第四話 狐狸
朝葵もだいぶん落ち着いてきました。
「そうだな。人間じゃないが、狐狸……キツネやタヌキなら、実体を持っているだろう」
「ああ、確かにそうですね」
キツネやタヌキは、動物として実際に存在している。
「本当は動物である自分を、別の姿に見せる……。いわゆる、化けるというやつだな」
「九尾の狐とかですか。キツネは女の人に化けるイメージがありますね」
「そうだな。あとは、幻を見せたり、道に迷わせたり……」
朝葵はふんふんと桐人の話を聞いていたが、ふと、疑問に思った。人間にそんないたずらをして、キツネやタヌキに何の得があるのか。
「どうして、キツネやタヌキは人をだますんでしょう。」
朝葵がそう言ったとたん、路地から急に、小さな黒い影が飛び出してきた。
「にゃあっ!」
「わっ」
朝葵は驚いて飛び上がり、隣の桐人にぶつかってしまった。黒い影は2人の足元をすり抜けると、向かいの路地に消えていった。
朝葵は、慌てて身体を離すと、桐人に謝った。
「わ、すみません」
「いや、それは構わないが……。何だその叫び声」
「あの、その。ネコかと思って……」
頭の中でとっさにネコだと思ったら、つい、にゃあと口から出てしまったのだ。朝葵は恥ずかしくなり、最後まで説明できなかった。
「ああ、まあ……。ネコ、だったんだろうな、たぶん」
朝葵は、桐人のその言い方が、妙に引っかかった。
街中だからネコだと思い込んだが、自分が見たのは黒い影だけだ。
あれは本当に、ネコだったのだろうか? ネコにしては、少し大きくなかっただろうか?
別の動物……、たとえば、狐や狸だったとしたら……。
――I沢リコは、店員に見送られてエステサロンの扉を出た。
全身に塗られたクリームは、リコの肌をきらりと輝かせている。これから家に帰るのだが、サロンを出る前にばっちりとメイクも済ませた。
(いい女というのは、隙を見せないものよ)
リコへの施術で汗をかき、少し乱れた店員のメイクを思いだし、リコは心の中でふふんと笑った。
レースを胸元にあしらった、薄いピンクのワンピースを翻し、ヒールの音をさせてリコは歩いた。少し短めのスカートから伸びる脚は、細いとうらやましがられることが多い。
リコは小さい頃から可愛いと言われてきたし、言われるための努力もしてきた。見た目から仕草に至るまで、常に研究を欠かさない。
おかげで、リコは夜の街でそれなりの指名を得ることができていた。今はキャバクラで働いているが、風俗にも手を出そうか迷っている。
可愛い自分を維持するには、金がかかるのだ。エステ代や美容院代は安くはないし、服やバッグも常に入れ替えないといけない。
(誰かが援助してくれたらいいのに)
そうしたら、あくせく働かなくてすむ。十分な金を出してくれるなら、愛人契約を結んだって構わない。そう思っているのに、リコの前にはろくな男が現れなかった。
暮れなずむ夏の空はまだぼんやりと明るく、街には、ちらほらと学生らしき男女が歩いていた。リコは、わざと彼らのそばを通り、石畳をカツカツと歩いた。
(あんたたちとは違うんだから)
リコもかつては大学生だったが、1年生の夏でやめてしまった。元々学費を稼ぐために夜の仕事を始めたものの、せっかく稼いだ金が学費に消えるのが馬鹿馬鹿しくなったためだ。
自分は、これからが仕事の時間だ。一度家に寄って着替えたら、同伴のお客さんとの待ち合わせがある。色々と言う人はあるかもしれないが、自分は今の生き方で満足している。
『嘘つき……』
急に耳元で声が聞こえ、リコはびくっとして立ち止まった。
『人にだけじゃなく、自分にも嘘をつくの』
(な、何……?)
辺りを見回したが、リコの周囲には誰もいなかった。通りすがりのサラリーマンが、リコを怪訝な顔でちらりと見ていった。
『人より上に立ちたいだけなのに』
今度は頭の後ろから聞こえ、リコはたまらず走り出した。駅に着いたとき、汗がどっと噴き出したが、身体の芯は、暑さどころか氷のような冷たさしか感じなかった。
(あの声は)
「ハルカ」
図らずも名前を口にしてしまい、リコは両手でばっと口を押さえた。
(ハルカがいるわけない。だって、ハルカはもう……)
高校生の頃、同じ友達グループにいたハルカ。努めて高い声を出そうとしていたリコとは違って、ハルカは低い素の声のままだった。声だけでなく、メイクや髪型だって、ハルカは何も飾ろうとしなかった。
それなのに、グループで一番格好良かったユウマと付き合い始めて……。
――嫌な思い出だ。
リコは、高校の頃の自分が嫌いだった。思い出すと、負け犬のような気分になる。
リコは震える手でブランドバッグからハンカチを取り出し、汗を拭った。それからよろよろとした足取りで改札を抜け、ホームのベンチに腰を下ろした。
(いったん家に帰って、メイクを直して、着替えをしないと……)
そろそろ電車に乗らないと、同伴の時間に間に合わなくなる。しかし、リコはベンチから動けなかった。少しでも動いたら、先程の声が戻ってくるような気がした。
1台、2台と電車を見送っていると、じりじりと時間が経っていった。リコは家に帰って支度することをあきらめ、直接待ち合わせの場所に向かおうと考えた。同伴をキャンセルすれば店に叱られるし、リコの収入が減るのも嫌だった。
(それでも、そろそろ乗らなくちゃ……。でも、でも……)
あの声は聞きたくない。リコが逡巡しているうちに、また数台の電車が過ぎていった。
そうしているうちに、待ち合わせの時間が迫ってきた。顔を上げると、ちょうど電車が来たところだった。これに乗らなければ、遅刻してしまう。リコは思い切って立ち上がった。
おそるおそる電車に乗ったが、電車の中ではあの声は聞こえなかった。
(よかった……)
電車から降りると、リコはトイレに入り、手早くメイクと髪型を直した。普段は「さすがだね」と褒められたいから、もっと入念に準備をしていた。
(今日の客は私にぞっこんだから、ちょっとくらい手を抜いても大丈夫でしょ……)
リコはそう自分に言い聞かせ、客と待ち合わせた店に向かった。歩いてでもいける距離だったが、時間がせまっているため、駅でタクシーをつかまえた。
運転手に目的地を告げ、タクシーの後部座席に座ると、リコはやっと人心地がついた。
(ふう)
声のことは気になっていたが、ただ疲れていただけなのかと思えてきた。昼夜逆転した生活には慣れたつもりだったが、思ったより身体に負担がかかっているのかもしれない。
エンジン音がしてタクシーが動き始め、リコは、スマホで時間を確認した。
(少し、遅れちゃうかも)
電車が遅れていたということにして、客にメッセージを送ろうと思ったとき、
『リコの嘘つき』
耳元で、ハルカの声がした。リコの身体から、一気に血の気が引いた。
「ハ……ルカ……」
車内には、運転手と自分のほかは、誰もいない。ラジオだってついていない。
しかし、声ははっきりと聞こえた。まるで、ハルカが隣に座って、自分の耳に唇を寄せているかのように……。
「ちょっと、運転手さん! もう止まって! 降ろして!」
リコはたまらず叫んだ。このタクシーから、一刻も早く出たかった。
しかし、車は止まらなかった。リコの頼んだ場所すらも、あっさりと通り過ぎていった。
「ちょっと、聞いてるの! いい加減止まってよ!」
リコは運転席の背にかじりついて怒鳴ったが、運転手は黙ったまま車を走らせ続けた。
「ねえ、聞いてよ……」
だんだんと興奮が冷めてくると、リコは気味が悪くなってきた。リコはそっと運転席から手を離し、座席にどさりと身体を落とした。
何かがおかしい。
この運転手は、どうして私を無視するんだろう? それよりも、このタクシーはどこに向かっているんだろう? 私はこれから……
リコがぐるぐると考えていると、また耳元でハルカの声がした。
『一緒に、行くよ』
――一緒に? どこへ?
冷たい声だった。どこに連れて行かれるのかは分からないが、どうせろくでもないところなのだ。
リコの目に、じわりと涙が滲んできた。こんなタクシーに乗るんじゃなかった。自分はいったい、どこから選択を間違えたのだろう。
隣のハルカの気配は、だんだんと濃くなっていく……。
「うえっ……、うえっ……」
リコは、声をあげて泣き始めた。ぼろぼろと涙がこぼれ、どうしていいか分からなかった。
外の景色がどんどんと流れていく。泣いているリコを乗せたまま、タクシーは走り続けた。
「……さっきの話なんだが」
「にゃんこのことですか」
「違う」
朝葵は、ネコらしきものが通る前、自分が何を言いかけたかを思い出した。
「あ、キツネやタヌキが、何で人をだますかって……」
「それだ」
桐人は、ちゃんと朝葵の質問を聞いてくれていたようだった。
「『狐狸』と言う言葉は中国語ではキツネの意味だ」
「え、それじゃ、『狸』は何なんですか」
「狸、という漢字は、ざっくりとヤマネコ的なものを指していたそうだ。でも、本州にはいないからな。この字が日本に輸入されたときに、タヌキやムジナに当てはめられたらしい」
「へえ、ヤマネコ……」
朝葵は、先程のネコらしき黒い影を思い出した。大きかったからと言って、あれがヤマネコであるはずはないが。
「じゃ、人を化かすのは、そもそもキツネのイメージだったんですかね」
「そうかもな。日本にもキツネが化かす話は古くからあるが、元々は中国から伝わったのだろうと言われてる」
そこで、桐人は少し口ごもった。
「ま、その……」
「?」
「中国の方では、女性に化けて、精気を吸い取るというのが……、まあ、主流らしい」
「あ、なるほど」
あっけらかんと朝葵は言った。
だから、キツネは美人に化ける必要があるのだ。男性から糧を得るために。
「キツネに関しては、稲荷信仰なんかも関わってくるから、色々と派生があるとは思うが」
「深く調べてみるのも、面白そうですね」
朝葵がもっと詳しくなったら、桐人はもっと色んな話を聞かせてくれるだろうか。
桐人がこうやって話してくれているおかげで、朝葵は暗闇の中で、不安にとらわれずにすんでいる……。
「稲荷信仰ですか……。ああ、おいなりさんも私好きです」
「お前、無理矢理食べ物の話に持っていくな」
「先輩は、おいなりさん好きじゃないんですか」
「嫌いじゃない」
先輩は、おいなりさんよりお赤飯の方が好きなのかな、と朝葵は思った。
お読みいただいてありがとうございます。次は、都市伝説の話になります。引き続きお読みいただけると嬉しいです。