第五話 異界の駅
『きさらぎ駅』などの話は、異世界の雰囲気があって好きです。
しんとした夜の中、カタンカタンと電車の音が遠くに聞こえた。朝葵は線路の方向に軽く目をやると、桐人に声をかけた。
「先輩は電車通学なんですよね」
「ああ」
「先輩の降りる駅までは、何駅くらいあるんですか」
「1駅だな」
「じゃあ、ほんとに近いんですね」
「歩いてでも帰れるぞ」
(1駅先だと、わりと高級住宅地だけど……)
桐人はあまり自分の家の話をしない。そもそも人と話をすることが少ないのだが、聞いてもはぐらかすことが多かった。
(先輩にも、何か事情があるんだろうな)
気にはなるものの、朝葵は無理矢理に聞き出す気にはなれなかった。朝葵は話を変えることにした。
「このあたりの終電って、何時くらいまであるんですか?」
「0時過ぎまである」
「そんなにあるんですか。23時台までかと思ってました」
「この時間でも、仕事帰りの人がぼちぼちいるからな」
「そうなんですねえ……。大変だなあ」
朝葵は就職を希望している。順当にいけば、2年後にはもう社会人だ。朝葵は軽くため息をついた。
「就活どうしたらいいか、悩んでるんですよ」
「就職するのか」
「そうですね。ちょっと院は……」
「教授としては、吉良には院に進んでほしいみたいだったが……」
「ははは……、光栄です」
桐人は大学院に進むことが決まっている。そのためか、院生や教授と話をしているのを時々見かけた。
(いいなあ。でもなあ)
朝葵の次には、弟の大学進学が控えている。親はどちらでもいいと言ってくれているが、これ以上の負担はかけたくない。早く自立するために、やはり就職をしたかった。
「私、社会人やっていけますかねえ」
朝葵はため息をついた。まずは内定をもらうことが重要ではあるが、社会人になっている自分も想像がつかない。
「まあ、大丈夫じゃないか。お前は真面目だし……」
「終電まで働いたら、私、絶対寝すごしちゃいますよ」
「そっちか」
今だって、くたくたなのだ。遅くまで仕事をした時の疲れは、半端ではないだろう。朝葵は決まってもいない未来を想像しては、心配になっていた。
「……無防備に居眠りして、知らない駅どころか異界の駅に着いても知らないぞ」
「異界ですか?」
「聞いたことあるだろ。電車に乗っていたら、いつの間にか知らないところに着いていた……とか」
「ああ、『きさらぎ駅』とかですか。変なところに着いちゃうんですよね、確か」
「家に帰るまでは油断するな、ということだな」
(そうだった。先輩は私が遅くまでいたから送ってくれてるんだった)
「そうですね、気をつけないとですね」
確かに自分は危機感が足りないのかもしれないな、と朝葵は思った。
――E山ミナトは、外が暗くなったのを確かめてから、コワーキングスペースを出た。
ミナトは専門学校を出た後、フリーランスのエンジニアになる道を選んだ。フリーランスでも会社に常駐して働く者はいるが、ミナトは請け負った仕事を好きな場所で片付けては納品する、いわゆるノマドワーカーの形を選んでいた。
ミナトは、家から5駅離れたこのスペースを、仕事場としてよく利用していた。会員だから安く使えるし、カフェとして簡単な食事くらいは出してくれるからだ。
(もう少し、近ければ楽なんだけど)
だが、この5駅という距離が守ってくれるものもある。ミナトは、毎日家に帰るのが憂鬱だった。
この前は、久しぶりに帰省してきた兄に「どうして正社員にならないんだ」と諭された。正社員を目指せば生活ももっと安定する、いつまでも親に甘えるなと。
――放っておいてほしい。
正社員になれば、人間関係が固定してしまう。それだけはごめんだ。ミナトは、できるだけ人と深く関わらないようにしてきた。
兄は知らない。ミナトが隠し持っている秘密を……。
ミナトは、仕事用のノートパソコンの他に、家にデスクトップのパソコンを持っている。高校生の頃からミナトの部屋にあるそのデスクトップには、古いUSBメモリが刺さったままだ。
(あの日から、1度も電源を入れていない……)
とっくの昔に、処理しないといけなかったデータがある。しかし、ミナトはどうしてもパソコンを起動させることができなかった。そうして、ずるずると3年が経った。
悪夢のような日々だった。
駅に着くと、ミナトは次の列車を電光掲示板で確認した。少し時間がある。ミナトは、階段でホームに上がると、待合室に入った。
ガラス張りの待合室は空いており、ミナトはリュックを膝に置いて、ベンチに座った。扉が閉まると中は静かで、ホームに流れるアナウンスも遠く聞こえた。
ミナトは、駅の待合室が好きだった。この中にいると、ガラスが現実の世界とミナトを隔ててくれる気がした。
(夢ならいいのに)
すべてが夢だったらよかった。目が覚めたらこの悪夢が終わり、高校生に戻っているんじゃないだろうか。そんな白昼夢を何度見たことか。
『卑怯者』
(えっ……)
すぐ近くで女性の声がして、ミナトはびくっと身体を震わせた。
待合室の中には女性が1人いたが、ミナトには関心がなさそうで、下を向いてスマホを触り続けていた。
(音漏れか?)
『卑怯者、卑怯者、卑怯者』
(……!)
ミナトはリュックを抱えたまま、ばっと立ち上がった。もう一度女性の方を見たが、女性は立ち上がったミナトをちらっと見ただけで、またスマホの方に目を落とした。
(この人じゃない)
ミナトが慌てて待合室を出ると、ちょうど普通列車がやってきた。ホームに並んでいる人はなく、その列車の中に、ミナトは飛び込んだ。
車内はガラガラで、ミナトは長椅子の真ん中にどさりと座った。
そして、抱えたリュックに顔をうずめた。
(あの声は……)
――ハルカだ。この3年、1日だって忘れたことのない……。
リュックの黒色で、ミナトの視界は真っ暗だった。その闇の中に、高校生の頃の自分たちが浮かび上がってきた。
ミナトたちの友達グループは、学年の中でも人気者が集まっていた。ミナトは別段人気があったわけではなかったが、パソコンを使うのが得意だった。だからグループの中で、それなりに重宝されていた。
あの頃ミナトは幸せだった。同じグループに、ハルカがいたから……。
ずん。
突然、ミナトは頭と肩に押さえつけられるような力を感じた。まるで、重力が急に強くなったかのように、ミナトは身体を動かすことができなかった。
(な、なんだ)
ぐぐっと力を入れ、何とか顔を上げようとすると、かろうじて自分の足元が見えた。
その時、ミナトは自分の上に影が落ちるのを感じた。ミナトの狭い視界の中で、自分のスニーカーと向かい合う、黒いローファーのつま先がちらりと見えた。
女子高生の指定靴のような……。
『ミナトの卑怯者』
ハルカの声だ。頭の上から、じっと睨むような視線を感じる。
「……ハルカ……なのか」
ミナトは、声を絞り出した。ハルカが怒っている理由は分かっていた。
「でも、俺はハルカのことが……」
ずっと好きだった。
告白もした。でも、受け入れてもらえなかった。
ユウマじゃないとだめだったのか。あの後も、ハルカは自分のところに来てくれなかった。
思い出すとつらくなる過去だ。ミナトは思わず大きな声を出した。
「ユウマじゃなくて、俺だったら」
視界の端のローファーが、ぴくりと動いた気がした。
「あんな目に遭うことなんてなかったのに」
プアーン。ミナトの耳に、鋭い警笛が飛び込んできた。
『あなたなんて』
バン、と列車に衝撃が走り、電車のすれ違う、ゴー、ガタンガタンという音が響いた。
ミナトの上にのしかかる圧力が、より強くなった。
『大嫌い』
……ハルカの声が途切れると、急に頭を押さえつけていた力が抜け、ミナトはそうっと身体を起こした。
ローファーの主はかき消えてしまったかのようで、ミナトの目の前には、誰もいなかった。
(夢……? 金縛りだったのか)
夢を見ていたのだと思うと、ミナトは、自分が実際に叫んでいたのではないかと心配になり、周りを見回した。
しかし、列車の中には、全く人がいなかった。ミナトのいる車両だけではなく、貫通扉の向こうに見える、前の車両も、後ろの車両も……。
(この時間に、こんなに空いているものかな)
下を向いている間に、かなり進んでしまったのだろうか。場所を確かめるため、ミナトは正面の窓から外を見た。窓の外は漆黒の闇で、全く明かりが見えなかった。
夜とはいえ、街や民家の明かりが見えないのはおかしい。
(トンネル?)
ミナトはトンネルが終わるのを待ったが、窓の外はいつまでも、いつまでも真っ黒いままだった。ミナトが見ている窓には、青白い照明に反射して、車内の光景が映し出されている。
(え……)
ミナトは、目の前の異常に初めて気づいた。
(俺の姿が……ない……?)
向かいの窓ガラスには、ミナトがいる長椅子が映っていた。しかし、そこに座っているはずのミナトの姿がない。ミナトは振り返り、後ろのガラスを見た。
しかし、やはりそこに自分の顔はなかった。
ミナトは、リュックを抱きしめたまま、がばっと立ち上がった。震える足で車内を歩き、窓を見て回った。座席は映っているのに、ガラスに近寄っても、遠ざかっても、ミナトの姿は映らなかった。
(なんで……)
ミナトが愕然としていると、突然ぶつんと音がして、車内アナウンスが流れた。
『次は~○▲□×。○▲□×。この列車は、○▲□×まで止まりません』
ミナトは、その駅名に聞き覚えがあった。ただ、それはネット上でしか存在しない名前のはずだった。
まだ列車はトンネルを抜けない。トンネルを抜けた後、窓にはどんな風景が広がっているのだろう。
「ハルカ!」
ミナトは叫んだ。ハルカはさっきまでここにいたのだ。ハルカが自分をここに連れてきたのなら、この列車から降ろすこともできるはずだ……。
ハルカを探すため、ミナトは列車の中を走り出した。
もう一度、電車が通る音が聞こえた。桐人の言うとおり、この時間でもまだ電車を利用する客はそこそこいるのだろう。
「異界……。電車がたどり着く異界って、どこなんでしょうね」
「大体の話は、黄泉や根の国……いわゆる『あの世』につながっているような描写が多いな」
「と、いうことは、そのまま乗っていると『あの世行き』ということですか」
「そういうことになるな」
「うわあ……」
電車に乗っただけで、いきなりあの世に連れて行かれてはたまらない。朝葵は桐人に尋ねた。
「勘弁してほしいですねえ。怪談の主人公って、どうしてそんな電車に乗っちゃうんでしょう」
「普通じゃないからだろう」
朝葵は感想のつもりだったが、桐人はさも当然かのように、あっさりと答えた。朝葵は少し驚いて、桐人に聞き返した。
「普通じゃないって、どういう……」
「大多数の人間は、どんなに入りたいと願ったって異界に入ることなんてできないんだ。異界との境界を越えるのは、本人にも何らかの要因があると考えるべきだと思う」
確かに、朝葵も今まで生きてきて、異界に入り込んだことはない。周りの友人や知人にも、そんな経験をした者はいなかった。
「要因……ですか。例えば、どんなことがあるんでしょう」
「例えば、ひどく疲れている、眠い、体調が悪い……といったときだ」
「下手すると、寝ちゃう……というか、倒れちゃうかもしれないときですか」
「そう。脳の機能が落ち、意識を失うかもしれない状態だ。それは、『死に近い』……つまり、『あの世が近い』状態と言ってもいいかもしれない」
「ふむむ。臨死体験みたいなものですね」
臨死体験であの世を垣間見たというのは、よく聞く話だ。つかの間の夢なのか、実際に体験したことなのかは、知り得ないことではあるが。
「あとは、自ら近づいていく場合だな」
「自分からですか?」
「死者を忘れられず、強い想いを抱いたままでいる状態だ。有名どころで言えば、イザナギ・イザナミの話でもあるだろう」
「ああ、先に亡くなった妻を、夫が黄泉の国へ追いかけていくやつですね」
有名な日本神話だ。火の神カグツチを生んだことで亡くなった妻のイザナミを連れ戻すため、夫のイザナギが黄泉の国へと旅立つ。
「そうだ。夫であるイザナギは生者だが、自分から黄泉比良坂を越え、あの世へ行く」
イザナギが黄泉の国に着いたときにはもう手遅れで、イザナミはすでに完全な死者となっていた。そして、腐って変わり果てたイザナミの遺体を目撃し、イザナギは逃げ帰る。
「生者と死者は共存できない。イザナギが黄泉に留まることは可能だったかもしれないが、イザナミが生者の国に戻ることはできない。あの世というのは、生者が何とか近づくことはできても、行ってしまったら戻れない場所なんだ」
「一方通行なんですね……」
朝葵はほう、と息を吐いた。亡くなった者が蘇ることはない。それは当たり前のことだ。桐人は話を続けた。
「生きていたければ、あの世に近づかないようにすべきなんだろうな。体調管理も含めて」
「そうですね……」
朝葵はなんとなく心配になった。桐人だって今日は疲れているはずだ。朝葵を送った後、たった一駅とはいえ、桐人が電車の中でうっかり眠ってしまうことはないだろうか。
「いつの間にかあの世行きの列車に乗っちゃった人は、どうしたらいいんでしょう」
「うーん……。そのまま乗っていたら戻った、と言う話もあるし、途中で降りたら助かった、という話もあるからなあ」
桐人の中でも、決まった考えはないようだった。
「でもまあ、寿命が残っている人間なら、何らかの形で戻ってくるんじゃないか?」
「そう……ですよね。生きている人間なら、終点まではそもそも着かないってことですよね」
「別に根拠はないけどな。もし、その列車が、あの世行きの渡し船みたいなものだとすれば」
桐人の声に重なって、また、電車の音が遠くに聞こえた。
「……本来の乗客は、死者だからな」
おそらく急行列車で、駅には止まらなかったのだろう。その音は素早く通り過ぎていった。
お読みいただいてありがとうございます。次はまた、妖怪の話になります。引き続きお読みいただけると嬉しいです。