

そのテキストに、そしていつもより控えめな絵文字に寂しさを覚え、ため息を溢した。

と、そこに、

「お風呂ありがとっ」

タオルで髪を拭いながら、文が風呂から戻ってきた。

「雨、明日も酷いみたい。お父さんの電車も止まっちゃったみたいでさ」

「ええッ。じゃあ、今夜」

文はタオルを拭う手を止める。

「ん…帰ってこないって」

泊まって正解だったか。

孤独からか唇を噛む彩に、そんな事を思いながらも、

「明日、学校も休みかねっ」

「…だねえ」

と、気を紛らわす話題を探ってみたものの、


『…』


ただザアザアと降りしきる豪雨の音だけが、暖かいイエローの照明の灯るダイニングに響いた。


彩は手持ちぶさたに、ぼんやりとメッセージアプリのトーク履歴を、開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。

特に意味の無い行動に飽きて、


文も、力二までも、巻き込んじゃったな…


ふとダイニングの食卓に突っ伏しながら、リビングの白色の下の、文に視線を向ける。

新聞部の七不思議調査資料を読み耽っているらしく、彩の視線に気付くことはなかった。

「あ」

そんな文にも聞こえないような声で、彩は声を漏らした。


力二に、今日のお礼言っとこ。


手にしたスマホが映すメッセージアプリ、その中からカニのアイコンを探しだしてなんの気無しにタップして、


『おっけ?すぐ行く』


…ほんとにすぐ来たよな。

と、彼の最後のメッセージに感心する。


『うち来れる?』

『おう。ひまひまヒマラヤ山脈』

『今、ひま?』


「っふふ」

何だよ、ひまひまヒマラヤって。

…じわじわ来た。

そう少し笑って、


『わかったら、また教えて』

『そっか』

『わかんない』


直前のメッセージに、手を止めた。

なんだっけ、これ。




『来週土曜日、暇か?』




「…どようび、土曜日。…ああもう今週のか、…土曜…日…」


直後、見上げた照明のイエローの鮮やかさに、水門先輩との朝を思い出して、

「…ッ」


「…っはぁあッ!?」



『バーカ!バカカニ!!!!』



そのメッセージ送信と共に彩は顔を真っ赤にして立ち上がる。

「な、何何、どうしたの彩」

聞くも無意味。

スマホを抱き締め顔を茹でダコのようにした彩が駆け寄ってきて、うわああんと文の膝元にスライディングで滑り込んだ。

ただならぬ気配ではあったが、気味の悪いものでもないと察した文は、張り詰めていた空気が一気に弾けたように、どっと吹き出した。


「っなはは、どしたの彩?」

「カニがね?バカなのッ!」

「…」


「…いつものことじゃね?」


「…確かに?」


そうして見つめ合って、またどっと弾けた大笑いがリビングを包んだ。


こんなに笑ったの、いつ以来かな。


ダイニングのイエローが、心の底から心地良い。

霞む視界で時計を見ると、思った通り二十二時。


「文ぁ眠い」

「あースイサイのせいか」

「ここで寝ていい?」


文の膝の上で甘えてみる。

「いいよ。…電気消してくるから、ちょっと待ってて」

そう言って文は優しく彩をカーペットに寝かせて、リビングの明かりを消して、ダイニングのイエローを絞って、常夜灯代わりにした。


それからクッションとブランケットを拾い上げて、微睡む彩の背中にピタッと沿うようにして、クッションを二人の枕に、ブランケットを掛け布団にして、


「おやすみ、彩」

「おやすみ、文あ。…くすぐり禁止ねえ」

「ふふ。おっけ」

「ふへえ」



「―――それ以外は?」



「うぅん…ふにゃ…」

すうすうと寝息をたて始めた彩に微笑んで、後ろからきゅっと抱き締める。メガネをローテーブルに置き、彩のしっとりとした後ろ髪の紅の残り香に嫉妬するよう、文もまた眠りについた。


カニ

『えっ??』


彩の抱くスマホに通知一つ。

が、それも三十秒後に、機械的にスリープに入ったのだった。













何か、



何か大きな、




大きな音がする。





大きな音が、呼んでいる気がする。






目を覚ますと、リビングで寝ていた。

ああ、そっか。文と一緒に寝たんだった。

腕のしびれが何とも心地良い。

黄緑色の残り香に、頬が綻ぶ。


彩は上体を起こして辺りを見回すと、濃いグレーの、薄暗くて仄明るいリビングに一人、乱れたブランケットのただ中にへたり込んでいた。

ふと、音量は小さいが、テレビがついていることに気がつく。


…文がつけたのかな。


画面には――


「きんきゅう…ええと、どしゃさいがい、ちゅういほ、う?」


彩が画面の黄色を読み終えた瞬間だった。



ッチャランッチャランッ、…

  ッチャランッチャランッ、…



スマホからけたたましい警告音が響き渡る。

「ッんな、何」


『緊急速報です。緊急速報です。』

『M市、みぎわ川沿岸地域にお住まいの方々に、土砂災害発生を想定した、警戒レベル、スリー、高齢者等避難指示が――』


「土砂災、害…避難ってッ」

スマホが読み上げた機械音声、その冷たさに跳ね起き、

「文ッ!文ぁああッ!」

姿の見えない文を探して、彩は駆け出す。


「…文ッ」


文は、すぐに、見つかった。



開け放たれた、彩の、自室。



勉強机を、見下ろすように、



呆然と濃いグレーに佇んで、



「彩ぁ…」



涙で顔を歪ませるように、こちらを振り向いた。



ひた


ひた

ひた



ひた…


定まらない歩幅で、彩は、文のそばに駆け寄って、

「…ッ」

彼女の、涙の訳を知る。




スイサイはただ、セピアの水面を描くのみだった。




豪雨が窓ガラスに滝をなす音も、

スマホの自動音声の読み上げも、


止む気配は、ない。



町は今日、水際(みぎわ)川に、沈むんだ。




水 際


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