マゼンタ
水 彩
夕空。
暗いリビングの窓の向こうの、地平線を染める鮮やかなマゼンタに、彩は震える吐息を一つ溢す。そうして、抱えた膝に頬を埋めて、また一人カーペットにうずくまって震えた。
「ただいまあ、っと。…っあれ彩のローファ」
ガチャンという玄関の開く音と、間の抜けた愛しい声が聞こえてきて、
「…ッ」
彩は思わず立ち上がりリビングのカーペットを蹴り乱すようにして駆け出すと、
「おお彩、今日早かっ」
玄関で靴を脱ぐ父の胸に飛び込んだ。
「なんだなんだ、どうしたんだよお」
父は嗚咽を溢しながら震える彩と、彼女が飛び出してきた明かりの付いていない暗いリビングを、戸惑いながら見比べた。
「ガム噛む?」
父は彩が物心ついたときから、爽やかなミントの香りだった。
母が彩を身籠る少し前に、禁煙をしたらしい。
明るいダイニング、いつも通り向かい合って腰かけた二人。
父が差し出す鮮やかなグリーンを、
「ん」
彩は一つ手に取って、その柔らかさに甘噛みした。
その様子を見届けた父も満足そうに笑って、ガムを一つ口に含んだ。
「最近なんとなく辛そうだったから。心配だったんだよ」
「…ん」
余計な心配を、かけさせたくなかったのに。
自分のふがいなさに、彩はまた頬を濡らす。
「実は今日、ママに会いに行って相談したんだ。そしたらママも彩の事気付いてて。父親の務めを果たしなさい、つって、俺こっぴどく怒られちゃったよ、へへへ」
父は申し訳なさ気にこめかみをぽりぽり掻きながら、はにかむ。また自分が嫌になって、彩は嗚咽を溢しながら泣きじゃくった。
「あー、えっと。…彩?」
「んなあにぃッ?」
「パパに言い辛い事なら、無理に相談しなくて良いからな?」
「ッううん」
「パパは、いつまでも彩の味方だ。それだけは、覚えといてな」
うん、か、んええ、か何と言っているかはわからないが、彩は何度も頷いているから、とりあえず気持ちは伝わったらしい。
テーブルの上で拝むように組んで握りしめられた彩の両手に、父はそっと手を添え、しばらく優しくさすってあげた。
そうして、ひとしきり彩は泣くと落ち着いたようで、
「彩」
呼び掛けにゆっくり顔を上げると、
「見てろよお」
父はガムを風船のように、大きく大きく膨らませて、
っぽん
と爆ぜさせ、顔下半分を薄緑の膜で覆って見せる。
「…っへへ、何してんの」
そうして笑みをこぼした彩も負けじと風船に挑戦するが、
ぽすん
と情けない音を立てて薄桃色の唇の周りを薄緑の膜で覆わせる。そうしてお互い見合った薄緑の怪人二人の間に、大笑いが爆ぜた。
「パパ、今日は彩のご飯が食べたいなあ」
「あたし、チャーハンの気分だったけど」
「じゃあ、二人で作るかあっ」
「写真撮ってお母さんに送ろ」
「…ふう、…」
風呂を済ませたにも関わらず収まらない寒気に、彩は肩を震わせる。自室のベッドに膝を抱え込むよう腰掛けて、掛け布団を肩に羽織る。ドアの向こうのリビングから、遠慮がちな音量の、父のお気に入りのボサノバ・プレイリストが聞こえてきた。いつも曲名を聞いても『アレクスにおまかせしてるからわかんないや』と、得意気にスマホを掲げられるだけだったから、結局今日まで一曲も名前を知らない。
ふと、部屋の隅で、乱雑に放置されているスケッチブックを見つめる。
「『スイサイ』…何なんだろ」
そうだ、と彩は思い立って、掛け布団を肩に羽織ったままとぼとぼと勉強机に向かい、充電を終えたスマホを手にとって、またとぼとぼとベッドに戻り、ミノムシ状態で寝転がる。
そしてスマホの検索アプリを起動して、『スイサイ 絵具』と検索をかけるが、『もしかして:水彩絵具』と返されて、知りたい情報は何一つ得られなかった。他にも『絵具 怖い』とか、『絵具 怪談』とか、『セピア 意味』などなど、思い付く限り調べてみても、これだ、という情報は手に入らない。
だめか、と呟いてホーム画面に戻ると、
「うはあ」
一日分のメッセージ通知が膨大に溜まっていることに気が付いて、変な声を上げてしまった。
みんなが綴るとりとめのない日常に暖まりながら、メッセージを既読にし、時に返信を返したりしていく。すると、
『来週土曜日、暇か?』
力二から朝の七時頃にメッセージが届いていた。
「ん。登校中、聞いてくれればよかったのに」
そうぼやきながら、
『わかんない』
すぐに返せる言葉はこれくらいだったから、即返信を済ませると、
『そっか』
『わかったら、また教えて』
と、力二からも即返信が帰ってきた。
「あいつ暇なのか」
またぼやきながら次のメッセージを開くと、
「んわぁ。美味しそう」
ゆうかが送ってくれてたらしい、本格的な海鮮パスタの盛り付けに思わず見惚れた。
「…よし。大丈夫」
『めっちゃ美味しそうじゃん。今度、作ってよー』
そっと送信ボタンをタップする。
実に、百八通ぶりの返信だった。
送られてきていたおよそ九十以上に及ぶイタリア旅行の写真を見返すと、その八割がご飯の写真。
ゆうかはご飯を食べるのも、作るのも好きな子だったな。
部活の時も、時々彼女の手作り弁当を一口貰っていたことを、その美味しさに笑い合ったことを、写真に写るご飯と、ゆうか達一家の笑顔のお陰で、芋づる式に思い出した。
そっか。
少しでも辛くないよう、笑わせようと、してくれてたんだ。
『うん、いいよ!いっぱい勉強したから、彩に一番に食べて欲しい!』
新しい通知に、
「ごめんね、ゆうか…っ」
自分の独りよがりで最低な振る舞いに、彼女なりの思いやりに、つい声が漏れた。
『やった!楽しみにしてるねっ!』
返信を済ませたそのままの手で、スマホの画面を閉じる。そうして布団にぎゅっとくるまってすぐ、すっ、と眠りに落ちてしまった。
「っは」
うつぶせから跳ね起きると、付けっぱなしの部屋のライトに負けじと窓から日が差し込んでいて、微かに聞こえてくる鳥の囀りに困惑した。昨日と全く同じ目覚めにしばらく体が凍りついたようで、冷や汗が背中をつうと伝っていった。
彩は震える吐息を溢しながら、ベッドの縁に腰掛けて、悪寒は、正しかった、と悟る。
部屋に満ちる腐敗臭と、
「…ッ」
その、視線の先、
勉強机の上のセピアの光景に絶句し、
「…っう」
「ッうぉおぇえええ」
足元のゴミ箱を拾い上げ胃の中身を全て吐き戻した。
「何っで…」
「…っどう、して」
「そこに、ある、っの」
ぐちゃぐちゃに混ざった原形の無い生ゴミ一掴み分と、朝日の黄金を照り返す銀色の絵具チューブ。
脇に乱雑に置かれたパレットと筆洗は昨日より汚れていて、
「…もおなんでよぉッ」
その真ん中で開かれたスケッチブック、彩が嘆きと共に視線をそらしたセピアのシミには、新しい『何か』が描きこまれていた。
涙を拭おうと右手を頬に擦り付けると、
べちゃりという不快な生ぬるい水気を感じ、恐る恐る視線を落とすと、
「いやぁあああッ」
セピアの絵具と、腐った生ゴミが、両手の、指の、爪の間にべっとりと、纏わりついていた。
すぐに駆け出し、パジャマを着たままバスタブに飛び込むと、震える手でがしゃがしゃとシャワーの蛇口を思い切り全開にする。
「ッはあぁ…ぁっふ、ぐぅ、ううう」
温い水の、それでも十分すぎる冷気に体が驚き、びくついた。
打ち付ける水圧もじんわりと熱くなり、浴室を、開け放たれたガラス戸の先の脱衣所を、さらにその奥、廊下の一部までをも、灰白色の湯気が緩やかに満たしていく。
「…っふ、…っふ、…んふ、…んふう、ふふ、うふふ」
彩は何故か笑いだした。
いや、笑うしか、正気を保てないんじゃないかという、彼女なりの防衛本能だったのかもしれない。
生ゴミのへばりつくその両手で頭を抱えながら、クスクスと笑い続けた。
腰の辺りまでお湯が満たされてきて、セピアに濁る水面に油膜と生ゴミのくずが漂う。
パジャマも、下着も、汚水に浸され嫌な臭気を纏う。
湯に透けた布地が、じっとりと、ぴったりと、身体の曲線に纏わりついて、まるで彩を浴槽に閉じ込めようとしているかのようだ。
「ふふ…あはっ…はは、は……ああぁ」
「…やんなる、なあ」
シャワーは一定の水圧で、バシャバシャと水面を打つ。
彩はそのリズムに飲まれて、壊れかけていた。
ばすっ
水気を絞ったパジャマと下着一式をゴミ箱に捨てる。
お気に入りのヒマワリ柄のパジャマだったが、仕方ないと、諦め混じりのため息と共にゴミ箱の蓋をそっと閉める。
二限の途中から遅れて講習を受ける旨を担任に伝えたから、一時間ほど落ち着く余裕が生まれ、どさっとリビングのソファに深く腰掛けて、しばらく天井を仰ぎ見た。そして、
「壊れちゃ、だめだ」
そう呟いて、深く一つ息を吸って、深く一つ息を吐いた。
視線を落とした、右手。
シャワーをしっかり浴びたのに、シャンプーでしっかり擦ったのに、セピアのシミは落ちることなく、どうやら昨日より大きくなっていた。
その事実に震え、また挫けそうになるが、
「負けちゃ、ダメなんだ」
決意を固めて、すっと立ち上がり、確かな足取りで自室に戻る。
勉強机の数歩手前で、一瞬一歩踏み出すのを躊躇する。それでも彩の決意は固く、勉強机の真ん中に置かれたスケッチブックを手に取った。
そして、そこに描き出された新たな場所の推理を初めて、
「…、あ。ここ、って」
すぐに思い当たった。
奇怪な形の小物が乱雑に押し込まれた、背の高い棚。
一番上の段にある、ギリシャ神話の彫刻を模した大きな石膏のレプリカ。
「美術部の、部室だ」
片付け途中で散らかる、見慣れたその光景に、しばし考え込む。
このセピアのスイサイは、あたしに何を見せている?
彩はぱらりと昨日のページをもう一度見返す。
昨日、あたしはこの階段で転び落ちそうになって、大ケガを、いいえ、最悪の場合…
頭から落ちそうになったあの角度を思い出し、肩を抱くようにすぼめ、
「…文、ほんとに、ありがとね」
震えながらぽつりと呟いた。
そうだ。
あたしはこの階段の踊り場が、最期の景色になるところだったんだ。
この『スイサイ』という怪異からの干渉は、昨日の一度きり。だからまだ正確な法則は解らないが、昨日自身が経験したことを踏まえれば、恐らくこのスイサイは使用した者の、一定期間の内で起こり得る死、その時に見る『最期の景色』を、無意識下で描かせるんじゃないだろうか。
経験が一つの仮説となって、可能性の考察を組み立てていく。
もしこの考えが正しいのなら、やるべき事は一つ。
「あたし、壊れないから。負けないから」
セピアに染まるスケッチブックを閉じて、スクールバッグに突っ込んで、
「ん」
手にしたスマホの昨晩の通知に気が付いて、笑みを溢す。
『最初はどれ食べたい?』
五十品目以上のイタリア料理の写真を見比べて、
『ゆうかがいっちばん、美味しいと思ったヤツ』
そう返信してスマホをバッグにしまって、食卓上の昨日の残り物、彩と父の合作スペシャル、麻婆茄子チャーハンを掻き込んだ。
添えられたメモには、『いってらっしゃい!負けるな彩!』の一文が。
「絶っ対。負けないんだから」
負けない、負けられない。
その決意を胸に、朝の支度を手早く済ませて学校へと向かった。
終業の鐘が鳴ると、起立、礼の号令の後、わっとクラスが活気付き、各々の放課後が始まる。彩もそれは例外でなく、今日も今日とて部室掃除という放課後が待っていた。
「彩、体調はどう?」
昨日の事もあってか、文が心配そうに声をかけてくる。
「いい感じ。…大丈夫、無茶はしないから」
彩は答えながらも手を止めず、掃除で動きやすいように下をジャージに履き替えて、荷物をまとめ終えた。
「手伝えることあったら言ってよ?あんたいっつも一人で抱え込むんだから」
現在進行形で抱え込んでる怪異があるんだけど。なんて。
「ありがと。何かあったらメッセ送るね」
言い出せる訳もなく、セピアの染みる右手を背中にまわすように隠す。
「そう言って、メッセ飛んできた試し無いんだからあ」
そう不貞腐れてると、文はやくー、と呼ぶ声が廊下から聞こえてきた。
「いっけね。私ももう行かなきゃ」
「新聞部?」
「そうそう。真夏のオカルト調査やってんの。学校の七不思議ってやつ?」
「…へえ」
あーやー、と、廊下の新聞部の一年生達が、痺れを切らして急かしてきた。
「じゃ、メッセしてよね」
「わかったわかった。いってらっしゃあい」
文は、ばあい、と陽気に挨拶を残して、お待たせー、と廊下に駆けていった。
「さて、あたしも実は、オカルト調査なんだよね」
そうぼやいて、彩も覚悟を決めて部室に向かう。
スイサイについて、まず、知ること。
それが彩が決意した、最初の一歩だ。
昨日の一回限りでは、
『使用者自身に、無意識に最期の景色を描かせる』
という仮説しかたてられなかった。だから彩は今日、その仮説を確かめるべく、あえて、スイサイが描き出した美術部部室に単身乗り込んだのだ。
「うーん、多分、立ち位置はここみたい」
そうして目当ての『ギリシャ』と勝手に名付けた棚の前でうろつくこと約五分。スケッチブックの構図と見比べながら、ようやく自分の『死に場所』を見つけ出した。
窓から差し込む日光が描く影の角度から推測して、スイサイが描いた時間まであと一時間前後と言ったところか。
念には念を、と、彩は立ち位置に養生テープでバツを付けて、その場から余裕をもって後退する。
さらに、念の入れすぎと承知の上で、家から持ち出した父の三脚の専用雲台にスマホを固定し、ギリシャ周辺が映る画角で動画の撮影開始ボタンをタップした。
そうして彩はその位置をチラチラ観察しながら、棚から今日の分と引っ張り出しておいた先輩方の失敗作達の処分を始めるのだった。
「…」
黙々と石膏像や粘土細工を砕き、カンバスの絵画を解体しては、チラリチラリとテープのバツに視線を向けつつ、可燃物、不燃物に分けゴミ袋にそれぞれ突っ込む。
時計を見ると、そろそろ、一時間が経とうとしていた。
脇に開いておいたスケッチブックと、スマホの録画画面を見比べると、日差しの角度は、ほぼ、一致している。
「ここまでして何もなかったら、あたし、ただのスピリチュアルなバカだよね」
そうぼやいて、
まあ、なにも起こらない方が良いなあ。
と、そんな考えがよぎった時だった。
かたん、かたん、かたん…
部室の中の、何か小さなものが、かたんかたんと、一定のリズムで音をたて始める。
「なに…」
次第にその小さな音が共鳴していくように重なって、
彩は、ごくり、と、唾を飲む。
そして、自分自身が揺れの中にいると気が付いたとき、
窓の外のパステルオレンジはセミの声一つ無い静寂だということも理解する。
瞬間、
録画中のスマホがアラートをかき鳴らし機械音声の警告を何か読み上げたかと思うと、
「地震ッ!?」
地の奥底から突き上げるような激しい揺れに揺さぶられ、身構える暇もなかった彩は吹っ飛び三メートル真左の壁にぶち当たる。
その左半身の激しい痛みに視界が霞むなか、
日の射す養生テープのバツ印めがけて、棚の上の大きなイカロスの裸体像がおちて打ち砕かれる、神話の結末を目撃する。
『スイサイ』は、死の報せだ。
彩は確信し、激しい揺れに掻き乱される部室の最中、うっとりと笑みを浮かべて、気を失った。
遠いような、近いような。
距離は解らないが、心地いい温もりと揺れの中で、声がする。
「や」
「…やさ」
「あやさん」
「っんん…」
「…なんだ、死んでなかった」
「…いきてうお」
「あまり喋らないほうがいいわ。ここにいて」
少しぶっきらぼうな優しい声が隣から話しかけてきた。そうして地面に寝かされたような気がして、
「っは」
目を覚ますと、目の前には杏色に染まる学校のグラウンド、いつもの夕方の部活動の風景が広がっていた。隣に座る誰かに寄りかかるようにして気を失っていたらしく、バラの花の高貴で豊潤、それでいて可憐な紅を思わせる香りにうっとりとして、思わず再び身を寄せる。と、すぐに隣から、
「最大震度五強、マグニチュードは六・一」
「わあ」
「そんな地震の後でも部活する運動部ってほんとバカね」
「わかるー」
「きっと脳は横紋筋でぎちぎちよ」
「脳筋ってこと?」
「目は覚めたかしら」
「うん」
「じゃあ、離れて頂戴」
「って水門先輩ぃッ!?」
彩は言われた通り五メートル以上はすっ飛ぶように距離をおいた。グラウンドの縁、コンクリの階段は熱を帯びていて、一瞬にして全身に汗をかく。
キンとすっ飛ぶ球に野球部の外野が、こおおいと叫ぶ。
サッカー部のパス回しのリズムが、小気味良く響く。
どこかの電線に羽休めするカラスが、があと鳴く。
水門は表情一つ変えずに、スマホの画面が映し出すSNSのタイムラインをさらさらと遡っている。
「あの、そのっ」
「けがは?」
「ない、と思います」
「うそをつくな。…打ち身が酷い。右手首周辺のアザ、それに左の二の腕、後でもいいからよく冷やしておきなさい」
「…はい」
「他の二人は?」
「…ええと。体調、悪い、みたいで」
水門ははぁあ、と苛立たしげにため息を吐いて、スマホを閉じる。
「家族旅行と不登校だろ」
「…ッ」
「私に、うそを、つくな。…わかった?」
「…っはい」
水門はきつく睨むと、俯いて涙を滲ます彩に舌打ちし、
「ぅわぁ」
紅の香りのハンカチを顔に投げつけてきた。そうして彩はその優しさに包まれ、一気に泣き崩れた。
「うう先輩いぃい、…掃除ぃ、絶対、おわりまぜんんッ」
「…もっと早く言いなさいよ」
そう言って部室から拾い集めておいてくれたらしい彩の荷物を乱暴に投げて寄越すと、ずかずかとどこかへ行ってしまう。
かと思ったら、
「ぁひゃんっ」
首筋に何か冷たい物を当てられ、
「変な声出さないで頂戴、恥ずかしい」
奇声の後に振り向くと、水門先輩はいつも通りのきつい目でこちらを睨みながら、ん、と言ってセブンティーンのチョコミントを差し出している。
「へぇええ?」
「明日から私も手伝うから。終わらない、なんて、うそをつくな」
「はいぃいい」
彩は頭を垂れて服従するよう、両手で神聖なものを神から賜るようにチョコミントアイスを受け取った。
「お嬢様」
ふいに、後ろから声がかかる。
「お迎えに上がりました。地震の際、お怪我はございませんでしたか」
「無いわ。とっとと帰りましょうじいや」
じゃあまた明日、と言って鮮やかに翻った水門先輩の、スカートからわずかに覗く左太もも辺りの擦り傷、その鮮やかな鴇色が、彩はしばらく忘れられなかった。
「先輩が、嘘つきじゃん」
涙の塩気を上書きするような、そっと舐めたミントの爽やかな甘さに、彩は頬を綻ばせた。
土木、建築、運送、…ブライダルまで?スマホが映す『みのとグループ』の検索結果をざっと見回しながら、彩は自宅の玄関をくぐり、その足で自室に向かう。
自分の娘の名前を会社のグループ名にするなんて…と、思っていると、検索結果の画像欄に並ぶ、パパラッチが撮らえたのであろう一枚の画像に目が釘付けになる。
満面の笑みの社長夫婦がローズレッドの水着姿の娘、その水着と同じくらいに顔を赤らめ慌てる水門先輩を、じゃじゃあんと観衆に見せびらかす、異国のビーチでの一幕だった。
彩はその画像に微笑んで、ウィキなんて読む必要もなくグループ名に納得した。
結構いいとこのお嬢様だったんだ。
妙に高圧的で、距離があって、それでいて優しいぶっきらぼうのお嬢様。自分の認識を改めながら、勉強机に備え付けのイスに腰かけると、
『地震、大丈夫だった?』
『パパ、ちょっと今夜帰れそうにない。家事頼むね』
と、メッセージ一覧の中で絵文字混じりの通知が悪目立ちしていて、彩は吹き出しながら『地震は平気』と真面目な返信と、『家事は任せて』に大量の無意味な絵文字を添えて送り返した。
「ふうっ」
軽やかな吐息と同時にスマホを置いて、バッグから取り出したスケッチブックを両手で掲げながら、イスの背もたれに深く寄りかかって、仰ぎ見る。
スイサイは、『死の報せ』。
昨日の転倒と、今日の堕天が示すは、間違いなくスイサイは、彩に死の視界を前もって教えてくれているという事実だ。
だとすれば、調査は次のステップに進めよう。
次に調べるのは、スケッチブックにセピアの絵を描いているのは、本当に『あたし』なのかどうか、だ。
よし、と一喝して彩はスケッチブックを開いて勉強机の上に置くと、筆洗とパレットと平筆、それに汚れたスイサイ絵具のチューブを持って洗面所に向かう。
それら全てを綺麗に洗って、布巾でしっかり拭いて、自室の勉強机にもう一度並べていく。
「で、後は」
父の三脚の雲台を通常のものに取り替えて、これまた父の自慢の大容量のビデオカメラを、自分のベッドと勉強机が録画できる位置にセットする。
と同時に、机の上のスケッチブックが映る位置に充電コードを挿したスマホをミニ三脚にセットし、勉強机のライトを付けっぱなしにしておく。
二ヶ所の定点観測。
これで一晩中の撮影にも耐えられるだろう、と、彩は黙って頷いて、
「『スイサイ』は多分、悪いヤツじゃない。悪いヤツなんて、いないよきっと」
「それを証明するために、あたしがあなたを記録してあげるから。…遠慮せずかかってきなさいよ?」
右手のシミを見下ろして、ポツリ呟く。
それから三日間に渡り、彩はスイサイを知り尽くすために、条件を変えながら自分の寝相を毎晩撮影してみた。
一日目。撮影を決行した初日。
条件は何も手を加えないこと。
勉強机はいじらない。自分もそのまま寝ること。
そして翌朝録画を見返して、改めて予想が事実となった瞬間はゾッとした。
目を閉じた自分が突然、のそりと起き上がってまっすぐ勉強机に向かう。そしてスマホの手元録画には機械のような正確な動きでセピアの水彩画を仕上げる自分の姿が記録されていた。
「これ編集してネットに上げたらバズるかな…収益、でる、…のかあ?」
いやいや、と邪なアイデアを振り払って、次の記録の準備をする。
二日目。
条件は道具を全て隠すこと。
筆洗と絵具、パレットは自分で隠して、
「お父さん、これ全部家の中のバラバラの場所に隠しておいて」
「んえ、いいけお」
絵筆とスケッチブックをチャーハンを頬張る父に託して、その晩の撮影に臨む。
結果は、やはり予想通りだ。
昨日と変わらず目を閉じたまま突然起き上がると、今度は勉強机には向かわず真っ先にパレットを隠した本棚に、そして筆洗と絵具を隠した洋服ダンスのそれぞれの引き出しを躊躇無く開けて、手にしたそれぞれを勉強机に並べる。
そして廊下にまっすぐ歩いていくと、一分と経たずに絵筆とスケッチブックをその手に帰ってきたのだ。
「あたし、隠し場所なんて知らなかったのに…」
そう呟きながら流し見たスマホの録画は、相変わらず機械のような筆捌きの、目を瞑る自分を映し出していた。
「これって…ほんとに、あたし?」
三日目。
条件は、
「お父さん、ロープってある?」
「ああ、登山用のあるけど。…何に使うの?」
「自分を縛ってみたくて」
「ええッ絶対貸さないよ」
「お願いッ、…縛ってくれたら、なお嬉しいんだけどっ」
「彩ぁあ…」
「ん?」
「疲れてなあい?」
人生初から五度目くらいの土下座をして、なんとか涙を噛み殺す父に縛ってもらうことに成功。二つのカメラの録画開始を頼んだときには父の見たことの無い泣き顔と対面し、さすがに今後の親孝行の頻度と質を考え直した。
結果は、
「普通に起きて、学校行って、録画見れてる」
勉強机に両肘を突いて、頭を抱えため息を溢した。
ビデオカメラの録画には、定刻通りにのたうち回り、およそ人間とは思えない関節の可動域を魅せ、父がミイラのようにぐるぐる巻きにしてくれた拘束を容易くすり抜けていく自分の姿が記録されていた。
画面の向こうで確かにあり得ない方向に曲がっていた両肘、両膝に、今、自分がぶら下げているそれらに視線を落としたとき、その異様な寒気に思わずイスの上で膝を抱え俯いてしまった。
肘と膝の各関節には、可動域限界を超えたからできたと思われる、いくつもの小さな裂傷が、確かに残っている。
「これって…ほんとに、あたしなんだ…」
これにて、彩の三日間に渡るスイサイに関する調査は一段落となった。撮影した動画はもう見たくもなかったから跡形もなく削除し、カメラと三脚とロープを、今や気まずい関係となってしまった父に返す。
「…大丈夫か?」
そう、ガムを差し出しながら笑い、声をかけてはくれたが、
「…ん」
そんな気分にもなれなくて、ガムの鮮やかなグリーンをそっと突き返す。それから、彩は帰宅後自室に籠るようになってしまった。
ぱたん、と、今日も『スイサイ記録ノート』と題した大学ノートを閉じる。
これまでの調査でわかったのは以下の通り。
二十二時から二十三時前後に強烈な眠気に襲われて、どう抗っても必ず二十三時には床の上だろうと眠りに落ちる。
そしてちょうど真夜中、零時に寸分の狂い無く目覚めると、まるで機械のような動作で絵を描きはじめるのだ。
絵を仕上げるのはぴったり一時間。つまり夜中の一時頃にはすっと勉強机から立ち去って、再びベッドに潜り込むことになる。
仕上げた絵は、階段の踊り場、美術部部室に始まり、自分の教室前の廊下、学校のプールサイド、工事中の体育館裏と続き、それぞれの死は『描かれている時間にその場に行かない』という絶対的な対処法で全て回避に成功した。
事後の聞き込みによると、どうやらそれぞれの場所で、絵の完成から二十三時間以内に、何人かの怪我人が出ていたらしい。
もし仮に、報せを無視して、スイサイが描いた時間にそれらの場所に出向き、それらの小事故に居合わせていたら…
「…ふう…ぅ、…」
エアコンもつけていない、真夏の自室。
うだるような暑さに、吐息が震える。
窓の向こうの燃えるようなマゼンタに、肩の震えが止まらない。
肘と膝の裂傷がうずいて、しかたがない。
机の引き出しにしまっておいた傷用消毒と新しい絆創膏を取り出して、一枚一枚貼り換えていった。
「明日で、夏休みも終わり、…かあ」
高校一年の夏休み。
振り返ると、夏期講習と部室掃除以外、特に思い出無いや。
夏休み最終日の放課後も、変わらず文化部部室棟二階の廊下を歩いている虚しさに、彩は深く肩を落とす。
昨晩のスイサイは昼の中庭を描き出した。
だから文が『天気良いしお昼中庭で食べない?』と提案したのに対し、彩は過剰に拒絶してしまう。それが文にとってよほどショックだったのか、久しぶりに一緒に食べた昼ご飯にも関わらず、お互いずっと無言だった。
その後、中庭で吸殻由来のちょっとしたボヤ騒ぎがあったことを聞き付けた時の、文の不思議な表情が、彩の目に焼き付いている。
文、なんか言いたげだったな。
その視線から逃げるように駆け出した足、膝がまだ震えている。
「はぁあ…」
俯きがちにかちゃりと部室のドアを開けると、
「遅いっ」
もう見慣れてしまった割烹着姿の水門先輩がすでに掃除を始めていて、その手を止めること無く相変わらずのキレで言い放つ。
「すみませんっ、中庭辺りが、野次馬で混んでて」
『中庭』と聞いてはっとした水門先輩は掃除道具を落としてずかずかと大股で歩み寄り、
「っ怪我はない?」
そう言って全身を見回してくる。
「だ、大丈夫ですよッ。居合わせたわけじゃ、無いんで」
彩はそう返事しながら思わず一歩引き下がってしまう。
「あらそう。…損した」
先輩は損とは言うものの、いつも通りのきつい目なのにどこか安心し、嬉しそうだ。彩はほっこりと笑みを溢しながら、掃除を再開する水門先輩の背中にしばし見惚れる。が、
「ほらボサッとしない。掃除は絶対、今日で終わらせるのよ、いい?」
「ああ、ははいッ」
そしてその言葉通りの鬼の追い込みによって、無理難題に無理ですと音を上げながらも、十九時手前に片付けの全工程を終えたのだった。
「やるじゃん」
終わり際、そう笑った水門先輩の笑顔にどきりとさせられ、部室棟から瑠璃色の空の下、ぽつりぽつりと街頭が白く灯る学校の正門前まで、紅潮を悟らせまいと、彩は顔を伏せて歩いた。
「お疲れ様でございます、お嬢様」
正門脇に停車するリムジンの隣から聞こえる、その老いを感じさせないダンディな声にはっとして、彩も思わず顔を上げる。
「ほんとよ。掃除なんていつ以来かしら」
「浴場の準備を急がせましょうか」
「そうして頂戴」
じいやに荷物を渡し終えた水門先輩は、
「…」
蛍光灯を煌びやかに纏わす濃紺を耳にかけながら、
「…あなたも、どう?」
何日か長時間顔を合わせたからこそわかる、少し照れたきつい目をこっちに向けていた。
ぽちゃ――ん―――
ウチのリビングほどある浴槽の端と端。
お嬢様の家ってどんなだろ?
という単純な興味で、ご一緒します、と答えたはいいものの。
『…』
――ぴちょん――
初めてちゃんと会話が成立したのが四日前なのだから、この湿った静寂は予想できなかったわけではない。
むわりと漂う真珠色の湯気に、甘く妖艶なアロマの香り。そんな程よい、いや程よすぎる熱気に、彩は耳を鼻をあらゆる末端を桃色にして、静かな湯船の左端で正座していた。
「湯加減は?」
「最高ですッ」
「のぼせそうじゃない」
ざばっ、と、水門先輩は体育座りを崩して、右端からこっちを見ながら呆れている。
「…ッ、すみません」
彩はしゅんと、水面に視線を落とす。
「…」
「何が」
「その…、」
「たくさん、うそ、ついて」
彩の言葉に水門先輩は最初、眉をひそめるが、しばらく考え込んで、
ばっしゃんッ
「っふぇえ、何するんですッ」
手にしたひしゃく一杯の冷や水をかけてきた。
「今、水に流した。だからこれまでのうそは全部チャラ」
それから僅かに柔らかい笑みをこぼすと、
「あなたものぼせる前に上がりなさい。エビみたいよ」
ざばぁんと淡く紅潮させた肢体を露にして、きらめきを散らしながら浴室を出ていく。
「…」
「…タコじゃない?普通…」
―ぽちゃ――ん―――
一人残された紅の残り香がほのかに薫る浴室に、彩はくすっと、笑みを響かせた。
「…なんだかんだで、最高の夏休みだ」
ぽちゃん――…
ぽちゃん――…
ぽちゃん――…
ぽちゃん――…
みぎわ川上流、虫の音に混じる、小さな小さな、水滴の音。
――ぽちゃ――…
―ッミシミシミシミシッ――…
…―ピシッ―――…
『みのと』と名付けられた真新しいダムに小さな亀裂が走ったのは、彩の夏休みが終わりを迎えた、ちょうどその時だった。
水 災