第一話 べとべとさん
以前書きました、「ラジオミサキ」と同じキャラクターが出てくる話です。時間軸としては、前作より少し前です。
吉良朝葵は、1つ上の先輩である久万桐人と一緒に、夏の夜道を歩いていた。
「すみません、わざわざ送ってもらっちゃって」
桐人と朝葵は、同じゼミの先輩後輩である。普段は気安く話している関係だが、こうなると少し気恥ずかしい。周りから見ると、付き合っている学生2人が連れだって歩いているようにしか見えないだろう。
「別に、気にしなくていい」
本当に気にしている様子もなく、桐人が言った。小柄な朝葵は、背の高い桐人の顔を下からそっと覗き込んだ。
普段から無表情な桐人だが、冷静でない今の朝葵には、なおのこと表情が読めない。
「叶が無理矢理……」
朝葵は下を向いて、言い訳のようにぼそぼそと言った。
ゼミでの話し合いが長引き、終わったときには思ったよりも遅い時間になってしまっていた。朝葵の下宿先は学校から少し離れているため、暗い道を迂回して帰ろうかなと考えていたところ、
「久万先輩、朝葵を家まで送ってあげてくださいよ。この子、家が遠いから」
同じゼミの仲間で友人の望月叶が、いきなり桐人に頼んだのだ。
朝葵は当然、大丈夫だから、申し訳ないからと言って断ろうとしたのだが、根が真面目な桐人は「それもそうだな」と、あっさり引き受けてしまった。
「なんだ。いつもはそんなに殊勝じゃないのに、いやに遠慮するんだな」
頭の上から降ってきた言葉に反応して朝葵が顔を上げると、そこには苦笑した桐人の顔があった。その穏やかな目つきに思わずどきっとし、朝葵は慌てて口を開いた。
「殊勝にもなりますよ。うち遠いんですから……」
「確かに近くはないな。もう少し学校に近いところに借りているやつも多いだろ」
「いやその……節約したくて。歩けばいいやと思ったんで……」
朝葵はえへへ、と頭をかいた。
朝葵の家は、きわめて貧乏でもないが、裕福でもない。朝葵たちが通うのは地方の国立大学だが、朝葵の実家は他県にあった。弟にも今後学費がかかることを考え、朝葵はできるだけ家賃の安い下宿を選んだのだった。
「まあ、実家から通っている俺が、偉そうに言えることじゃないか」
「そういえば先輩、電車大丈夫ですか」
「この時間ならまだある」
一方、桐人はこの地方の出身で、電車で通っている。桐人が前にぽつりと漏らした話によると、桐人の親族には、この大学の卒業生が多いとのことだった。
「実家暮らし、いいですねえ……。帰ったとき、家が暗いのって寂しいんですよ」
「そうなんだろうな」
「今の下宿の周りは、畑が多くて静かすぎて……」
他愛ない話を続けていると、朝葵はだんだん緊張が解け、いつものように屈託なく喋り始めた。
社交的な朝葵は、元々先輩だからと言って物怖じする方ではない。桐人は無愛想なのでゼミでも敬遠されがちだが、朝葵は自分から積極的に話しかけにいっていた。
そんな朝葵が、なぜぎこちなくなったかと言うと、それこそ今この状態を作った望月叶のせいだった。
「せっかくだしさあ、ゆっくりじっくり話してきたらいいじゃない。あなたたちの好きな妖怪とかの話だけじゃなくって。先輩もまんざらじゃないと思うんだけど」
「ちょっと……」
「とにかく、堂々と一緒に帰るチャンスじゃないの。朝葵も素直になりなさいって」
研究室を出る直前、こそこそと小声でそんな会話を交わしたのだった。
叶本人は、「望月は大丈夫なのか?」と聞く桐人に対して、「私はお嬢さんなので、パパかママに迎えに来てもらいますう」などと言い、笑顔で朝葵を押しつけて去って行った。
叶の魂胆は分かっている。朝葵が桐人のことを好きだと思っているのだ。
好きか、と言われると好きなのだろう。でも、色恋沙汰の『好き』という言葉で桐人への気持ちをまとめられると、なんとなく「違う」と思ってしまう。
顔が広いだけに悩みの相談も受けやすい朝葵は、よく桐人に話を聞いてもらっている。桐人はいやな顔一つせず、静かに頷きながら朝葵の話に耳を傾けてくれる。そして、最後まで話を聞くと、少し考えてからぽつりと助言をくれるのだ。
桐人の声は、抑揚は少ないが柔らかで、朝葵の身体にすっと染みこむように入ってくる。そうして、人の話で疲れてしまった朝葵の神経の緊張を、少しずつ解いていく。
(先輩は、優しい人だから)
自分は先輩の優しさに甘えている、ただの後輩だ。いつも先輩に相談事をもちかけるばかりで、何も返すことができていない。桐人に交際する相手ができたなら、自分は身を引かないといけない。いや、今でも周りをちょろちょろとしていることで、迷惑をかけているのかもしれない。
叶の他にも、朝葵と桐人の関係に気を回してくれる人間はいるのだが、朝葵は今の関係から踏み出したくはなかった。
(もう少しだけ……)
桐人の隣は、居心地がいい。ずっとそばにいられたら、どんなにいいだろう。でも、恋人というのは対等の関係だ。朝葵は、自分がその場所にふさわしいとは思えなかった。
「……それにしても、やっぱりこの時間は暗いですね」
朝葵が何気なくそう言うと、それまで相槌しか打っていなかった桐人が、急に口を開いた。
「べとべとさん、先へお越し」
「へっ?」
「知ってるか?」
「少しだけは……」
(妖怪の話かな)
桐人は、このように突然妖怪や都市伝説の話をし始めることがある。大学で2人が学ぶ内容に関わっていることもあるのだが、個人的な興味も強いようだった。
「奈良県の話だな。こういう夜道を歩いていると、後ろから足音が聞こえてくる。そこで、さっきのように言うと、足音がしなくなるという怪異だ」
「へえ……。まさに、今みたいな感じですね」
そうしていると、急に後ろからライトの光が差し、前方が明るくなった。
「少し避けよう」
桐人がそう言って、朝葵をかばうようにして距離を詰めると、2人のそばを白いワゴンがゆっくりと通り過ぎていった。民家の塀と桐人に挟まれ、朝葵が顔が熱くなっていくのを感じていると、桐人が車の方を向き、怪訝な顔をして言った。
「大きな車だな。この辺のナンバーじゃないし、道に慣れてないのか」
2人が歩いているのは、住宅街の中の狭い道だ。この道は大通りに通じているが狭いので、住民以外の車はこの道を通らず、駅前の方まで迂回するのが常だった。
(確かに……)
ワゴンは頼りなげに、民家の間をふらふらと走りながら遠ざかっていく。後部座席の閉められたカーテンが、道の凸凹にあわせて揺らいでいた。
「間違っちゃうことはありますからね。無事に大きな道に出られたらいいんですが」
と、朝葵は言い、心配そうに車の後ろ姿を眺めていた。
一方、桐人の方も、朝葵が普段と同じ様子に戻ったのを見て、ほっとしていた。
(変に緊張させて、すまなかったな……)
桐人も馬鹿ではない。望月叶がどういう意図を持って、朝葵を桐人に預けたかは気づいている。しかし、桐人の方も、朝葵とどうこうなろうというつもりはなかった。
(もっと、ふさわしい相手がいるだろう)
今日に限っては、夜道を一人で帰らせるわけにもいかないから引き受けた。朝葵は人に気を遣って無理をしがちだから、今夜だって自分で何とかしようと思っていたに違いない。
何度も朝葵の相談を聞いてきたから分かるのだ。
後輩の身の安全が保てるのなら、自分のこの怖いとも言われる愛想のない顔や、無駄に高い身長もまあまあ役に立つというものだ。
「車のライトが無くなったら、また暗くなっちゃいましたね」
桐人を見上げた朝葵の顔は、くるんとした大きな目が印象的で、可愛らしい。つややかな黒い瞳は、桐人をまっすぐ見つめていた。
「ああ」
社交的で可愛く、性格もいい後輩の女の子と、無愛想で人見知りの自分。不釣り合いなのは誰に聞いても分かりそうなものだ。
同じ大学に通う、うるさい従兄は「何言ってんだよ~。逆に誰が見ても、吉良ちゃんは桐人が好きでしょ~」などと言うのだが、面白がっているだけだと思う。自分は、彼女の相談相手程度でいいのだ。むしろ、彼女のために自重しなければならないくらいだ。
しかし。
――先輩に話を聞いていただくと、私、気持ちが落ち着くんです。いつもすみません。
そう言われて、断れる先輩がいるだろうか。いや、先輩だからだけではなく……。
「先輩、今考え事されてます?」
桐人が気がつくと、朝葵がまた顔を覗き込んでいた。どうやらいつの間にか、立ち止まってしまっていたらしい。
「ああ、悪い」
「いえ、いつものことですから」
そう言って、朝葵はふふっと笑った。
桐人は考え込むと、動きが止まってしまう。この癖のせいで、何度も叱られたり嫌味を言われたりしてきたが、朝葵は笑って、桐人が戻ってくるまで待っていてくれる。
(迷惑をかけることしかできないんだ、俺なんかは……)
この癖がより、桐人を人から遠ざける。家族や親戚は諦めてくれているが、他人はそうそう許してはくれない。朝葵は、稀有な存在なのだ。朝葵が優しいからと言って、うぬぼれてはいけない。
「さっきの車、無事通れたみたいですね」
もうすぐ道を抜けるところまで来たが、先ほどの車は見当たらなかった。朝葵の言うとおり、広い道に合流できたのだろう。
朝葵の下宿は、大通りを越えた先にある。今で、やっと道のりの半分だ。大通りをまたぐ歩道橋の前まで来ると、朝葵は言った。
「このあたりで大丈夫ですよ。ここからは明るくなりますし……」
「いや、しかし……」
歩道橋を渡れば、また同じように暗い道が続く。朝葵が遠慮をして言っているのが、桐人には分かっていた。実際、朝葵は不安を押し隠すように笑顔を作っている。
桐人が返事をためらっていると、通りを走ってきたバスが、キイッと高い音を立てて止まった。音に驚き、2人がその方向を向くと、バスの前方のドアから女性が1人、転がるように飛び出してきた。
「えっ……」
女性はそのままへたり込んでしまったが、バスは構わずドアを閉じ、そのまま走り去ってしまった。
朝葵と桐人が女性の元に駆け寄ると、女性は座り込んだまま、真っ青な顔ではあはあと肩を上下させていた。
「大丈夫ですか?」
「……」
朝葵が声をかけても、しばらく女性は反応しなかった。目を見開き、恐怖で引きつったような表情で、空っぽの道路を食い入るように見続けていた。
「あの……」
もう一度朝葵が声をかけると、女性は初めて気づいたかのように、ぐるんと顔を朝葵たちの方へ向けた。
「だ、大丈夫です。何ともないですから。本当……」
朝葵たちとあまり年齢の変わらないような、若い女性だった。しかし、シンプルなスーツにパンプスという服装からは、学生ではなく社会人であるように見えた。
「お怪我とかはないですか?」
「いえ、いえ、お構いなく……」
脱げかけたパンプスを慌てて履きながら、女性は立ち上がった。朝葵がさらに声をかけようとするのを遮るように、「大丈夫ですから」と言い、バスとは逆の方向に逃げるように走って行った。
残された朝葵と桐人は呆然としていたが、桐人が先に口を開いた。
「……やっぱり、家まで送っていこう」
「あ、はい。……お願いします。」
さっきの出来事でなんだか落ち着かない気分であったし、この後1人で帰るのは、実のところ不安だった。朝葵は、桐人の提案を素直に受け入れることにした。
2人が歩き始め、歩道橋の階段を上がりきったところで、急に桐人が立ち止まった。どうしたのかと朝葵が様子を窺うと、桐人は腕を組み、眉根を寄せて、じっとバスが去った方向を見つめていた。
お読みいただいてありがとうございます。次の話より、少しずつ内容が進んでいきますので、ぜひ引き続きお読みいただけると嬉しいです。