第六話 ヒダルガミ
朝葵に余裕がでてきたのかもしれません。
コンビニのある角を通り過ぎ、2人はまっすぐに進んだ。
「さっき、お赤飯とか、おいなりさんの話してたじゃないですか。私、なんだかお腹が空いてきました」
「そんなにしてたか? 夕飯ならみんなで買ってきて食べたろ」
「そうなんですけど……。夜が深くなると、お腹空きません?」
「分かるがな」
日が変わるまではもう少し時間があるが、こんな時間に食べるのは身体によくない。そう思いつつ、朝葵は家にストックしてあるカップラーメンに思いを馳せた。
「……帰ったら何か食べようと考えてないか?」
「何で分かるんですか」
「なんとなくな」
(先輩、勘がいいからなあ)
桐人は、普段は自分から朝葵に声をかけてくることはほとんどない。しかし、朝葵が人間関係で疲れているときなどには、「疲れてないか?」と言って、的確に当ててくる。そこから話を聞いてもらうことになることも多い。
(優しいし)
他人に興味がなければ、他人の状態に気づくことはない。桐人は社交的ではないため、関わりの少ない人には人嫌いだと認定されてしまうことが多い。けれども朝葵は、桐人が話さないだけで周りはよく見ており、陰ながら仲間を気遣っていることを知っていた。
「……ヒダルガミ」
「え?」
「歩いている途中で、急に腹が減る怪異だ。それにでも、取り憑かれたんじゃないか」
「違いますう」
朝葵がぷうと膨れると、ふふ、と桐人が柔らかい声で笑った。
「でも、何ですか、その迷惑な怪異」
「元々『ひだるい』というのが、空腹という意味らしいんだが……」
――N野ヒナタは、ホテルを出て夜の街を歩いていた。
教授は先に出て、ホテルの支払いを済ませてくれていた。ホテルに行く前は、洒落たディナーもご馳走してもらった。
ヒナタにとって、それは当然のことだった。
(若くて綺麗な子と遊べるんだから、当たり前よ)
落ち着いた色合いの、清楚なワンピースを身につけたヒナタは、育ちのいいお嬢さまのように見えた。大学に入ってから伸ばした髪も、男性には評判がよかった。
ヒナタに言い寄る男子は多かったが、ヒナタは30代の教授と隠れた関係を続けていた。
ヒナタは、別に教授が好きなわけでもなんでもない。将来を嘱望されるエリート教授が自分の思い通りになれば、大学での生活が楽になるかと思っただけだ。
ただ、教授を落とすまでの過程は、ゲームのようで楽しかった。まずは自分に関心を向けさせる。それから、相手を慕っているようなふりをしながら、妻への小さな不満をひとつずつ、確実に引き出していく。そして、少しずつ”ごほうび”をあげながら、自分の手に堕ちてくるのを待つ……。
ヒナタは、このゲームが大好きだった。
獲物が手に入った瞬間は、何にも代えがたい快感が身体に走った。
(まあでも、もうそろそろ教授とは終わりね)
教授の妻が、2人の関係に感づいてきているらしい。
今日その話をされたとき、教授は未練たらたらだったが、ヒナタ自身はどうでもよかった。ヒナタは、獲物をコレクションするタイプではないのだ。
ここまでくれば、涙の一つでも流して殊勝に身を引けば、教授はヒナタに心を残したままになる。そうなれば、わざわざ関係を続けなくても、欲しいものは手に入るというわけだ。
「奥様を大事にして」と言うヒナタの手を握り、「ありがとう」と裸のまま涙を流す教授は滑稽だった。
(面倒なことは嫌いよ)
ヒナタは、関係がややこしくなりそうだったら、すぐに切ることとしていた。以前、それで痛い目に遭ったからだ。
(次は、誰にしよう……)
候補は何人かいる。皆、妻かパートナーがいる。そうでなくては面白くない。
大事なゲームだ。獲物は、じっくりと選ばないと……。
わくわくとした期待が心を占め、ヒナタは口元が緩んだ。明かりの消えたショーウィンドウに映るヒナタの姿は、無垢で可憐な女性にしか見えなかった。
ヒナタは駅までの近道をするために、小路に入った。ビルの間の狭い通りは、窓ガラスから漏れる常夜灯だけが頼りだった。
(やっぱり、大通りから行けばよかったかしら)
表通りの賑やかさからも隔てられ、しんとした静かさが、ヒナタの不安をあおった。ここを歩くのは、ヒナタのような若い女性は危ないかもしれない。
ヒナタは足早に通りを抜けると、十字路にさしかかった。そこで、ヒナタはびくっとして足を止めた。十字路の真ん中には、暗がりの中、人が一人立っていた。
(何なの、こんなところに立って……)
顔は暗くてよく見えなかったが、ヒナタの方を向いて立っているようだった。
ヒナタは、その人間のそばを通り過ぎるのもためらわれ、立ち止まってしまった。すると、声だけがはっきりとヒナタの耳に届いた。
『人のものを盗るのは楽しい?』
「ひっ……」
ヒナタは、肩にかけたバッグの紐をぎゅっと握りしめた。
『ねえ……。まだ、足りないの』
女の声だった。
ぐるぐると考え、ヒナタが思い当たったのは、教授の妻だった。
ここにいるということは、教授の相手がヒナタだと、すでにばれているのだろう。
「……私、先生とはもう、お別れしますから……」
そんなことを今さら言っても、妻は納得しないだろう。
自分たちが尾行でもされていたのだろうか。ヒナタは、やっぱりもう少し早く、教授を切っておくべきだったと悔やんだ。
ヒステリックな女の声が飛んでくるかと思いきや、沈黙が続いた。
ヒナタが少しずつ後ずさりながら、立ち去るタイミングを計っていると、また、女の声がした。
『……ヒナタは誰も好きじゃないのに』
(……?)
その女は、ヒナタを名前で呼んだ。そこにいるのが教授の妻なら、ヒナタに対して、こんな親しげな呼び方をするだろうか。
ヒナタに女友達はほとんどいない。あの時から、誰とも深い付き合いをしなくなった。家族を除けば、ヒナタを名前で呼ぶ人間は、高校以来いないのだ。
ヒナタを『ヒナタ』と呼んでいたのは、アカリ、リコと……
『欲張りなのよね』
――ハルカ。
『もう、させない』
いつの間にか、女はヒナタの方に近づいてきていた。目と鼻の先にいるはずなのに、その顔は暗くて見えなかった。
女は、ヒナタの首にゆらりと両手を伸ばしてきた。握った手にはじわりと冷や汗がにじみ、逃げなければと気が急くのに、ヒナタの足はすくんで動かなかった。
(そんな、そんなバカな)
ヒナタの白く、細い首に、ひんやりと冷たい手の感触がした。薄れていく意識の中で、ヒナタは高校の頃を思い出していた。
「……ヒダルガミに憑かれると、急に耐えられないほどの空腹に襲われる。それで、一歩も進めなくなる」
「むむ……。でも、そこまではお腹空いてませんから、私は大丈夫ですね」
「それは良かったな」
こんな夜に、道の途中で動けなくなるなんて勘弁してほしい。
「ヒダルガミ……というからには、神様なんですか?」
「どちらかというと、御霊信仰における神様だな」
「じゃあ、亡くなった人の霊ということですか」
御霊信仰というのは、非業の死を遂げた者の祟りを恐れて、その人物を神として祀る信仰のことである。
「どういう人たちが、ヒダルガミになるんでしょう」
「不幸な死……、この場合は道や食べ物に関わるだろうから、いわゆる行き倒れとか餓死者だろうな」
「うう……。考えただけでつらいですね……」
小腹が空いただけでも我慢するのはつらいのに、死ぬほどの空腹というのは、どんなに苦痛だろう。つい想像してしまい、朝葵は自分までもが激しい空腹感に襲われているような気分になってきた。
朝葵がなんとなく胃をさすりながら歩いていると、分かれ道にさしかかり、桐人が朝葵に尋ねた。
「ここは、まっすぐか?」
「あ、はい。そのまままっすぐです……」
(あ、そういえば、あれがあった)
「ヒダルガミの対処法はないんでしょうか?」
「一口でも何か食べるといい、というのが有名だな」
「ようし。じゃ、先輩にもこれあげます」
朝葵は、背負ったリュックをくるっと前にやると、中からアメを2つ取り出した。1つを桐人に渡すと、桐人は「何だ?」と言いつつ、素直に受け取った。
リュックを戻しながら、朝葵は言った。
「アメです。私の常備薬です」
「薬ではないだろ。……まあ、ありがたくいただいておくな」
朝葵と桐人は、少し立ち止まり、アメの包装を開けて口に入れた。口に甘さが広がると、朝葵は先程の激しい空腹感がやわらいでいくような気がした。
「冷や汗が出たり、手足がしびれたりといった症状が出るという話もあるから、低血糖を起こしている状態なんじゃないかとも言われてる。アメは間違いじゃないぞ」
「あ、なるほど。それなら物を食べるのは正解ですね」
朝葵はふふんと胸を張った。そして、こっそりと背中のリュックに手を回し、もう一つアメを取り出した。
「山道でなりやすいというのも、状況的に合っているしな」
「もご……。登山とかマラソンとかで、低血糖になることがあるらしいですしね」
朝葵の口の不自然な動きに、桐人が気づいたらしい。
「……今、もう一つ食べたか?」
「……これで、やめときます」
朝葵は口に入った2つのアメを、少しの間おとなしくなめていた。
お読みいただいてありがとうございます。次は、有名な怪談の話になっていきます。引き続きお読みいただけると嬉しいです。