第十話 送り狼
最終話です。
「先輩ったら、意外と雑なんですね。そこまで話しておいて、どうでもいいもないでしょう」
あきれたような声で、叶が言った。
「吉良は、同じものを見たかどうかが気になってたんだろう。俺も同じだったし、一応の解釈もつけたから、もういいだろう。これ以上は俺には分からんしな」
桐人は、あからさまに話を切り上げようとしていた。普段の桐人は、最後まで朝葵の話につきあってくれるし、聞けば自分の考えも言う。いつもと違った桐人の様子に、朝葵はかえって引っかかった。
「先輩、もしかしてあのバスのことで、何かまだ考えがあるんじゃないんですか」
「……」
叶も朝葵を援護するように、桐人に言った。
「ここまで来たら、話してあげて下さいよ。朝葵、欲求不満になっちゃいますよ」
「叶、言い方」
朝葵と叶が、聞くまで動かないぞという態度を取ると、桐人はやれやれといった様子でため息をついた。朝葵が桐人に尋ねた。
「そう言えば先輩、あの日、歩道橋の上で何か考えてらっしゃいましたよね」
「……ああ」
「あの時、何があったんですか? なにか……気づいたことがあったんですか」
おそらくあったのだろう。だからこそ、あの日桐人は「関わらない方がいい」と言った。話したがらないのは、今でもまだ、同じ事を思っているからだろうか。
桐人は、ちらりと外に視線をやった。
「……あそこの歩道橋、上から東の方の交差点が見えるだろ」
「はい」
大通りは中央分離帯を挟み、東西に延びていた。朝葵たちは北から歩いてきて、大通りへと出た。
「……俺が歩道橋を上がりきったとき、交差点を越えたところに、車が一台路駐しているのが見えた」
「車……」
「白いワゴンだ」
(白いワゴン?)
朝葵は、狭い道を揺れながら通っていたワゴンを思い出した。
「それって、あの狭いところを通ってたワゴンですかね?」
「そうだ。後部座席にカーテンが引いてあったやつだ」
大通りには中央分離帯があり、朝葵たちと同じ道を通ってきたワゴンは、左折……つまり東にしか行けなかったはずだ。だから、そこにいてもおかしくはない。
夜も遅く、車通りはほとんどなかった。路駐をしていても、さほど迷惑にはならなかっただろう。
「先輩、そのワゴンが何か……」
桐人は少しためらっているようだったが、一息つくと話し出した。
「あの時俺が気づいたのは、その白いワゴンのリアカーテンが開いていたことだ」
「後ろのカーテンが……?」
確かに、朝葵が白い車を見送った時には、リアカーテンは閉まっていた気がする。
「狭い道を通るときには閉めていたカーテンを、わざわざ停車して開けていただけだ。後ろが見にくいとか、何か理由があっただけかもしれない。ただ……」
桐人は眉を寄せ、やや厳しい顔つきになった。
「あの車から、視線を感じたような気がしたんだ。それで、妙に胸騒ぎがして……。だから何事もないように、あの場をすぐに離れたかった」
「視線……ですか?」
桐人の勘が当たっていれば、車に乗っていた者が、こちらを見ていたということになる。
「じゃあ、その車に絡まれないように、用心してくださったってことですね。」
「……まあ、そんなとこだ」
「いやあ、それなら納得いきました。ありがとうございます」
朝葵はちょっと拍子抜けした。
ただ、桐人が変な車を用心していて、絡まれないように気を回していてくれたのだと思うと、嬉しくもあった。
朝葵が緊張を解いてあははと笑うと、隣の叶が、がしっと朝葵の腕を掴んだ。その力の強さに驚き、朝葵が叶を見ると、その顔は強張っていた。
「……ちょっと待って、朝葵」
「どうしたの、叶」
「先輩、その車は『白いワゴン』だったんですか?」
「…………そうだ」
桐人は、観念した様子で答えた。叶は、朝葵の方を向いて言った。
「朝葵、○○山の事件で、遺体がどんな車に乗せられていたか知ってる?」
「どんな車? 乗用車じゃないの? 詳しくは知らないけど……」
「遺体が乗せられていたのは、白いワゴンだよ。発見されたときのニュースで、私見たもの」
「えっ…………」
朝葵はすぐに、スマホでワゴンの画像を検索した。ニュースの写真にうっすらと写る他県ナンバーは、あの時見たものと似ていた。
朝葵は、自分の身体から血の気が引くのを感じた。
「先輩、まさか」
「あの時は嫌な感じがしただけで、全部分かっていたわけじゃない。……ただ、仮にだ」
見れば見るほど、ワゴンはあの夜のものと似ている気がした。不鮮明な画像の中に映る、後部座席に取り付けられたカーテンも……。
「あれが、犯人の運転していたワゴンだったら」
朝葵が桐人に送ってもらった日からまもなくして、遺体発見のニュースが世間を賑わせた。そして○○山に行くには、大通りをずっと東に行く必要がある……。
「その前から、変だとは思っていたんだ。あんな大きなワゴンが、わざわざ暗くて狭い道を通っていたのが」
「え、先輩。わざわざってどういう……」
「あの車が運んでいたものを考えれば……、あえてあの道を通っていたとしても、おかしくない。人目につきたくはなかっただろうから」
車はだいたい駅前を回る広い道へと迂回し、大通りに出る。駅を利用する人はそれなりにいるので、その道を通れば嫌でも人目につく。
「それなのに、俺たちに出会ってしまったんだ」
事故でも起こせば、それこそ足止めを食らう。だから、ハイスピードで通り過ぎるわけにもいかない。特に、歩行者を追い越していくときには、徐行せざるを得ない……。
歩行者は、至近距離で車をやり過ごす。揺らぐカーテンの中身が隙間から覗き、彼らの目に触れてしまったら。
運転手は、朝葵たちのそばを通るとき、気が気でなかったのではないだろうか。
「じゃあ、遺体にかぶせられていた袋って、もしかして……」
「カーテンが多少開いても、中のものがすぐに分からないようにしていたのかもしれないな」
「うわあ……」
朝葵は、車が通り抜けていったときのことを思い出した。あの時、朝葵は桐人の身体が近づいてドキドキしていたのだが、そのそばで車の扉一枚を隔てて、冷たくなった被害者たちがいたのかもしれない。それを想像すると、ぞっと寒気がした。
「大通りに出た後、俺たちが道から出てくるのを待っていた。そして、俺たちが不審な行動を取らないか、確認していたんだろう」
「私たちが通報したりしないか……ということですか」
「おそらくそうだろう。あの時点ではまだ、F川アカリへの復讐を迷っている状態だったからな。邪魔はされたくなかったはずだ」
叶は少し首をひねり、桐人に尋ねた。
「でも、大通りにはF川アカリがいたんでしょう。犯人のワゴンは、彼女を見張っていた可能性もあるんじゃないですか」
「その可能性がないわけじゃないが……。F川アカリは、そもそもあの位置で降りる予定じゃなかっただろう。バス停もないところだしな」
「あ、そうか……。F川アカリは、もっと手前のバス停で乗ったわけだから……」
「そうだ。彼女が普通のバスに乗っていれば、本来はバスの中にいたはずだ。ワゴンが彼女を見張る位置としては、あそこは適当じゃない」
朝葵は、頭がくらくらとしてきた。
「じゃあ、やっぱり、私たちを……」
大通りに出た朝葵と桐人は、歩道橋のたもとで話をしていた。おまけに、座り込んだ女性に声をかけたりと、なかなかその場から離れなかった。
「もし、私たちが通報しようとしていたら、どうなっていたんでしょう」
「まあ、相手も普通の精神状態じゃなかっただろうしな。5人も7人も変わらないかもな」
「それって……」
桐人は朝葵の方を見て、困ったような顔で微笑んだ。
「……だから俺たちも、『火車』を見てしまったのかもしれないな」
桐人の言葉で朝葵は声を失い、しばらく呆然としていた。
外の明るさが嘘のようで、自分はまだ、あの日の歩道橋の上にいるのではないかと思えてきた。
すると、叶がいきなり朝葵に抱きつき、大きく声を出した。
「もう~、やめましょ。何、この色気のない話。なんにせよ、2人とも無事に帰れてよかったじゃないですかあ」
「わ、叶」
朝葵が我に返ると、叶は朝葵を抱いたまま、桐人の方を軽く睨んだ。
「私あの日、先輩がてっきり送り狼するかと思ってたのに」
「ちょっと叶、何言ってんの」
朝葵はもがいて、叶の腕から抜けた。すると叶は頬に手を当て、わざとらしく大きなため息をついた。
「なのに、朝葵ったら週が明けたら、赤飯持ってくるんだもん。こっちはどう解釈していいかわからなかったわよ」
「うう……、だって、他に思いつかなかったから」
「聞いたら、何もなかったって言うし」
「当たり前でしょ」
朝葵は顔を真っ赤にして、もう喋るなと叶の口をふさごうとしていた。叶は涼しい顔をしたまま、朝葵の手をあしらっていた。
「送り狼……か」
そう言うと、桐人は表情を変えないまま、自分の机から一冊の本を手に取った。それをパラパラとめくると、一つのページを朝葵たちに広げて見せた。
「ここにあるだろ。送り狼は、悪い奴とは限らないぞ」
「自分のことですか」
「……そういう意味じゃない」
朝葵は、「ほら、ちゃんと先輩の話聞いて」と言い、叶をしっかり椅子に座らせた。
「送り犬と言われることもあるんだが……、この場合は飼い犬のようなものじゃなくて、山犬、つまり狼だな」
「狼が送ってくれるんですか?」
「そうだ」
桐人は、本にある『送り狼』の項を指さしながら、説明を始めた。
「パターンはいくつかあるんだがな。山道を歩いているときに、人の後ろをついてきて危険から守ってくれる話や、途中で人が倒れると襲うが、無事に家まで帰れば襲わないという話なんかがある」
「へえ……。家まで帰り着くことが大事なんですね」
「それで、無事に家までたどりついたら、塩や小豆飯、草鞋なんかを与えるんだ」
「小豆飯……つまり、赤飯ですか」
「……余計なことを、思い出すなよ」
週明け、朝葵はレトルトパックの赤飯を3つほどラッピングして、桐人に渡したのだった。桐人は一応表情を変えず受け取ったが、それを見ていた叶は、腹を抱えて笑っていた。
「じゃあ、久万先輩はそれこそ送り狼じゃないですか。朝葵を無事に送り届けたんだから。立派な番犬? 番狼? ですよ」
「先輩を犬扱いするのはやめなさい」
「まあ、そうなるかな」
桐人は、別に気にしていない様子だった。
「お礼の赤飯ももらって」
「それは忘れろ」
そうしているうちに、ぱらぱらと学生が研究室に戻ってきた。みんな、じゅうぶんに昼の休憩を取ってきたらしい。
「じゃ、そろそろ作業に戻るか。お前たちも、課題けっこうあるんだろ」
「そうなんですよねえ。少し遅くなっても、今日中にキリのいいところまでやりたいなあ」
叶は大きく伸びをしながらそう言ったが、朝葵は先程の話を思い出し、今日は夜道を歩く気になれなかった。
「私は、あまり暗くならないうちに帰る……」
暗い顔でぼそっと朝葵が言うと、叶は「え」と驚き、朝葵の腕を軽く掴んで揺すった。
「気持ちは分かるけどさ、一緒に頑張ろうよ。遅くなったら、また先輩に送ってもらえばいいじゃない」
「もう……、勝手に決めちゃだめでしょ」
そう朝葵が言って、桐人をちらりと見ると、桐人は苦笑していた。
「作業遅れてるんだろ。構わないから、とりあえずできるところまで頑張れ」
「ひーん、すみません……」
「私も、人のこと言えないのよね……」
朝葵と叶は、慌てて自分の机に戻った。すると、叶がパソコンを開きつつ、桐人の方を振り返った。
「私としては、現代の意味の送り狼でもいいんですけどね」
「叶、それはもういいから」
朝葵もパソコンを開き、作業を始めようとした。しかし、後ろの窓から差し込んでくる光が画面に反射し、眩しくて集中できそうになかった。
朝葵は立ち上がり、カーテンを閉めようと窓の方に向かった。そして、窓際の席にいる桐人に尋ねた。
「先輩、すみません。遮光の方のカーテンも閉めていいですか」
「ああ、いいぞ」
朝葵は、カーテンに手をかけた。そのまま何気なく外を見ると、一人の女性が立っているのが見えた。
すらっとした若そうな女性だった。身体は朝葵たちの方に向いていたが、うつむいているので顔は見えなかった。シャツと黒っぽいスカートを身につけていたが、遠目なので、学生の制服なのか、スーツなのかも判別がつかなかった。
(あんなところで、何をしているんだろう)
その時、キャンパスの木々が風に吹かれて葉を揺らしたが、女性の肩まで伸びた黒髪は、一筋もなびく様子がなかった。
(……変だ)
と、朝葵が思った途端、女性から目が離せなくなった。朝葵の視界は魚眼レンズのようにぐにゃりと歪み、女性の姿だけが大きく、広がっていくように感じた。さっきまでうるさいほどだった蝉の声は、はるか遠くに行ってしまったかのようだった。
(だめ、閉めないと……)
異様な感覚に朝葵は焦ったが、カーテンを掴んだ手は固まったままで、動かすことができなかった。頭の中には警報が鳴り響き、心臓はバクバクと激しく打つのに、朝葵は立ちつくしたままだった。
そうしているうちに、女性がゆっくりと顔を上げ始めた。
(このままだと……まずい……)
前髪の端が見え、伏せられていた長い睫毛が徐々に上がり……
あわや女性と目が合いそうになったところで、後ろから手が伸び、朝葵の目の前でざあっと素早くカーテンが動いた。
「あ……」
視界が遮られ、カーテンがカチャンという音を立てて閉まったところで、朝葵の固まっていた身体からふっと力が抜けた。振り向くと、後ろにいた桐人と目が合った。
「あまり、気にするなよ。俺たちは関係のない他人なんだ」
桐人の口調は諭すようであったが、その声は優しかった。
「…………はい、ありがとうございます…………」
「さあ、作業に戻るぞ」
朝葵は桐人に促され、自分の机に戻った。隣の叶は、もうパソコンの画面に集中している。朝葵もファイルを開き、画面に向かったが、キーボードに乗せた手は止まっていた。
(また、助けてもらっちゃった……)
朝葵は、ちらりと桐人の背中を覗き見た。桐人ももう、自分の作業に集中しているようだった。
(私も、戻らなきゃ)
朝葵は、先程のことを考えるのはやめた。異界に、不用意に近づいてはいけない。自分たちの住む世界……日常に帰るのだ。
今日の帰り道だって、何があるかは分からない。でも。
(先輩と話がしたいな。たくさん、たくさん……)
――そして、朝葵も桐人も、無事に家に帰るのだ。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。