シアン
スイサイ
青空。
雲一つ無いシアンの深さに、彩は思わずため息を溢す。その吐息の温さのせいか、
「…ぁあっ」
はたまた日陰でも遮る事のできない熱風のせいか、手にしたセブンティーンのチョコミントが、ぼとりと湿った音を立てて、アスファルトに出会いであり別れの挨拶をかます。
「もーう、最悪っ」
ジャージの染みにならなかっただけマシか、と自分を納得させて、見ているだけで切なくなるお気に入りのアイスの去ったアイス棒をゴミ箱に突っ込むと、とぼとぼと校舎の中に帰っていくのだった。
文化部部室棟二階の一番奥。セミの大合唱が響く廊下を抜けた先の、美しくレタリングで彩られた『美術部』プレートを下げるドアを開けると、片付け半ばの、始めた時よりも散らかったかに思える部屋と対面する。
「ちょっと一年。夏休みの間に部室片付けておきなさい」
たった三人の一年、うち幽霊部員一人の私達二人に対して、部長の水門先輩は苛立たしげに言い放ったのがつい一週間前の夕方。そして約束の夏休みの終わりは丁度一週間後と、今日で既に折り返しに差し掛かっていた。
毎日午前の夏期講習もあるわけで、一日中部室掃除に時間をあてるなんて事も叶わない。だからそろそろ掃除もさっぱり終わらせて、学生の本分でもある学業に身を入れたいところだったのだが。
『彩ごめーん。明日っから六日間家族旅行入っちゃって』
二日前、風呂上がりにスマホの通知に目を通しているとそんな一文に目が止まった。
『いってらっしゃい!!』
逝ってらっしゃい。
変換候補に潜む殺意から目をそらし、深い深いため息と共に送信ボタンをタップして、
「っはぁああ…」
午前の夏期講習を終え仲の良い友達と別れ、昼休憩の密かな楽しみチョコミントとも別れ、一人部室に立つ、今に至る。
美術部部室は二階の西の角部屋。これから午後の時間は西日が窓という窓から直に差し込む時間帯で、部屋の中は蒸し風呂状態となる。そんな時の頼りであるエアコンも『故障中』の貼り紙をむなしくぶら下げているだけで、寒いギャグの一つさえ吐いてくれない有り様。
「あづいぃ」
文句を言いながら窓という窓を全開にしようにも、吹き込むのは良くて温い風だけだ。少しでも涼もうと窓辺にべったりと肘をのせ、身を乗り出す。そうして講習終わりに通知があった事を思い出して、スマホを取り出した。
「――で、ゆうかは今頃、イタリアです、か」
家族旅行でイタリアへと発った同期の部員、ゆうかは、よかれと思ってなのか、『絵の参考資料に使って!』と随時写真を送ってくる。つい先程送られてきたのは果汁たっぷりの彩り豊かなジェラートの写真数枚。
「…明日セブンティーンで探してみよっと」
十七種類のフレーバーに淡い期待を抱きながら、スマホを閉じて空を見上げた。シアンの深みがわずかに霞み、西日を思わすオレンジが淡く混じっていく。その色の移ろいを見渡すだけで汗が首筋を流れていき、嫌気のさした彩は窓辺を離れ、
「暑いよね~」
と、ゆうかと二人で並んでお互いをスケッチブックで扇ぎ合った、部室の備品のローテーブルに一人腰かける。しかしすぐに隣のぽっかり空いたスペースに寂しさを覚えて、休みたい気持ちに鞭打って、しぶしぶと掃除を再開した。
一時間、二時間と、黙々と『処分』という付箋紙の貼られた代々先輩方の試行錯誤の塊達を砕いては、可燃物と不燃物に分けてゴミ袋に突っ込んでいく。
片付けを始めた最初の一日、二日はゆうかと二人で『これはどんな作品だったのかな』と、無邪気に推理ゲームをしたものだが、だんだんゆうかと二人、先輩方の前衛的すぎる失敗作の群れに酔いに似た嫌悪感を抱くようになる。以来、お互い夢見の悪さが今年の夏の悩みの種となってしまい、話題は昨日見た悪夢、そしてしまいにはそれすらも禁句となって、三日前はほぼ会話することなく作業を終えた。今思えば、ゆうかの突然の家族旅行も、そんな彼女の連日に渡る塞ぎ込みぶりを気にしたご両親の思いやりだったのかもしれない。
そんな同じ苦しみを味わった彼女に対して、少しでも苛ついてしまった自分の心の狭さに呆れ、今夜はなんか返信してみよ、と、ため息を溢した時だった。
ぽす…
特にいじってもいなかった背後の棚の方から、何かが落ちた音が聞こえてきた。今しがた砕き終えた、自身の腸を嬉々として弄ぶ赤子の石膏像から視線を反らしたくて、後ろを振り向く。
そうしてしばらく辺りを見回していると、
「なんだろ」
西日のオレンジを鈍く反射する小さな何かを、棚の真下の床に見つける。
別に、その『何か』の正体がどうしても知りたかったわけではない。
目の前のアートの成り損ない達から逃げたかった、というのもあったのかもしれない。
しかし特に明確な理由もなく彩は自然と立ち上がっていて、そのオレンジに妖しく輝く『何か』へと引き寄せられるように歩いていて、気が付くとその『絵具チューブ』の銀色に、手を伸ばしていた。
拾い上げたチューブにはラベルは無く、
「スイサイ…水彩、かなぁ」
剥き出しの銀色に、暗いセピア色の油性マジックのようなペンででかでかと、ただ『スイサイ』とだけ、書き込まれている。
「変な絵具」
試しに蓋を開けてみようと摘まんだ瞬間だった。
「ちょっと何よ」
背後、開け放っていたドアの方から苛立たしげな声が聞こえてきた。
なぜか、咄嗟に手にしていた絵具のチューブをジャージのポケットに隠してしまい、変に慌てた素振りで振り返ると、
「み、水門先輩っ」
部長の水門が眉をしかめながら、部屋に充満する石膏の粉を嫌うようにハンカチで口元を覆って突っ立っていた。
「全然片付いていないじゃない」
水門は腕を組んで高圧的な態度をとると、見慣れたいつものきつい目で彩を睨む。
「す、すみませ」
「他の二人は?」
「え、えぇとぉ」
「他の、二人は、どこ?」
「そのっ、体調…悪い、みたいでして。ははっ」
水門はうんざりしたように艶やかな濡羽色を掻いて、舌打ちをする。
「あと一週間だけど」
「はい。…そう、ですね?」
「終わるかどうか聞いてんの。何の返事だバカが」
「お、終わらせますっ、大丈夫です」
「…本当に?」
イライラとつま先をぱたつかせながら、水門は部室を見回す。
「…ハイ」
彩はしゅんと肩をすぼめながら、俯きがちに返事する。
そんな彩に聞かせるように、わざとらしいため息を深々と吐いて、水門は廊下の熱気の奥へ消えていった。
「…やんなるなあ」
ポツリと愚痴を溢したのも束の間、時計を見てはっとする。
「もうこんな時間っ」
十六時十五分。
彩は急いで荷物を纏めると、部室のドアに駆け出す。一瞬立ち止まって部屋を見回し、来たときとあまり代わり映えしないその進展の無さに一つため息を溢して、戸締まりを済ませ、また駆け出した。
M市総合病院の面会受付時間は十七時が最終で、彩が小走りに窓口に辿り着いたのは十七時二分の事だった。もうだめかと絶望していると、いつもの受付のお姉さんがにっこりと笑って人差し指を口元に当て、受付表を差し出してきてくれた。
向かう病室はいつもの三階の部屋。ドアを開けると、
「お母さんっ」
思わず声を上げてしまう。
「ちょっと彩ちゃん。他の患者さんに迷惑っ」
相部屋の三人が微笑ましそうにクスクス笑い、その最中で母は頬を薄紅に染め、もうっ、と言いつつ、飛び込んできた娘を抱き締める。
「調子はどう?」
「絶好調ねっ」
そう言って母はギブスの巻かれた左足をピンと宙に伸ばして見せるが、あいたたた、とすぐに萎縮する。
「っもう、無理しないの若くないんだから」
「彩…あなたもそのうち老いてゆくの。だから若さで笑うもんじゃあ、ありませんっ」
「はあい」
そう芝居がかった説教を病室に響かせる母は、つい五日前のママさんバレーでエキサイトし、見事試合開始二分で左足腓骨を骨折。怪我の経緯をこの病室でただ一人知る彩は、にやにやしながら母に返事をする。そんな娘が可愛くて、母はベッドの縁に頬杖を突く彩の頭を優しく撫でる。
「…彩ちゃん」
「なあに」
「なんかやなことあった?」
「…っ」
突然の心を読まれたかのような問いかけに、彩は目を泳がす。
「何でさ」
「んー、年の功、かしら」
かなわないなあ、と彩ははにかみ混じりにため息を溢すが、母に余計な心配をかけさせたくなかったから、
「その年の功、今後あてにしないほうがいいね」
やれやれと笑ってごまかした。
「あらら残念。もっと磨いておくわね」
それからしばらく夏期講習の範囲の事や、偏食がちな父に対する愚痴合戦、夏のあるあるなどの話に花を咲かせて、
「そろそろ晩御飯の支度しないとっ」
十七時二十五分。大幅に面会時間を過ぎてしまった申し訳なさもあり、寂しがる母を置いて、もう少し甘えていたい本心をぐっと抑えて、彩は重い足取りで帰路に着いた。
「おーう、おかえりぃ」
自宅、マンションの玄関を開けると、エプロン姿の父がキッチンに立っていて、母の入院を機に買った大きな中華鍋を豪快に振るい、鮮やかな大波を描くチャーハン、その仕上げに取りかかる最中だった。
しまった先を越された。
彩はあちゃあと手のひらで顔を覆いながら、
「ただいま、お父さん」
惨敗の悔しさと共に、帰りに買い込んだ野菜たちを冷蔵庫にしまっていく。
「調子はどう?」
「絶好調よっ、へへっ」
そう言って父は醤油を一たらしし、食欲をそそる焦げ醤油の香りの煙のなかでにかっと少年のような笑みを浮かべて、サムズアップをこちらに掲げる。
母の入院初日。父の作ってくれた絶品チャーハンに思わず、
「これおいっしいよっ、お父さん!」
笑顔いっぱいにそのままの感想を述べたが最後。それから毎日エビ、チャーシュー、ニンニク、トリ唐揚げと幅広いレパートリーのチャーハン三昧を展開することとなり、
「今日は焦がしネギ醤油チャーハンだっ」
と、今夜も憎めない笑顔と一緒に、食卓に新作が並ぶこととなった。
「…あたし、サラダ作ろっか?」
「ええ?言われた通り野菜入れたよ??」
彩はレンゲで油ギトギトのネギを拾い上げて、そうだね、と諦める。と同時に、そんな好きなことに夢中になっている父の笑顔に慈しみのようなものを感じて、夕方の母の愛ある愚痴に納得し、彩はまた笑みを溢し、チャーハンをレンゲいっぱいに頬張った。
「ふう」
風呂も済ませて満足気に一息をつくと、自室のベッドに腰かける。ドアの向こうのリビングから、テレビで放映している夏のホラー特集を一人鑑賞する父の悲鳴が聞こえてきた。
「ふふ。怖いなら観なきゃいいのに」
そう呟いて、ジャージのポケットに入れっぱなしだったスマホを取ろうとして、
「あ」
うっかり謎の絵具を持ち帰ってきてしまっていたことに気が付いた。
右手にスマホ。左手にスイサイ絵具。
しばらく黙って思案するが、明日部室に返せばいっか、と結論付けて、バッグに入れようとしてその手を止めた。ふと、
「どんな色だろ」
好奇心が湧いてきて、スマホをローテーブルに置いて、バッグからちょうど目についたスケッチブックと水彩画セット一式を引っ張り出す。
筆洗に水を汲みに洗面台に向かうついで、洗濯かごにジャージを突っ込み、帰り際、またリビングから父の悲鳴が聞こえてきた。そんな変わらない夏の日常にくすりと笑い、自室のドアを静かに閉める。
「さて、と」
勉強机に広げたスケッチブックに面と向かう。
筆洗の水も充分。パレットも準備よし。
最近絵も満足に描けてないから、平筆も丸筆も新品みたいにふさふさだ。
なぜか、今までしたこともない、絵を描く前の指差し確認を済ませた自分に吹き出す。
「緊張…してるのかな。何でだろ」
一人ごちて、ようやく決心してスイサイ絵具を手に取る。
銀色のチューブはエアコンの冷気に当てられたからか、最初に部室で拾い上げた時よりひんやりとした印象を受けた。
しかしラベルが無く剥き出しなこと以外は、何てことない見慣れた絵具のチューブだ。
何も緊張する事なんて無いじゃないかと、彩は一思いに、蓋を捻って開けた。
「…ん、なんか」
すると、違和感はまず嗅覚を刺激する。
少し顔を寄せて、化学の授業で習った通り、薬品の臭いを嗅ぐ時のように手であおってみると、
「海鮮…?」
磯臭いような。
鉄錆びのような。
川底の苔のような。
お世辞にもいい香りとは、そもそも絵具の匂いとは言えない、言ってしまえば不快と言い切れる臭気が立ち込めた。
ますます絵具の謎が深まったところで、彩は次にパレットにチューブの口を押し付けて、一センチ未満の塊をちょんと出す。するとさっきよりも強い臭気を伴って、糸引く粘りのある暗いセピアの絵具がパレットに角を立てていた。
「変な臭いに、変な質感。…これ、ホントに絵具なのかな」
平筆に少し水を吸わせて、好奇心のままにパレット上の塊を伸ばして、そのままスケッチブックの中央にグリグリと円を描いてみる。
そうしてスケッチブックの白さに描かれたのは、想像通りのセピアの円。
匂い、質感と、だんだん期待が高まったが故に、その面白味のない結果に拍子抜けするように、彩は肩を落とした。
「ふぁ…はわあ…あ」
緊張の糸が一気に切れたからだろうか、どっと眠気に襲われて、彩は思わず大きなあくびをする。変な臭いに嫌気もさしてきた頃合い、スイサイ絵具の蓋をきつく閉め、
「講習の復習…明日でいいかなあ」
そうあくびを噛み殺しながらぼやいて、勉強机の片付けもろくにせず、彩はベッドに倒れ込むようにして眠りに落ちるのだった。
あ…ゆうかに返信、してないや。
思い出したようにうつぶせから跳ね起きると、付けっぱなしの部屋の照明に負けじと窓から日が差し込んでいて、微かに聞こえてくる鳥の囀りに困惑した。
「…え、もう朝ぁ?」
寝足りないだるさの中目を擦り、時計を見ると時刻は七時二十分。照明のスイッチをオフにして自室を出ると、すでに父は出勤しているようで、食卓には昨晩の残りのチャーハンにぴったりとラップをかけて、『いってらっしゃい!今日もファイト!』のメモが添えてある。
時間も時間でゆっくりしてられない。
彩は顔を洗って、冷めたチャーハンも悪くないと思いつつ掻き込んで、皿を洗い、歯を磨き、朝の支度を手早くこなして自室に戻る。
そうしてスクールバックに今日必要な教科書類をまとめていると、
「うわっ、スマホの充電してないっ」
昨晩、倒れるように眠ってしまったせいで、スマホの電源は念じてみても付くことはなかった。今日はスマホ無しかあ、と落ち込みがちに充電コードを挿そうと勉強机に向かった時だった。
「…え」
彩の目は、机の上に開かれたスケッチブック、正確にはそこに描かれていた絵に、釘付けになる。
「綺麗」
思わず吐息と共にうっとりと、そう漏らすのも無理もない。
開かれたそのページには、セピア一色にも関わらず緻密な濃淡の水彩で、流れるような筆致で、昼前の明るい学校のどこかの階段が、踊り場から下階を見下ろすような構図で描かれていた。
夢でも見ているのかと、もう一度瞼を擦ろうと右手を顔のそばに上げて、彩は自身の右手がうっすらセピアに汚れていることに気が付く。
「この絵、一体誰が…?」
もう一度勉強机に視線を流す。
使い込んだ形跡のあるパレット。
濁る筆洗。
そして極めつけに、自分の汚れた利き手。
導き出されるこの絵の作者は、
「この絵、あたしが…?」
どうやら自分らしい。
「あたし、…天才じゃん」
にやけて立ち呆けるのも束の間、はっとしてスケッチブックのページを捲ると、案の定、下のページ十数枚に渡ってベットリとセピアのシミができている。
思わぬ傑作との出会いに喜ぶ反面、ほぼ新品だったスケッチブックのほぼ全てのページがセピアに染まってしまった事実に、少し気落ちする。
そんななんとも言えない気持ちを落ち着かせるようにスケッチブックを閉じて、
「学校、行かなきゃ」
自分を急かすように言い聞かせ、制服に着替えて学校に向かう。
通学路、彩の場合はみぎわ川沿いの堤防上の道路を通ることになる。まだ通い初めて半年に満たないが、この土手道からの眺めは、すでに彩のお気に入りの景色になっていた。
空を写す川面のシアンと、河川敷の青々と繁る濃いグリーンのツートーンは、夏の強い日差しに照らされ、春のパステル調よりも格段に彩度を上げる。
川の照り返す煌めきも、朝、昼、夕とその色を移ろわせ、季節だけでなく一日の時間の流れでも、毎日見ても飽きを感じさせることはない。
だから彩は、毎日行きと帰り、通る度に、この眺めを必ず堪能するのだ。
が、しかし、そんな大好きな風景をよそに、今日の彩はただ一点、自分の右手の汚れに視線を落としていた。
冷静に考えて、あんな絵、描いた記憶ないんだけどな。
絵のタッチも自分が今まで試したことがないほど写実的なもので、モチーフの階段も、普段描こうなんて考えたこともない。
その上、汚れていた平筆一本であんな緻密な書き込みが自分にできた、という事実が、何よりも不可解だ。
夢遊病?睡眠学習?
それとも科学じゃ説明つかないような、海外のなんとかっていう悪魔とか妖魔の仕業だったり?それだったら怖いし嫌だな。
「いいや、妖精さんだ。間違いない」
「頭でも打ったの?」
突然隣から声をかけられて、そしてあまりにファンシーな一人言を聞かれて、彩は過剰に驚いてふにゃあと叫んで声の方に向き直る。
「…なんだぁ、文かあ。はよー」
「はよー、彩。ってか、なんだって何さっ」
声をかけてきたのは中学入学式のホームルームからの親友、文だった。字は違えど同じ読み。たまたま同じクラスで、そんな他愛もない理由で知り合って、思った以上に馬が合い、同じ高校に進学し、今日この日も夏期講習を受けに、肩を並べて歩くに至る。
「で?妖精さん?妖精さんがどうかしたのカナ?あーやちゃ~ん」
新聞部所属の性か、面白いネタを掴んだとでも言いたげに、丸ぶちメガネをキラリと光らせにやにやと笑う文。
「え、アレだよアレ。次の絵は、妖精さん描こー、って思っただけだよ?」
「ふ~ん?…っぷ、くくく」
「何っ、なんか、変かな」
「ん~ん?『妖精さんだ、間違いない』、つって」
文は彩の一人言の真似をして見せ、
「あんまりにも真顔なのッ、あっはっは!」
腹を抱えて、二つのお下げが乱れ踊るほど大笑いする。
「ちょおっと、誇張が過ぎませんか文さーん?」
「いや、まじまじ。大まじだったよ、彩の顔」
ゲラゲラ笑う文に、あきれて一緒に笑い出す彩。
昨晩と今朝の不思議な体験が生んだ悪寒も、陽気な和やかさに自然と薄れていった。
「あ、あれカニじゃない?」
そう言って文は土手道の先、まばらな学生たちの群れの先に、頭二つ分背の高い男子生徒を見つけ、指差す。
「ああ、ぽいぽい。たぶん力二だね」
彩もその見慣れたスポーツ刈りの後ろ頭に納得し、頷く。
「おーいカニカニぃ~」
「あッ文、だめだめッ」
いつもの意地悪な笑顔を浮かべる文の目論見を察した彩は、走り出した彼女を止めるべく二足遅れで走り出す。
「カ~ニっ、おはよっ」
一着の文はカニの肩をぱしっとはたく。
「おお、はよーっす」
「ちょっと文あ、絵の構想なんだからあ、ネタバレとかあ、良くないってえ」
二着の彩も肩で呼吸するように二人の間に割って入る。
「なんだよあやあやコンビかあ。うるせえのが揃っちまった」
あだ名はカニ、もとい力二は彩と同じ病院で同じ日に産まれ、文字通りの産まれた時からの幼馴染み。なんだかんだで高校まで適度な距離を保って続いている腐れ縁だ。
高校進学を機に、『俺はぶんぶん両道に生きるぜ!』と文も武も抜けた発言と共にボクシング部に入部。以来クラブサウスポーと恐れられる期待のダークホースとして先輩達から毎日可愛がられているらしい。
じっと見回してみると、今日も真新しい絆創膏が額に二つほど増えていて、彩はその努力の証に微笑んだ。
「おはよ、力二」
カニはその微笑みの視線に気が付くと、照れくさそうにふんと鼻を鳴らして、
「…はよー、っす」
みぎわ川の煌めきに視線を逃がした。
そんな二人のもどかしい距離感に、文はやれやれとため息を一つついて、でさでさっ、と、今日の特ダネと称した学年の噂話を、期待に目を輝かす二人を巻き込んで始めるのだった。
何気ない日常が、何気なく続いて、夏期講習の二限の終わりを告げるチャイムが鳴る。彩はふいぃ、と一息ついて、苦手な地理の教科書とオサラバするようにさっさとスクールバッグに押し込んだ。
「彩ー。トイレ行こー」
文が後ろから抱きついてきて、ふわりとシトラスの香りが鼻をくすぐる。若いレモンの淡い黄緑色を思わせ、地理への嫌悪を一瞬で忘れさせた。
「いいよー」
後ろから両肩に手を添え、電車ごっこのようななりで仲良くにこにこ廊下に出ると、
「うへ、超混んでんじゃん」
一番近いトイレに超とは言えなくても数人の列ができている。
「下行こっか?」
何気なく彩はそう言って、うん、と文も返す。
そうして駄弁りながら階段を下り、踊り場に差し掛かった時だった。
あれ。
日の差し込む角度が、不思議なデジャヴを感じさせる。
床が。壁が。日だまりが。
全てが一瞬、セピアの景色を思い出させた。
瞬間、
「おいバカ待てよお!」
「ぎゃはは、やだねえ!」
ッドン
脇を駆け上がっていった男子生徒に強くぶつけられ、ぐらりと足がもつれ、
「…あ」
「あっぶないッ」
頭からまっ逆さまに階段を転げ落ちそうになった時、後ろにいた文が咄嗟に腹を抱き抱えてくれた。
「…ッ」
そのお陰で落ちるまでの猶予が伸びて、なんとか目についた手すりを掴む。
「…はぁ、…はぁ、…はぁ、…ん…はぁ、…はぁ」
ずりずりと引き下がり、
踊り場の壁際にへたり込むようにして屈む、
二人の吐息と、遠くの廊下の雑踏が、
しばらく静寂をうめる。
「あ、あのお」
「…わ、悪ぃ、けが、ねえか?」
二人の男子生徒が申し訳なさそうにもじもじと階段を駆け下りてきたところを、
「あっぶないじゃないバカぁッ」
涙混じりの文が怒鳴り付けた。
男子二人もその形相にたまらず悲鳴を上げて、ごめんなさいいと各々叫びながら、蜘蛛の子を散らすよう逃げていった。
「彩ぁ」
泣きじゃくる文が、ぎゅっと後ろから抱き締めてくれる。彩もようやく放心状態が解けたようにはっと息を飲んで、えずくように嗚咽を溢す。
「っありがと、文。…っありがと」
そう何度も呟きながら、優しい黄緑色の香りに埋もれるようにして、全身を委ねた。
はやめに部室掃除を切り上げて、母の面会にも今日は行かず、彩は足早に自宅の玄関をくぐっていた。
バタン…
窓から差し込む朱色が照らすリビングにも、薄暗がりの縹のキッチンにも、まだ父の姿はない。
時計を見ると、時刻は十六時十分。
あと一時間もしないうちに、父は帰って来てくれるだろうか。
そんな普段考えもしない不安が頭をよぎる。
まだばくばくと鳴り止まない胸の高鳴りだけが、時計の秒針以外、物音一つ無い静かな自宅のなかで悪目立ちした。
「…ふぅ―――」
深呼吸で呼吸を整えた事にして、自室のドアを開けて、戸は閉めずに立ち尽くす。そして、あらかじめ決めていた足取りで、一歩、一歩、踏みしめるようにして、勉強机に面と向かう。
スケッチブックのセピアのシミは、例え閉じていたとしても、ページの縁から零れ這い出ようとしているみたいに、よく見えた。
彩は、震える手で、スケッチブックを、手に取る。
そして、
恐る、恐る、
開いたセピアの、始点、
その、三度目の、景色の、視点に、
「いやぁッ」
強い拒絶、短い悲鳴と共にスケッチブックを投げ捨てた。
バサバサッ
スケッチブックは部屋の隅の壁で暴力的にページをはためかせて、べしゃりと床に落ち、動かなくなる。
「な、な何…何なのさ、こ、これえッ」
はっとして机の上で朱色を照り返す銀色を鷲掴みし、ドタドタと乱暴に床板を踏みしめるようにしてキッチンのゴミ箱に向かうと、蓋を勢い良く開けて絵具チューブを投げ込む。
『スイサイ』の銀色が、縹を鈍く照り返す。
「…ッ」
熱気でぐずぐずに腐り始めた生ゴミにまみれるスイサイから逃げるように、彩はバタンッとゴミ箱の蓋を閉めたのだった。
水 彩