第二話 消える乗客
朝葵は、バスから降りてきた女性のことが気になっています。
桐人と朝葵は、歩道橋を渡り終わると、また民家に挟まれた道に入った。
「……大丈夫だったんでしょうか。あの人……」
夜にバスから転がり出て、逃げるように去って行った女性。桐人と歩きながら、朝葵は彼女の様子を思い出していた。
「怪我とかはしてなさそうでしたけど……。」
「気になるのか。彼女は助けを求めたわけじゃないだろう」
「だって……、普通の状態じゃなかったですよね」
「……」
女性の顔に浮かんでいたのは、明らかに恐怖の表情だった。しかし、バスで何かトラブルがあったのだとしても、本人が大丈夫だと言うのであれば、放っておくべきなのか。
そう思うものの、朝葵は女性の異様な様子が忘れられなかった。
女性が去った後、桐人は少しの間、動きを止めて考え込んでいた。再び歩き出したとき、桐人は何かしらの結論に達していたようだったが、それを口にしようとはしなかった。
「……関わらない方がいい」
しばらく黙って歩いた後、桐人が言った。
「とにかく、今日は忘れろ」
「忘れる……」
桐人は、危ない目に遭っている女性を放っておくような人間ではない。しかし、さっきのことを忘れろと言う。それがかえって、さっきの出来事の異様さを際立たせている。
「と、言っても無理か?」
暗がりの中、よく顔は見えなかったが、桐人の口調は優しかった。
「……はい」
朝葵はこくりと頷いた。
忘れろと言われれば言われるほど、頭は思い出そうとしてしまう。
「……じゃあ、ちょっと別の話でもしながら行くか」
桐人は、少し笑ったようだった。
(たぶん、何か理由がある……)
桐人は「今日は」と言った。どうやら今に限っては、さっきの出来事を詮索してはいけないらしい。そしてそれは、おそらく朝葵のために言っている。
――それならば。
とにかく話を続けよう。家に着くまで。
「先輩」
「ん?」
「それなら、先輩の得意な話をお願いします」
「得意……?」
桐人の声には、戸惑いが混じっていた。それに構わず、朝葵はできるだけ明るい声で言った。
「ええと……、さっき、『べとべとさん』の話をしたじゃないですか。他にも何かあるんでしょうか。こんな夜道で出会う妖怪って……」
「夜道……か」
桐人は少し考えている様子だったが、やがて話し始めた。
「例えば……」
――F川アカリは、しばらく走ってファミレスの前まで来ると、その中に飛び込んだ。明るい店内の中、店員に案内されてついた席に座っても、まだ震えがおさまらなかった。
ドリンクバーだけを手早く頼んだものの、席を立たず下を向いて動かないアカリに、店員が時々訝しげな視線を投げかけていた。
(なんだったの、あれは……)
白くなるほど手を握り合わせても、震えが止まらない。それどころか、今にも叫んでしまいそうだ。
でも、叫ぶことすら怖い。あのバスが、戻ってきたら……。
アカリは頭を抱えた。
(どうしてどうしてどうしてどうして)
どうして、こんなことに巻き込まれてしまったのだろう。
長い残業を終えた帰り道、いつものバスに乗っただけだった。いや、いつものバスだと思い込んで乗った……。
アカリは、町の外れにある小さな会社に勤めている。高校を卒業してから、1年アルバイトで食いつなぎ、やっと今の会社に就職することができた。仕事は楽ではなく、残業も多かったが、親からの援助がないアカリには、贅沢は言えなかった。
新人のアカリは、今日も会社を最後に出た。アカリは節約のために、会社から離れた大通りのバス停まで歩いてから、バスに乗ることにしていた。
疲れた身体でバス停に着くと、ちょうどバスが来たところだった。
(ラッキー)
バス後部のドアからステップを上がったところで、少し違和感を感じた。
(今日は、寝ている人が多いな)
数人の乗客がすでに座っていたが、全員がだらんと身体を投げ出していた。通路にまで足がはみ出している者もいて、邪魔だな、と思った。
空いている席に座ろうとして乗客の1人に近づいたとき、アカリはびくっとして身体を強張らせた。
「ひっ……」
Tシャツにジーンズ姿の乗客は、筋肉質の体つきからは男性のように見えた。しかし、その頭には白い袋がかぶせられ、袋は首のところでゆるく絞られていた。アカリが驚いて車内を見渡すと、座っている乗客たちがみな同じように袋をかぶせられている姿が、バスの弱い照明の中に浮かび上がった。
「あ……あ……」
アカリが逃げようと振り向いた瞬間にドアが閉まり、バスは走り出した。その拍子に車体が揺れ、アカリはバランスを崩して、男の座る席の方に倒れ込んだ。
「……!」
男はアカリの身体を支えることもなく、そのままどさりと一緒に倒れた。
「す、すみません」
とっさにアカリは身体を起こしたが、男は奇妙にねじれた格好のまま、ピクリとも動かなかった。アカリは男を助け起こそうと、Tシャツから伸びた腕を掴んだ。
ふにゃり。
予想外に冷たく、弾力のない皮膚の感触に、思わずアカリは手を離した。男に目をやると、倒れた拍子に袋が口元までずり上がっており、端から血の気のない唇が覗いていた。
その瞬間、アカリは悟った。これは死体だ!
「いやあああ!」
出したことのない大声が出たが、足に力が入らず、アカリは通路にへたり込んだ。
(逃げないと、逃げないと……)
『お客さん、降りますか』
マイクを通った平板な声が、バスの中に響いた。アカリは、このバスにも運転手がいるはずであることを、今更ながら気づいた。這いながら、アカリは運転席に近づいていった。
「降ります! 降ろして!」
『それなら、前の出口からどうぞ』
運転手はそう言うと、急ブレーキをかけた。アカリはその衝撃で通路を転がり、バスの運賃箱に背中をぶつけて止まった。
「痛っ……」
アカリはよろよろと立ち上がったが、運転手はマイクをかちゃりと置くだけで、前を向いたままだった。
『運賃は結構です。ただ、お願いがございます』
「お、お願い……?」
運転手がくるりと顔をアカリの方を向けたとき、突然バスの中がまぶしいほどに明るくなった。アカリの足元からごうっと白い炎が立ち上がり、みるみるうちにバスの中は炎に包まれた。
「あ……ああ……」
運転席も炎に包まれ、運転手の姿はかき消された。その中から、声が響いた。
『話して』
頭の中までもが真っ白になったアカリの後ろで、ガシャンと音を立てて扉が開いた。アカリは振り返ると、もつれる足を何とか動かしながら、バスの外にもがき出た。
アカリが歩道に座り込むと、バスはあっさりと扉を閉め、走り去った。
(一体、なんだったの? あれは……)
動悸が治まらず、息が苦しい。今見た光景が目に焼き付いて、離れない。
そうしていると、若い男女に声をかけられた。
「あの……」
大学生らしい2人だった。親切そうな可愛い女の子は、アカリを助け起こそうと手を差し出していたし、そばで立っている男の子も心配そうな表情をしていた。
助けて、と言いかけたとき、
『今じゃない……』
耳のそばで声が聞こえ、背中にぞくりと冷たいものが流れた。
「だ、大丈夫です。何ともないですから。本当……」
そう言っても、彼らはなお心配してくれているようだった。慌てて靴を履き直して、「大丈夫ですから」と繰り返し、彼らから逃げ出した。
そして、今はこのファミレスにいる。
アカリは、ファミレスの大きなガラス窓をちらりと見た。何かを口にする気にもなれないが、外になんて出たくはない。あのバスが戻ってきたらと思うと、気が気でない。
(あの人たちは、みんな……)
果樹園のリンゴやブドウのように、袋を頭にかぶせられた乗客たち。しかし、袋掛けされた果物のようには扱ってもらえまい。彼らがあの時点で生きていたとしても、無事に家に帰れるわけがない。
――どうして、私は降ろされたのだろう。
あのバスは、彼らをどこかへ運ぶ途中だったのだろうか。それなら、どうしてアカリを乗せたのか。おまけに、わざわざ乗せてから降ろしたのは、なぜなのか……。
話をしろというのも、意味が分からない。殺人犯の気まぐれなら、アカリじゃなくてもよさそうなものだ。
(じゃあ、あの2人でもいいじゃない……)
アカリの目に、涙がじわりと滲んだ。
のんきな大学生たちじゃなくて、どうして自分が巻き込まれたのか。
夜遅くまで一生懸命働いているのに、どうしてこんな目に遭うのか。
彼女たちは人に親切にするだけして、のうのうと幸せそうに帰っていくのに……
「……いかがなさいましたか。ご気分でも悪いのでしょうか。」
ドリンクも飲まず、テーブルに伏しているアカリに、店員がとうとう声をかけてきた。同年代くらいの若い店員は、心配そうにアカリの顔を覗き込んでいる。見慣れたファミレスの制服が、アカリを現実に引き戻した。
アカリが口を開こうとしたとき、
『今じゃない……』
また、声が耳元で聞こえた。アカリの頭に、炎に包まれたバスの光景が蘇ってくる。
「だ、大丈夫です。お構いなく……」
「顔色が悪いようですが……」
「いえ、本当に大丈夫なんです。あ、ドリンク取りに行くので……」
アカリはそそくさと立ち上がり、テーブルを離れた。店員が首をひねりながら厨房に戻るのを横目で確認すると、ドリンクバーには向かわず、そのまま女子トイレに入った。
トイレの中には誰もおらず、がらんとしていた。アカリは洗面台の前で、自分の顔や姿を確認した。
汗だくで走ってきたため、化粧が崩れ、髪も乱れていた。しかし、あれだけの炎に包まれたのに、顔や服には煤ひとつついていなかった。そういえば、熱さも感じなかった。
震える手をゆっくりと広げたが、そこにも煤はなかった。アカリはこの手で、男の死体を掴んでしまったことを思い出した。
(嫌だ、もう……)
ぼろぼろと涙があふれてきた。アカリは石けんを手にとって水を流し、泣きながら手を洗い続けた。
「……よくあるのは、バスやタクシーに乗り込む幽霊だな。客を乗せたあと、いつの間にか姿を消してしまうという……」
「目的地について、後ろを見たらお客さんが消えていた、とかいうやつですよね。」
(そういえば、さっきのバス、すぐにどっか行っちゃったな)
乗客が消えるどころか、バスの方が先にいなくなってしまった。女の人も逃げるように去ってしまったし、なんだか狐にでもつままれたような気分だ。
(いけない)
うっかりバスのことを思い出してしまった自分をいましめるように、朝葵は頭を軽く振った。桐人が話を続けた。
「乗っているのはただの悪い客で、運転手の隙を突いて降りてしまっているだけという話もあるけどな」
「ただの無賃乗車じゃないですか」
「どっちにしても、タクシードライバーには迷惑な話だな」
人間がやっていることなら怖くはないが、その代わり腹は立つだろう。
「シートが濡れていた、とかもよくありますよね。あれも迷惑ですよね」
「まあなあ、心霊現象と水は関係が深いから、分からんこともないが……。ただの人間だったら、話は別だからな」
「そのお客さんは、弁償したくないから逃げたんですかね」
朝葵は、できるだけ明るい声を出した。
「そうかもな」
桐人の声も心なしか、いつもより少し大きめとなっていた。
(この調子で続けていこう)
――あのバスのことは、忘れるのだ。
お読みいただいてありがとうございます。次はまた、新しい人物が出てきます。引き続きお読みいただけると嬉しいです。