弱みを握られていますが、何か?
そう。僕は入学式の日に初手をしくじった。
入学式場となっている講堂の前で、最高学年の次兄から新入生のリボンをつけてもらっていたら、寝ぐせのついたままのピンクブロンドの髪にパンを咥えた令嬢が走ってきて、僕の前ですっころんだ。
驚いて思わず支えてしまった。
まずい!
そう思ったときには既に遅く、周囲の人々が時が止まったように固まっていた。
パンを咥えて王子の前ですっころぶのは、魔族の間では有名な「聖女」の初動だ。
知っていたのに支えてしまった。
知っていたのに触れてしまった。
まさか、この時代にこんなことをする聖女がいるなんて、思っていなかったんだ。
ベタすぎるだろ?
聖女は心から申し訳なさそうな様子で詫びていた。
僕は必死に王子スマイルを貼り付けて、何事もなかったようにサラリと受け流した。
それはすぐに「運命の出会い」と噂されるようになった。
聖女が評判の悪い令嬢だったなら、「あざとい」と評されただろうが、当代聖女は神殿で育ち、自動発動される「魅了魔法」や「混乱魔法」を完璧に制御している魔族フレンドリーな聖女だ。
幼いころから神殿主催の社会奉仕活動にも積極的に参加し、心優しく、思いやりに満ちていると評価されている令嬢だから、入学式のハプニングも「運命の聖女ムーブ」と、さもそれが聖女には意図せずして起こってしまう奇跡かのように好感された。
しかし、それだけでは「運命の出会い」とは言われない。
その後の僕の動きが悪かったんだ。
とにかく気持ちを立て直そうと、ミルドレッド用の新入生のリボンを兄から受け取って着けてやったら、ミルは僕が触れる前に瘴気を祓うパージ魔法をかけてきた。
え?
もしかして、怒ってる?
「すまない。下手を打った」
僕が慌てて謝ると、ミルドレッドはにこやかなプリンセススマイルを浮かべて答えた。
「謝るようなことはございませんわ。転びそうな令嬢を支えないなんて王子様ではありませんもの」
絶望した。
ミルのプリンセススマイルと丁寧な言葉遣いは「心の壁」なんだ。
僕に対して「心の壁」を作ったのだと誤解して、僕はますます慌てた。
思わず幼いころの習慣が出て、手をつないで講堂に入ろうとしたら、そっと手を引き抜かれてしまったことで、僕は顔をゆがめてしまった。
「学生として相応しくないでしょうから」
ミルも僕が動転していることに気付いてそう言葉を添えてくれたが、野次馬たちは野次馬が見るべきものを見た後だった。
それで不機嫌だった王子が、聖女に笑顔を向けた後、婚約者に渋面を作ったということになった。
聖女は僕らが講堂の中に入った後、兄から新入生のリボンを受け取りながら、僕のことを心配していたそうだ。
僕とミルの間の緊張感を目ざとく指摘するなんて、抜け目がなさすぎるだろう?
僕の勘が当代聖女はヤバい奴だと言っている。
「ジョナサン王子は、ミルドレッド姫に何か弱みを握られているのでしょうか?」
聖女は兄にそう言ったそうだ。
「答えは、イエスだが、聖女には関係ない」
僕は憮然となった。
確かに弱みはガッツリ握られている。
常にミルの顔色を確認している。
でも、それは、いわゆる「惚れた弱み」ってやつだから、心配は無用だ。
「知ってる。でも、肯定すると誤解されそうだから、苦笑いして流しておいたよ」
兄はそういって笑った。
聖女はそれ以上、深堀りすることはなかったようだ。
引き際をわきまえた淑女らしい姿勢と言えよう。
こういう卒のなさが、側近候補たちの間の萌えポイントだそうだ。
兎も角も、これが「運命の出会い説」と「婚約者との不仲説」の始まりだった。
実際の僕たちは、不仲なんかじゃない。と、思う。
入学式が執り行われている間、ミルが膝の上で揃えた手に上から指を絡めるように僕が手を置いても手を引き抜かなかったのは、講堂に入る時に僕を大きく動揺させてしまったことを申し訳なく思ったからだろう。
でも、それ以降、ずっとその繋ぎ方を許してくれている。
宮殿に帰れば、夕餐後、恋人繋ぎで庭園を散歩する。
この散歩は僕たちの大事な作戦会議の時間であり、僕の癒しの時間で、絶対に欠かせない。
ミルはそもそも極度の運動嫌いで、散歩を嫌がる。
僕が手を引いて歩くのは、ミルに強制的にエクササイズさせるためにやっていることだと勘違いしている節まである。
それでも、僕が、「行こうか」と手を繋げば、一緒に歩いてくれるのだ。
雨が降ったら嬉々として読書を始めるので、傍目に見ても、僕がミルの運動不足解消のために努力しているだけと勘違いしていそうだ。
だが、たとえ勘違いされていたとしても、夫が妻の健康のために工夫して行動しているんだから、まぁ、仲睦まじいと言えなくはないのではないか?
いや、苦しいか?