第八話前編 ムラサキカガミ
この話はさすがに長くなったので、2つに分けました。女性が嫌な目に遭うシーンがあります。気分が悪くなりそうな方は飛ばして下さい。
しばらく歩くと、桐人は自分から口を開いた。
「……悪い。また黙り込んでしまったな。『赤マント』の話は、こんなものでよかったか?」
「もちろんです。なんか、小学校の頃を思い出しちゃいました。あの頃って、みんな怖い話が好きでしたよね」
「そうだな。あの頃は聞いた話を、まるごと信じていたしな」
今となってはバカバカしく聞こえる話も、当時は本気で怖がったものだ。
そこで朝葵は、一つの話を思い出した。
「先輩のところには、『ムラサキカガミ』っていう都市伝説ありました?」
「あったぞ。20歳とかまでその言葉を覚えていると、不幸が起こるというやつだろ」
『ムラサキカガミ』は、”紫鏡”という言葉を20歳まで覚えていると、死んでしまったり、呪われたり、不幸になったりするという都市伝説だ。
「私の実家らへんは、地区ごとに違う色があるとかになってて、10個くらいに鏡が増えちゃってたんですよね。私の地区は水色でした」
「吉良の地域は、必ず増やすんだな。うちは紫一つだけだったが……」
「地域性ですかねえ」
朝葵はのんきな声で言った。
(別に、今は何ともないなあ)
小学校の頃は、忘れられなかったらどうしようと怖かったが、中学生や高校生になると思い出しもしなかった。そして、今となっては全く怖くない。というより、もう20歳を過ぎていて、特に何も起きていないからだ。
「なんで20歳なんでしょうね」
「理由づけの話は色々とあるが……。要するに、成人ということじゃないか?」
「ああ、いわゆる『大人』ということですか……」
今では18歳で成人だが、以前は20歳が節目の年だった。『ムラサキカガミ』の怪談は、”紫鏡”を大人になるまでに忘れなさい、と忠告している。
朝葵は桐人に尋ねた。
「大人になったら忘れなければいけない”紫鏡”って、いったい何を表しているんでしょうね」
「”紫鏡”を何かの比喩と考えた場合か。面白いな。言い換えれば、”紫鏡”は、子どもだったら許されているものということか」
「そう言われると、いっぱいありそうですねえ……」
そこまで話したところで、朝葵の下宿が見えてきた。
「あそこか」
「はい、遠くまですみません」
下宿の階段の前で、朝葵は桐人に何度も頭を下げて礼を言った。桐人は「気にするな」と言って、駅の方に向かった。
「じゃ、また学校でな」
朝葵は、桐人の背中を見えなくなるまで見送った。
顔を合わせるのは、週明けになるだろう。それまでにお礼を用意しておかなくては、と朝葵は思った。
F川アカリは、バスから逃げて帰った日から、自宅に引きこもっていた。
何度か出勤しようとしたが、バスを見るのが怖くなり、外に出られなかったのだ。会社からは欠勤の理由を出すようにと言われているが、嘘すら思いつかなかった。
(どうしたらいいのか、分からない……)
アカリが会社を休むようになってから、一つのニュースが世間を賑わすようになった。5人の若い男女の遺体が、ある山中で見つかったのだ。
遺体の状態から、警察は他殺であると断定した。おまけに、全員がかつて同じ高校に通っていただけではなく、友達同士であったという情報が出回り、人々の興味を強く引いていた。
――ユウマ、リコ、ミナト、ヒナタ、コウキ……
TVのニュースで彼らの顔を見ない日はない。ネットニュースでも、常にトップに表示されていた。卒業アルバムの写真はすでに全員分が出回り、SNSから抜き取られた彼らの笑顔の写真も、これでもかと使われていた。
そして、ネットでは犯人捜しが始まった。
あっという間に、かつて彼らと同じ友達グループにいた女子生徒が、突然命を絶ったことが明らかになった。その女子生徒の写真も出回り、彼女が純朴な美少女だったことで、その死はいたく世間の同情を引いた。
その女子生徒と彼らの間に何があったのか、様々な憶測が飛んだ。彼女に関わりのある人間が犯人なのではないかと、まことしやかに囁かれた。
――忘れたかった。忘れてほしかった。
アカリもまた、かつて彼らと同じ友達グループに属していた。その中で、アカリ一人だけが生き残っていた。
誰が漏らしたのか、アカリのスマホには、知らない電話番号からひっきりなしに着信があった。実家からは、アカリへの連絡が山ほど来ていて迷惑だと、うっとうしそうな声の留守電が入っていた。
(頭が……痛いな……)
食事も喉を通らない。寝ようと思ってもすぐに目が覚める。
ぼんやりとした頭で、アカリは思い出した。あの時、ハルカもまた、こうやって布団をかぶって震えていたことを……。
――S原ハルカは、綺麗な子だった。
一人っ子で、父親は長距離のトラック運転手で不在がちだったから、パートの母親と2人で家事を分担しながら暮らしていた。
両親がまめに働いている理由については、
「私の大学資金とか、結婚資金とかを貯めてくれてるんだって。うちの親、私が小さい頃は苦労したらしくて、あんまり貯金できなかったらしいんだ」
そう、笑いながら話してくれていたのを覚えている。
両親の愛情を受け、ハルカも親孝行な子に育っていた。親への誕生日プレゼントを一緒に選びに行ったこともあるし、父親の休日には、遊びの予定を入れようとしなかった。
美人なのに気取らないハルカは、人気者だった。柔道部レギュラーで兄貴肌のコウキ、優しげなイケメンのユウマ、パソコンに詳しくて一目置かれていたミナト、お嬢様の雰囲気で男子に人気だったヒナタ、オシャレが好きで可愛いリコと一緒に、友達グループを作っていた。
私は、ハルカの幼なじみということで、グループに入れてもらっていたのだと思う。
ユウマとハルカが付き合い始めたのは、高校2年生の夏が始まった頃だった。
2人の時間が増えるに従って、グループで過ごす時間が減った。私たちは2階の教室から一緒に帰る2人を見下ろし、からかってちょっかいをかけたりしていた。
期末テストの前の頃だった。その日は、いつものように教室から2人をからかった後、みんなで少し雑談をしていた。テスト前だったから部活が休みで、「そろそろ勉強しないとなあ」などと言いながら、柔道部のコウキも珍しく参加していた。
すると、普段はニコニコとして何も言わなかったヒナタが、急に口を開いた。
「でも、ちょっと残念だわ」
「何が残念なの、ヒナタ?」
リコがヒナタに尋ねた。ヒナタは、軽く目を伏せた。ヒナタはハルカに負けず劣らずの美人で、その憂いを含んだ表情に、コウキはすっかり見とれていた。
「本当は私も、ユウマが好きだったの」
――透明な水に、黒いインクがぽたりと一滴、落とされたかのようだった。
その言葉は、あっという間に私たちの中に入り込み、毒のように蝕んだ。このときから、私たちの歯車が狂い始めたのだ。
「それ、どういうことだよ、ヒナタ」
コウキが焦って、ヒナタの方に身体をずいっと寄せて聞いた。ヒナタは、目を伏せたまま窓の方を向いていた。
「でも、今、ハルカたちは幸せなわけだから……。ごめんなさい、余計なことを言ったわ」
「いや、気になるだろ」
「そうだよ。ちゃんと言っとこう? 友達なんだから……」
コウキとリコがヒナタを囲んで質問攻めにしている一方で、ミナトは驚いた表情をしたまま黙っていた。眼鏡の奥で、何か別のことを考えているようだった。
何かが、じりじりと近づいてきていた。どくん、と心臓が跳ね、訳の分からない不安が胸に湧いた。でも、どうすることもできず、私は、ただそこにいた。
ヒナタはためらいがちに、少しずつ語った。ユウマと自分は惹かれ合っていて、お互いの距離を少しずつ縮めていたところだったが、ハルカがそこに入り込んで、無理矢理ユウマと付き合ってしまったのだと。
(ええ……)
そんなわけはなかった。私が見たところ、ユウマはずっとハルカのことが好きだった。2人が付き合ったのも、ユウマの方が積極的に行ったからだ。
それに、ヒナタがユウマのことを好きだというのも疑問だった。そんな素振りを見せたことはなかったし、ヒナタはステータスの高い年上の男性の方を好んでいた。
しかし、ヒナタのことが好きだったコウキは、完全にヒナタの言うことを信じていた。
「ハルカって、そういうやつだったのか」
「え~、でも、前からそうじゃない? ね、ミナト」
「え、う~ん、どうだろう……」
ミナトは、密かにハルカに告白したことがある。しかし、ハルカはきちんと断っていた。
「私さ、他の子からも聞いたことがあるよ。ハルカってちょっと性格悪いって……。中学校の頃も、同じようなことしてたって……」
「なんて奴だ。許せねえな」
リコは、その場に合わせて適当な嘘をつく癖があった。中学校も一緒だった私は、ハルカが誰とも付き合っていなかったのを知っている。
リコは、ハルカに微妙な感情を抱いていた。ヒナタとハルカがいる限り、自分は『一番可愛い女子』になれない。それに、ユウマに選ばれなかったことも不満だったようだった。
そのとき、ちらりとヒナタが私を見た。ヒナタはかすかに微笑んでいた。
――あなたは、どうするの?
そう、問われた気がした。私は……
次の日の放課後、私たちはユウマとハルカを教室に呼び出した。
コウキは机に座り、ヒナタは奥の椅子に座っていた。リコはヒナタを守るように立ち、ミナトと私はドアの近くに立っていた。
私たちに囲まれた2人は、意味が分からないようで、顔を見合わせて戸惑っていた。まず、コウキがハルカに向かって口を開いた。
「ハルカ、お前って最低の奴だったんだな。横入りすんなよ」
「……? 何のこと」
急にコウキに責められ、ハルカは眉をひそめた。
「盗ったんだろ、ユウマのこと。ヒナタが可哀想だと思わないのか」
ハルカは、まだコウキの言っている意味が分からないようで、眉間にしわを寄せたまま黙っていた。ユウマはコウキとハルカを交互に見ながら、おろおろとしていた。
「何とか言えよ! この淫乱女!」
ばあん!
ハルカが黙っていることに苛立ち、コウキが机を叩いて、大きな声を出した。ハルカはちょっとピクッと動いたものの、きっとコウキを睨み返した。
「言っている意味が分からないよ。何、私がユウマを盗ったって」
分かるわけがない。コウキはヒナタの狂言を元に話しているのだから。
「おい、ユウマ。お前もこうなったら、正直に言っていいんだぞ。この女に押し切られたんだって……」
「え? いや、その……」
ユウマも状況が掴めなかったようで、どういうことだとばかりにヒナタの方を向いた。すると突然、ヒナタは手で顔を覆った。
「ひどいわ、ユウマ」
そう言って、ヒナタはすすり泣くような声を出した。涙が出ていたかどうかは覚えていない。コウキはヒナタが泣き出したと思い、ユウマに詰め寄った。
「お前、ヒナタを泣かせてんじゃねえよ」
「……私だってユウマのことが好きだったのよ。それなのに、ハルカと付き合い始めて……。私、悲しかったわ」
「ユウマ、そうなんだろ。ヒナタの方が好きだったんだろ」
コウキに胸ぐらを掴まれ、ユウマはただ口をぽかんと開けていた。そのまま『そうじゃない』と言いさえすればよかったのに、ユウマの口からは違う言葉がこぼれだした。
「あ……ヒナタ、泣かないで……」
ユウマは弱い男だった。ハルカのことが好きだったのに、目の前で弱い姿を見せるヒナタを見捨てられなかった。ユウマは、泣いているヒナタを慰めようと、ふらふらと歩いて行った。
――ハルカを置いて。
ハルカの目には涙が滲み、足はぷるぷると震えていた。
「あんたたち、最低。もういいわ。こんなところにいられない」
「ハルカ、待って」
私は思わず声を出したが、ハルカは踵を返し、教室を出て行こうとした。ユウマがハルカを追いかけようとしたとき、ヒナタが誰に言うともなく、ぽそりと言った。
「いいの? ハルカ、誰かに話すかも……」
その言葉の意味することを理解したとき、コウキが立ち上がり、ハルカの腕をがしっと掴んだ。
「痛いよ、離して!」
ハルカは涙を見せまいと、私たちから顔を背けていた。しかし、コウキはそんなことには構わなかった。
「うるせえ、お前、あることないこと周りに言う気だろ」
「そんなことしないわよ、バカにしないで」
「信じられるか」
コウキは『男らしさ』を自慢にしており、プライドが高かった。だから、ハルカがグループの評判を下げることを恐れた。
私たちの中でハルカは「最低の女」になっていたが、他の生徒にとってはそうではない。1人の女子を大勢で囲んで責めたなどと知られれば、こちらが「最低」になるところだ。
「ね、ねえ……。ちょっと、口止めした方が……」
リコがおずおずと言った。
「ハルカは淫乱女なんだからさ。裸にしたって気にしないよ……、きっと」
その言葉を聞いて、さすがにハルカが顔色を変えた。
「ちょっと、やめてよ!」
「ミナト、こいつを押さえろ。リコ、手伝え!」
夏の暑い教室の中、私たちはおかしくなっていたんだと思う。
「みんな、何言ってるの、やめて!」
「うるせえ!」
ハルカをかばおうとした私は、コウキに突き飛ばされた。その勢いで机にぶつかり、頭と背中を強く打った。痛みで動けず、かすんだ視界に映ったのは、鬼と化した友人たちの姿だった。
リコとミナトに押さえられたハルカは、コウキに服を脱がされた。ヒナタがミナトのスマホを借り、あられもない格好のハルカの写真を撮った。
いや、もっとひどいことも行われた。コウキのものを咥えさせられたハルカは、その後嗚咽とともに吐いた。
ユウマは真っ青になったまま、立ち尽くしていた。
全てが悪夢のようだった。
――あの時、私たちはハルカの心を殺したのだ。
お読みいただいてありがとうございます。次も、ハルカの話が続きます。引き続きお読みいただけると嬉しいです。