第七話 赤マント
少し長いですが、途中で切るとキリが悪かったので、一話にまとめてあります。
朝葵がアメを食べ終わった頃、桐人が口を開いた。
「ヒダルガミは、四つ辻や峠で出合うことが多いんだ。要するに、交わるところや境界にあたるところだな」
「境界ですか。境界には、怪異がよく出ると聞きますね」
人々にとって、自分たちがよく知っている世界の外は『異界』だ。だから、現実世界における境界は、そのまま異界との境界でもある。
境界に近づけば、必然的に異界の住人と出合いやすくなるのだ。
「そうだな。境界にあたるところはたくさんある。四つ辻や峠だけじゃなく、村境、川や海などの水辺、橋……」
朝葵はそれらの場所を思い浮かべた。どの場所も、怪談の舞台になっていそうだった。
「……それから、厠だな」
「厠……トイレも確かに昔から怪談が多いですね」
(小さい頃見せてもらった、古いトイレ怖かったもんなあ)
古い汲み取り式の便所は、薄暗い個室の中、ぽっかりと深くて暗い穴が開いている。先の見えないその穴は、そのまま異界へとつながっているようだった。
「学校のトイレだと、花子さん、赤マント……と、都市伝説にも事欠かないな」
「わあ、懐かしい。私子どもの頃、トイレの赤マントの話が怖かったんですよねえ」
「トイレの中で『いるか?』と聞かれるやつか?」
「それです」
『赤マントの怪談』では、トイレに入ると「赤いマントはいらないか」と声をかけられる。それに「いる」と答えれば、赤いマントを羽織ったかのような血を流して殺されることになるのだ。
地域によっては、マントが半纏やちゃんちゃんこに変わっていたり、赤や青などの色を選ばせる話になっていたりすることもある。色を選ぶ場合は、『青』は溺死になるなど、その色に応じて殺される方法が変わる。
「うちの小学校はマントじゃなくて、ベストでしたけど。あと、色も、赤と青と黄と黒と銀と白がありましたね」
「……吉良の学校は、だいぶ内容が発展したんだな。黒と銀はなんだ?」
「『黒』は黒コゲで、『銀』はナイフで刺される、だったと思います」
「『白』は助かる色か?」
「そうです。だから、あの頃はとにかく『白』って言おうと思ってて」
「まあ、そうなるよな」
トイレで声をかけられること自体も怖いし、答えを間違えると殺される状況も怖い。小学生の朝葵は、逃げ道があることは知っていても、一人で学校のトイレに行くのは怖かった。
(今はさすがに……)
明るくて綺麗な水洗トイレでは、怪異が出るような想像をすることもない。それよりは、盗撮などの犯罪の方が怖かった。
「トイレくらい、落ち着いて使わせてほしいなあ」
朝葵は、桐人に聞こえないくらいの声で、ぽそっと漏らした。
――D居コウキは、職場の後輩と総合格闘技の試合を観戦し、帰る途中だった。
「まだ明るいなあ」
昼から観戦し、終わったのは夕方だった。試合の興奮は、まだコウキの身体に残っている。
対戦相手のマウントを取り、顔を何度も殴りつける選手の姿を、コウキは頭の中で何度も反芻していた。競る試合が好きな人間もいるが、コウキは短くてもKO勝ちを好んだ。
圧倒的な力で相手をねじ伏せる選手たちを見ていると、自分まで偉くなった気がした。
――やっぱり必要なのは、力だ。
「よかったなあ、あの絞めも」
そう言いながら、コウキは後輩の首に腕を回し、絞め技をかけた。
後輩は、やめてくださいよ、と言い、もがいて逃げようとした。コウキはさらに力を入れ、「大丈夫、俺は元柔道部だぞ」と、笑いながら言った。
高校生の頃、コウキは柔道部に属していた。体格が良く、器用だったコウキは、レギュラーとして活躍していた。
しかし、あの時から部活に行きづらくなり、結局やめてしまった。かつての筋肉は、今やむっちりとした脂肪に変わってしまっていた。
「せっかくだから、少し飲んでいこうや」
駅前の賑やかな通りまで来ると、気の乗らなそうな後輩を引っ張り、コウキは近くの居酒屋に入った。
席に着くと、コウキはハイペースでビールを飲んだ。酔うとコウキはいつも、高校時代の話をした。
自分は柔道部のレギュラーだったし、友達グループには人気者が多かった。自分はグループのリーダー的存在で、皆が自分を頼っていた。いわゆるスクールカーストの上位にいた高校の頃は、本当にいい時代だった……。後輩は、コウキの自慢話をつまらなそうに聞いていた。
ジョッキを4~5杯空けると、コウキは下腹部がむずむずとし始めた。
「トイレ行ってくるわ」
話から解放されてほっとした表情の後輩を残し、コウキはトイレの方に向かった。あまり大きくない居酒屋のトイレは男女兼用で、扉には小さなベルがついていた。
コウキが扉を開くと、カランカランと音がした。
(うるせえな)
ベルをつけているのは、トイレに人が入ったことを店員に知らせるためだろう。酔いつぶれた人間が中で倒れていることもあるだろうし、店としては把握しておきたいのかもしれない。
コウキが中に入ると、左に小さな洗面台があり、奥が薄い板で仕切られて個室となっていた。便器は洗面台と同じ方向に向いていて、足元の方は、個室の扉を押して開くのに十分な広さがあった。
コウキは個室に入り、スライド式の鍵を閉めた。
(ふう……。もう少し飲んだら、帰ろうか。ユウマみたいになっちまうからな)
ユウマほどではないが、コウキも機会があれば酒を飲んでいた。コウキが酒浸りにならなかったのは、金はかかるが、格闘技観戦の趣味があったからだ。
試合に集中して熱狂していると、頭の中の嫌な思い出は薄れた。ぶつかりあう肉体は、生きている人間は強いのだと信じさせてくれた。
用を足すと、コウキは個室から出ようと、鍵を戻して扉を引いた。しかし、扉は全く動こうとしなかった。
「あ? 壊れてんのか、クソッ」
コウキは取っ手を掴んで引っ張ったが、扉は接着でもされたかのように、びくともしなかった。両手で渾身の力を込めても、やはり扉は動かなかった。
自分が酔っているにしても、さすがにおかしい。
(何なんだ、いったい……)
「おい、開けてくれ! 誰か!」
トイレから出られないなど格好が悪いが、扉が壊れているのは店が悪い。コウキは扉を叩き、大声を出して人を呼んだ。
すると、扉の下の隙間に、すっと影が見えた。人が来た、と思い、コウキは呼びかけた。
「あ、あんた。ここの扉が開かないんだ。手伝ってくれ。」
『最低』
「え」
聞こえたのは、女の声だった。聞き間違いかと思い、コウキはもう一度呼びかけた。
「すまないけど、扉をそっちから押してくれないか」
『あなたなんて助けない』
女は、コウキの言葉に返事をしているようだった。とはいえ、あまりな言い方だ。
(なんで、そんなことを言われなくちゃならないんだ)
コウキには、女から恨みを買う覚えはなかった。
……いや、1人だけいる。でも、あの女は……。
『許さない』
この声を、この口調を、コウキは聞いたことがあった。
コウキの頭の中を、1人の女の顔が占めた。
「ハルカ……」
――そういえば、この女がトイレに入ってきたとき、ベルの音はしなかった……。
コウキの下半身が、ヒュッと縮み上がった。
(そんなわけはない、まさか、まさか……)
扉の向こうの気配が濃くなり、コウキは後ずさりをした。
その瞬間、扉が激しく殴られたように、バン!と鳴った。
『許さない、許さない、許さない、許さない』
女の声はいっそう低くなり、そこに込められた怒りが、ふつふつとコウキに伝わってきた。コウキはつま先立ちとなり、背中をべったりと奥の壁につけた。
だらだらと背中に冷たい汗が流れ、コウキの薄いTシャツを濡らした。ビールで得た軽い酔いなど、とっくに覚めてしまっていた。
「ハルカ、悪かった。俺が悪かったから……」
(だから、ここから出してくれ、もう終わってくれ!)
コウキは涙目になって扉を見つめ、ハルカに必死に謝った。扉の下から、先程よりも黒く、濃くなった影が、コウキの足の方まで伸びてきていた。
『……私の話は聞いてくれなかったのに』
ハルカの冷たい声が響いた。
扉はまだ開いていない。それなのに、憎しみをこめて自分を睨みつけるハルカの姿が、コウキの目には見えていた。
(あのときと、同じ目だ……)
ハルカはかつて、同じような目でコウキを睨んでいた。目から涙は流れていたが、燃えるような怒りが伝わってきた。その時、コウキは気圧されて、思わず少しだけ後ずさってしまったのだ。
――その事実に、耐えられなかった。自分が、女に負けるなんて。だから……
今のコウキは扉に近づくこともできず、トイレの個室で壁に張り付いて震えていた。猫に追い詰められたネズミさながら、みじめに追い詰められていた。
『あなたには選ぶ自由があるの?』
影はもう、コウキの足に届いていた。
「……トイレに出るのは怪異だけじゃないからな。女性は特に、不安になることも多いだろうな」
桐人は、若干きまりが悪そうに言った。
「あっ……。まあ、そう……ではあるんですけど。でも、トイレは無いと困るものですし」
朝葵は慌てて、ちぐはぐな返答をしてしまった。どうやら、先程の独り言は桐人に聞こえていたらしい。変質者がいるのは桐人のせいではないが、男性として申し訳ないと考えているのだろう。
「えーと、そうだ。どうして、赤マントの話はあんなに物騒なんでしょうね。こちらが何をしたわけでもないのに、殺意が半端ないじゃないですか」
朝葵は、無理矢理に話題を変えた。桐人は、軽く首をひねった。
「確かにな。古い怪談だと『触られる』というのが主流だからな」
「そうなんですね。」
触られるのも勘弁だが、殺されるよりはましかもしれない、と朝葵は思った。
「『赤マントの怪人』と混ざったのかもしれないな。色を選ばせるトイレの怪談は、『赤い紙やろか、白い紙やろか』のパターンもあるし、こっちの方が原型に近いかもしれないし……。厠神との関係も……」
桐人はぶつぶつと言いながら、歩みがゆっくりになり始めた。どうやら、トイレの怪談というのは、桐人にとって意外と深いテーマのようだった。
(あ、止まっちゃう)
桐人が考え込むのは構わないのだが、彼の帰りが遅くなるのは心配だ。朝葵は桐人の気を引くため、少し前に進んで、横からひょいと桐人の顔を覗き込んだ。
「先輩。私、『赤マントの怪人』のこと知らないんですけど」
「ん?」
朝葵の顔が突然近くに来たので、桐人は少し驚いた顔をした。そして、自分が動きを止めそうになっていたのに気づいたようだった。朝葵はにっこりと笑って言った。
「教えていただいてもいいですか?」
「ああ……すまない」
歩く速度を元に戻し、桐人は話を続けた。
「……『赤マントの怪人』は、昭和初期に流行った怪談だ」
「え、結構古いんですね」
「そうだ。赤いマントを羽織った怪人が、子どもや若い女性をさらって殺す。正体が吸血鬼だという噂も流れた」
「それじゃ、怖くて外を歩けないですね……」
小学生のときなら、朝葵は「学校に行きたくない」と駄々をこねていたかもしれない。
「何か、モデルになった事件でもあったんですか」
「はっきりとは分かっていないんだが……。まず、赤マントの噂が出てくる少し前に、二・二六事件が起きている」
「ああ、その頃なんですね。と、すると、二・二六事件が影響したんでしょうか」
「そうかもしれないな。血なまぐさい事件だからな」
二・二六事件は、昭和11年に陸軍の青年将校がクーデターを起こし、要人たちを襲った事件である。数名の死傷者が出ただけではなく、投降した青年将校や思想家たちも銃殺刑に処された。
朝葵にとっても、軍人のマントや、血が流れるイメージが『赤マント』に発展していくのは、ありそうに思われた。
「それから、明治に起きた『青ゲットの男事件』なども、モデルになったんじゃないかと言われてる」
「青ゲット?」
ゲットとは、ブランケットの略である『ケット』からきていて、毛布のことだと桐人が教えてくれた。
「明治に福井県で起きた事件なんだが、青いケット……つまり毛布をかぶった男が、雪の中現れ、家族3人を連れ出して殺した。犯人は見つからず、迷宮入りしている」
「迷宮入り……ですか」
「……彼らが連れ出されたと思われる橋の上で、雪が血で真っ赤に染まっているのが見つかったそうだ。見つかった遺体には切り傷があり、凶器は刃物だと考えられている」
「うわあ……。凄惨ですねえ……」
毛布を深く被った男と、刃物、大量の血。これもまた、『赤マント』につながりそうなイメージだった。
「犯人が捕まっていないということは、次の犯行があり得るということだ。だから、近くの人間は怯えていただろうな」
「そうですよね。殺人犯が潜伏していると思ったら、安心しては過ごせないです……」
闇に潜む犯人は、次の獲物を狙っているかもしれない。それが自分ではありえないと、誰が断言できるだろうか。
「『赤マントの怪人』も、無差別に殺人を繰り返すだろう。『青ゲットの男』みたいな未解決事件の内容や、世間の不安なんかを取り込んで、『赤マントの怪人』が生まれてきたのかもしれないな」
「なるほど……。その怪人の話の影響もあって、トイレの怪談は物騒になっちゃったんですかね」
「そうかもな」
朝葵に返事をしたあと、桐人は、少しの間黙っていた。
「……『赤マントの怪談』では、色を聞くだろ。答えによっては助かる」
「うちの地域の『白』みたいなものですね」
「でも俺は、本来の正解は交渉などせず、逃げることだと思う。安全なところまで逃げ切れば、命は助かる」
「逃げるが正解……ですか」
桐人はいつもより早口で、声には、心なしか焦りがあった。
「そうだ。殺す気満々の通り魔は、『死にたいか、死にたくないか』なんていう選択を迫ることはない。そんな質問が出てくるのは、殺そうかどうかを迷っているときだけだ」
「確かに……そうですね」
「だから、怪異だろうと何だろうと、そもそも近づかないことだ。近づいてしまったら、とにかく逃げることを優先すべきだ」
「はあ」
桐人はそこまで一気に言うと、いつもの穏やかな声に戻った。
「吉良も、危ないと思ったら、迷わず逃げろよ」
朝葵は、胸がざわりとした。桐人の声は優しいのに、何か違うことを考えているように思えた。
「……先輩、どうしたんですか?」
「いや、なんでもない」
桐人は、その後再び黙りこんだ。しかし、足を止めることはなかったので、朝葵も口を閉じ、隣をそのまま歩いた。
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