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Leak -Think again-  作者: 冬野柊
3/3

2.ミッドウィークの晴天

-----半年後の2023年7月。


この週は先週に引き続き、雨が多い。まだ関東の梅雨明けは宣言されておらず、かと言って雨のおかけで気温が下がるわけでもない。

鬱陶(うっとう)しい湿気に(さいな)まれる憂鬱な期間である。


椿(つばき)理人(りひと)は今日も忙しなく業務をこなしていた。

株式会社Scintillait(サンティーエ)という、主にアパレルブランド「Scintillait」を取り扱う企業で彼は営業部第一営業課課長を勤めている。元々は学生時代から店舗でアルバイトをしており、そのまま新卒として入社。早くして店長を務め上げ、今は本社勤務と変わった。決して大きな会社でもないscintillaitでは、彼にかかる負担ももちろん大きい。日々奔走しているが、充実していると言う実感もある。何よりこの仕事も、このブランドも好きな椿理人にとっては、天職だと思うほどだった。そして、この日は午後から新たな出店交渉へ、都内の商業施設へと出向くスケジュールとなっている。椿理人は朝から、そのプレゼン資料の最終チェックに追われていた。ある程度を部下に任せており、彼らが必死に作ってくれた資料に目を通し、成長も感じていた。しかしながら彼は昨日まで別の出店交渉もあり地方へと出張していたこともあり、流石に疲れの色が隠せなかった。体力の限界を感じつつそれでも時間は待ってなどくれず、何事も無かったように流れていく。たとえ疲れて道端で立ち止まろうと、待ってくれない。待ってるのは大量の業務だけだ。学生の頃をふと思い出し、あの頃はまだ責任はなく、自由が溢れていた。「人生の夏休み」などと揶揄(やゆ)されているが、まさにその通りだと、社会に出て痛感している。懐かしさに浸る余裕さえ与えてくれない時間の有限に椿理人は辟易(へきえき)としていた。今日は取引先に出向し、そのまま直帰の予定となっている為、全社員の出勤時間より少し早く出勤し、業務にあたっている。静まり返ったオフィスで1人でいる分、時計の秒針が進む音が爆音の如く耳をつんざいてくる。やがて集中力さえ削いでくるその一定のリズムの爆音。居ても立っても居られなくなった椿理人は喫煙所へと逃げた。


「椿先輩早いですね!まぁ早く来てると思ってたんですけど!はい!どうぞ!どうせ書類に目を通してて疲れたんでしょ。」

椿理人に向けて、微糖のコーヒーを差し出しつつ、あたかも全てをお見通しかのような口ぶりの彼女は弥勒(みろく)莉宙(りそら)だ。今年の4月に、高卒新卒として入社し、それからずっと椿理人の下に就いている。先日の出張も彼と共に出向し、新規出店のプレゼンを手伝った。仕事ができない割に口だけ達者な新人も多い中、弥勒莉宙も、Scintillaitの店舗スタッフとしてアルバイトを経てから社員になったこともあり、ブランドについて詳しく知っておりどのようなブランディングで出店するのかも、ある程度教えれば理解する。今となっては椿理人の右腕の1人である。

「あのな、莉宙。俺は何回も言ってるだろう?苦いのは苦手なんだよ。疲れてる時は糖分だろ、糖分。」

しっかりとコーヒーを受け取っておきながら文句を言っている椿理人は、ハラスメントの塊以外何者でも無いように見えるが、それに対して特に反論もせず無言の笑顔を返す弥勒莉宙の、その態度を見ればそれもまた2人の関係性を表すのかもしれない、と言えば聞こえがいいのだろうか。

「それにしても莉宙、来るの早くないか?なんか仕事残ってた?」

昨日は何の残務も残してないというよりは、弥勒莉宙に任せた仕事はないはずで、特に早出(はやで)をする理由は無いはずだった。

「いやぁ、そうなんですけど、昨日帰ってる時に、天下野(けがの)さんから連絡来て、明日の新規出店の書類手伝って欲しいって言われたんですよ。」

天下野(けがの)神馬(じんば)も椿理人の下で働く部下の1人である。寧ろ、弥勒莉宙よりも長く共に仕事をしてきた仲間であり、椿理人も信頼を寄せる人物である。第一営業部のエースの時期候補と言っても過言ではない。無論まだまだ椿理人自身エースの座を明け渡すつもりはない。などと誇らしげに物思いに(ふけ)っていると、弥勒莉宙が言葉を続けた。

「でも、来てないんですよ!早出して終わらせよう!ランチは俺が奢る!とか言ってたくせに!」

まだ、通常の出勤の時刻であれば遅刻扱いにもならない時間だが確かに天下野神馬の姿はまだ見当たらない。ランチをご馳走するお金がなくてトンズラするなどと言うことはまず考えつかない。流石にそんなダサい男でもないし、後輩との約束だ、最悪その状況なら適当な嘘で乗り切る事くらいできるはずである。無論、遅刻の可能性は誰しも否定はできないが、列車の遅延などやむを得ない事情以外での天下野神馬の遅刻は思い当たらない。入社当時はあったかもしれないが、思い出せる範囲で寝坊による遅刻はしていない。それに当然、この時間までくればいかなる理由での遅刻であったとしても、連絡が来ているはずである。しかし、その連絡は椿理人のところには届いていない。

「もう!こんな可愛いレディとの約束をすっぽかすなんて!!信じられない!!」

そんな弥勒莉宙の戯言(たわごと)を冷やかな目で睨みながら華麗に無視をして喫煙所を出た。我々が気づいていなかっただけで、実は天下野神馬は出勤しているのではないかという淡い期待を抱いてオフィスを見渡したが、その期待は脆くも崩れた。どこにも天下野神馬は見当たらない。そしてまもなく、勤務時間定時を迎える。天下野神馬は現れない。無論、連絡は続けているものの応答は無い。

このままでは所謂(いわゆる)無断欠勤となってしまうのだが、そのような行為をするような人間には到底思えない。疑問を抱きつつも、アポイントメントの時間は迫っている。それをキャンセルは出来はしない。しかし、今回は天下野神馬にある程度プレゼンについては任せていた。フォロー程度はするつもりでいたから、プレゼン自体を椿理人がすることについては問題はないと自分では思っている。資料自体も完成前のものは社内共有フォルダに保存もされているので、手直しして完成させるくらいは残りの時間で何とかなるだろう。しかし、天下野神馬は今日のための資料を早出して仕上げようとしていたのだろう。前の晩にそのようなことを後輩に頼む人間が、当日無断で休むなど考えにくい。そんなことばかりが頭をよぎりプレゼンのことに集中が出来ない。前髪をかきあげ、脳内で状況を整理し、何が最善なのかを考えて、プランを立てる。いや、そんなものをしなくとも、最優先はどう考えてもプレゼンだ。間違いもなければそれ以外の選択肢などありはしない。それは脳内でも答えは出てた。だが、天下野はずっと一緒に頑張ってきた1番の部下だ。おそらく何かがあったに違いない。あいつを助けなくてはいけない。そんな思いが、椿理人の思考を邪魔していた。しかしそんな状況を弥勒莉宙は理解していた。彼女も期間さえ短いが、ずっと椿理人と仕事をしてきた。彼のこともある程度理解しているし、天下野神馬とも仕事をしていた。2人の関係性もずっと(そば)で見てきた。椿理人がどんな思考になっているのかも想像に難くない。

「もう!!天下野さんには私が連絡取り続けますから!!先輩は早く資料仕上げてください!確かに天下野さんが頑張った案件ですけど、代わりに成功させられるのは先輩しかいないでしょ!!来ない人待ってても時間は過ぎちゃうから!何してるんですか!冷静になってよ。」

自分の立場も上になり、こんな風に核心をつくような指摘を堂々と椿理人にしてくる人はなかなかいなかった。後輩の叫びでようやく椿理人は我に返った。凝固していた血が一気に溶けて脳内へと流し込まれるように、彼の思考も息を吹き返した。

「ふぅ。莉宙。ありがとう。すまないが、天下野が作った資料に目を通しておいてくれ。多少の手直しと補足はするがベースはそれで行くつもりだから。なんか変なところとかないかも一応。俺は人事課に行ってくる。」

人事課には椿理人の同期のとある人物が配属されている。おそらく椿理人はその人物に用があるのだろう。

「営業部第一営業課の椿です。諫早(いさはや)、いますか?」

受付担当にそう告げると、受付の女性社員はその人物を呼びに行った。そして、明らかに気だるそうに足取り重くその人物は椿理人の元へとやってきた。

「何?」

目をあわせるや否や、不躾(ぶしつけ)に質問を投げかけてきたこの人物こそが、椿理人の同期、諫早(いさはや)(しのぐ)である。課は違うものの、入社当時からずっと仲はいい。役職者となり、自分の相談をする人間が減ってきた椿理人にとっては数少ない理解者である。

「わざわざ凌を呼んでるんだ。それなりのことだってわかってんだろ。」

目と目を合わせ、それだけで諫早凌は椿理人の言いたいことを大体理解していた。

「先に申請通さないと無理だよ。」

言われる前に釘を刺す。それがいつものお決まりのパターンである。当然ながらそんなことに椿理人は聞く耳を持つわけがない。

「天下野が来てない。連絡もないんだ。家に行きたいから住所を知りたい。頼む。」

お構いなしの依頼に諫早凌は深くため息をつき、何かを突き刺すほどに鋭い目で椿理人を睨む。

「あのな。無断欠勤の社員にも段階踏んでアプローチをするようにマニュアルがあるだろう?ご家族にまずご連絡して、ご家族から連絡していただいて、それでも…」

話を制止するように、椿理人はデスクを手で思い切り叩く。

「一刻を争うかもしれないんだ。命に関わるかもしれない。人の命、マニュアルに預けんのか?」

椿理人の目も諫早凌に負けず劣らず、その眼力だけで人を石にする魔法でも出せるほど鋭く、そして少しばかり殺気が滲んでいたように見えた。

「とにかく個人情報だ。いくらお前の頼みでもそれは呑むわけにはいかない。個人情報の漏洩は1番悪だ。ある程度の申請なら端折(はしょ)ってやってもいいがこれだけは無理だ。俺の立場も危うくなる。わかってくれ椿。すまない。」

その眼力に負けたように、申し訳ない仕草は見せるものの、諫早凌も一歩も引くことなく職務を全うした。彼らの意地の張り合いは今に始まったことではない。同期である2人のライバル関係は入社当時から変わらない。もう課も違うというのに大人気ない…そんな言葉を浴びせられてもおかしくない程である。とはいえ人事課からすればルールを破らせようとする椿理人の方が悪者に見えていることだろう。だからと言ってそれに付き合う諫早凌が正義のヒーローに見えてるわけでもなく、とにかく早く仕事をしてくれよ、という目で見つめているだけなのが関の山である。

「お疲れ様です。お取り込み中すみません、諫早さん宛に郵便物が届いております。」

2人の眼力から繰り出される火花を遮るように受付嬢が郵便物を配りに来ていた。

「ああ、廿六木(とどろき)さん、お疲れ様。ありがとう。」

そう言って諫早凌はバツが悪そうにその郵便物を受け取った。

「椿さんここにいらっしゃったのですね!お疲れ様です。郵便物が届いてたのですが、営業一課の方にお渡ししておりますのでご確認をお願いしますね。それでは。」

笑顔が眩しい受付嬢、廿六木(とどろき)芙美(ふみ)がそう椿理人に挨拶をしてから(きびす)を返し、エレベーターへと向かって行った。

「あぁ、廿六木。ありがとう。確認しておく。」

椿理人がそう短く返答をすると、廿六木芙美はこちらを振り向き笑顔で会釈し、エレベーターに乗り込んだ。

「わかった。じゃあその申請書?いつでも提出できるように作っといてくれ。それで手を打つ。こちらも連絡し続けてみる。忙しいのに邪魔して悪かった。」

冷静になった椿理人はそう諫早凌に吐き捨てるように告げて特に諫早凌の返答を待つこともなく、こちらも踵を返し、営業一課へと戻っていく。深く大きくため息をつきながら、諫早凌もデスクへと戻ると、後輩社員の福生(ふっさ)空路(そらじ)が慌てた様子で諫早凌に駆け寄ってきた。

「い、諫早さん…あのすみません、聞こえてしまったのですが…。天下野くん、来てないんですか?」

福生空路は、悪戯がバレた子供のように今にも泣きそうなほどオロオロとしていた。

「あぁ。詳しくはわからないけど、そのようだ。椿があれだけ焦っていたからな。よく椿と飲んでると話には出てくるけど天下野くんは相当優秀なようだし、無断欠勤は確かに考えにくい気はするけど、まぁまだ起きてないと言う可能性もこっちとしては捨てきれないからなぁ。」

椿理人があの形相で詰め寄ってきたと言うことが、どれだけの緊急事態かを物語っていた。それは同期として諫早凌が1番理解していたつもりだ。だからこそ、自分が正しいはずなのに押し潰されそうな程の罪悪感に苛まれているのだろう。

「寝坊しました、すみません…で済んでくれたらそれでいいんですけどね。僕も電話してみましたけどやっぱり応答なくて、既読もつかない。まぁ…既読付く状況ならもう出社してるでしょうけど。」

それはそうだな、という代わりに諫早凌は強くうなづいた。部署は違うが、椿理人と仲がいいだけあって、天下野とも少なからず関わりがある。3人で居酒屋で時間を忘れて飲んだそんな金曜日もあった。ルールに則り、適切な判断をしたとは言え、気には、なる。

なかなか業務に集中できない諫早凌は一旦喫煙所に逃げた。自分を落ち着かせることに必死だった。そしてそこには先程言い争った椿理人の姿があった。指で軽く「コンッ」と叩いただけで簡単に割れてしまいそうなガラスのごとく、空気は張り詰めていた。その静寂は2人を飲み込み、心臓の鼓動の音だけが五月蝿(うるさ)くビートを刻んでいた。だが次の椿理人の一言で、諫早凌は彼がどう言う精神状態にあったのか、咄嗟に理解してしまった。

「凌、さっきは声を荒げて悪かった。大人気(おとなげ)なかった。申し訳ない。課の人にも謝っておいてくれ。」

そう言った後、椿理人は最後に煙を肺に押し込んで、それを低い天井に吐いてから、喫煙所を出ようとした。多くの時間を共に過ごし、苦楽も2人で感じてきた同期の2人。絆がそこにあることは間違いない。でもそんな2人の関係性だからこそ、簡単に椿理人が謝ってきたことなど、今まで一度も無かった。そこに仕事が絡んでいようがいまいが、彼は自分からは謝らない。結果として謝っているとイコールの内容としても「ごめん」「すまない」という謝罪を表す単語は使ったことが無かった。諫早凌は言葉を失ってしまった。素直に謝ってこないのは、2人が固い絆で結ばれているから過疎だと思っていたからだ。諫早凌だから、椿理人はその態度が取れたのだと。そう信じていたからこそ、許せていたところもある。しかし、今、自分の目の前で椿理人は謝ってきた。まるで急に遠ざけられたような気がした諫早凌は妙な悲しみさえ感じていた。彼らがそれぞれ、その目に宿した感情は何だろう。答えは出るわけないけれど、おそらく2人ともそこに悲しみを宿していたことだろう。そして諫早凌はそこに椿理人の決意も感じていた。自分で解決すると言う。真実はわからない。でもそう感じたら、もう彼を呼び止めていた。

「椿!!」

その声に椿理人は立ち止まり、諫早凌の方へと振り返る。そして、言葉を繋ごうとした諫早凌よりも早く、彼が言葉を紡いできた。


「凌。もう大丈夫だから。この件は、お前には関係ない。」

その言葉を聞いた諫早凌は、ふっ、と笑い、やっぱり、と呟いた。


「営業一課長さんは本当格好付けたがりますね。何の宛もないくせに。しかもこれから出店交渉ですよね?」

痛いところを突かれ、椿理人は俯いて無言になってしまう。

「だとしても放って置けないだろう?天下野は俺の大事な部下だ。正直出店交渉をキャンセルしてもいいくらいだぞ。」

椿の精神状態は明らかにいつも通りではなかった。

そんなところを運悪く弥勒莉宙にも見られてしまう。

「先輩!!ここにいた!!早く行きますよ!!出店交渉!!…諫早さん?ははーん?なるほど!」

本当に色々読み解くのが上手い弥勒莉宙は全てを悟った。そして次の一手を誰より早く言い放つ。

「天下野さんのことは、諫早さんに託しましょう。そういうシーンで間違いないですよね!?」

完全に2人は弥勒莉宙のペースに飲み込まれ退路を塞がれた格好である。

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